ルナフェリスの花嫁
夜のハーモニア大学附属学院は、湖の上を妖精や精霊たちが飛び回り、それがマザーAI・ハルモニアのセキュリティの光と重なって幻想的な空間を作り上げてる。
耳をすませば、昼間のナマル=イグとは違う「微かな鈴の音」が風に乗って響く。マダム・ティムが言うには、今はルナグレインの収穫の時期だから、豊穣の妖精が月光に感謝の詩を歌っているそうだ。
高等部校舎の壁を登りながら、昼間の事を思い返した。
アヤカのウェディングドレスを見た時に感じた「不快感」
指先が微かに震えて、脳が熱くなり、冷汗が滲み出る感覚。これを初めて感じたのは、1年前。アヤカと「アウリスの鎮魂歌」を聞いた夜の次の日だ。
婚約者となったアヤカがレオ君と一緒にいるのは当然の事で、レオ君のボディガードとなり2人を見守りたいと言ったのは、他でもない僕だ。それなのに……体が、本能が訴える。
――彼女が他の男と一緒にいるのなんて見たくない、と。
「2人が結婚したら……僕はこの壁を登り続けることができるのか?」
『感情更新。ラベル=『嫉妬』。強度レベル4。リュウ、心拍数上昇を検知』
左腕につけたスマロが自動的に起動して、16インチのホログラムが空気中に現れる。そこに表示されているのは、猫耳のついたスライム型のゆるキャラ「すニャいむ」だ。
『リュウ、呼吸を整えてください』
「ああ、ありがとうノーエ」
すニャいむやスマロじゃない、君だけの名前を。1年前の約束通り、僕は彼に名前をつけた。名前を呼ぶたびに耳がぴくぴく動かすのは「嬉しい」時にとるAIモーションのひとつ。
……僕はノーエをただのAIじゃなくて、大切なパートナーと思ってる。こんなに喜ぶなら、もっと早く名前を考えてあげればよかったと思ったくらいだ。
『では、感情記録を表示します』
ホログラムに僕の1日の「感情」が30分置きに記録された折れ線グラフが表示された。それを見て、思わずため息が漏れた。
「リラックス、リラックス、嫉妬、嫉妬、リラックスリラックス、嫉妬……僕はこんなに嫉妬してたのか」
『健全な記録です』
「嫉妬は健全なのか?」
『規定マニュアル3.2に基づけば、嫉妬は成長に不可欠な感情です。ただし、使用法によります』
「使用法、か」
列柱に手を伸ばせば、あの日よりも濃くなった左手首のアザに目が止まる。「レム化」の前兆であるこの痣は、僕が負の感情を感じる度に侵食するようにじわじわと広がっていく。
僕はいずれレム化してしまうのだろうか……? そんな不安を感じながら、更に上に登るために脇の窓に手をかけた。
『リュウの傾向:アヤカがレオ様とデートする時、手を繋ぐ時、走って行く時。強度レベル5に達する嫉妬を検知。依存に分類されます』
気が抜けて、伸ばした手がずり落ちた。
『これはアヤカにそんなにひっつくな、という無意識の現れであり、思春期の少年の極めて自然な』
「ノーエ、からかってるのか?」
軽く擦りむいた指先の血を舐め取りながらホログラムを見ると、感情曲線に「怒り」の表記が追加されてる事に気づいて肩を落とす。
怒り……今のが、怒り?
『からかい機能は搭載されていません。私はリュウ成長記録を任された責任として、事実を記録しています。しかし、リュウが耳を赤くして否定するのは興味深い現象です』
そう言って体をいつもの2倍の速度でぽよぽよ弾ませるノーエは明らかに「上機嫌」だ。
「わかった。じゃあ嫉妬の正しい使い方っていうのはあるのか?」
——負の感情は「レム化」を進行させるらしい。
それを避ける為、僕は定期的に「ゼロの領域」を使って心を落ち着ける事が日常となった。1年前まではこんな感情、感じることすらなかったって言うのに。
『イサム博士は私達スマロに「use-01嫉妬システム」を搭載しました。生徒と共に成長する為、そして生徒が他の電子機器に心を奪われないようにする為です』
「つまり……心を独占する為ってことか?」
『……その解釈は否定できません。持ち主の生徒の一番役に立つ存在であること。それが私達AIの存在意義であり「嫉妬」はその為の動力とプログラムされています』
つまり僕が「嫉妬」してるのは「僕が欲しいものをレオ君が持っている」からで「それを手に入れる為の努力に繋げる事」が本来の嫉妬の使い方らしい。
レオ君が持ってる僕の欲しいものって何だ? そう思った瞬間アヤカの顔が浮かんで、はっとして頭を軽く振る。
「彼女を見守る。それがボディガードの務めだ」
『それは私達AIと似ています。決して1番にはなれませんが、傍にいる為に尽くす。それが私達AIです』
AIと似てる……確かに「影縫い」で人殺しを淡々と繰り返していた僕は、命令通り動くAIと似ているのかもしれない。
『……しかし、最近「use-01嫉妬システム」に予期しない挙動があります。リュウの変化に対する学習——または模倣か。私にはまだ判別できません』
「わかった。壁を登るから、少し集中させてくれるかな」
『了解しました。私は記録者として、リュウの感情記録を続けます』
……たまに感情に無頓着だった頃に戻りたいと思う事もあるけど、ノーエやダイスケはそんな僕を見て嬉しそうにするから、正直複雑だ。
*
壁を登り切ってテラスに降りると、ひやりとした空気が肌を刺す。ここは高等部最上階のガーデンスペース。学院に侵食する世界樹に、一番近い部屋だ。
そして、テラスの隅には一人の男が壁に背を預け座り込んでる。
「どうも、シオンさん」
「……」
黒い帽子に黒いコート、月の光が当たり銀色の艶を放つ白髪。いつも同じ場所にいる彼は、存在だけで異質な雰囲気を漂わせる。アヤカの見張りなんだと思うけど、寝てるのか、食事すら摂っているのかすらわからない。
「にゃあ」
少し高めの、甘えるような鳴き声。ミントグリーンの淡い毛色の子猫が、中央部屋の椅子に座る少女を心配するようにふんふんと鼻を動かしてる。
部屋を囲む白いリンドウ。ちょうど先週満開になったばかりだった……はずだったんだけど……花壇の一部が焼け焦げてる。「検診」で燃やされたんだろうとすぐに理解した。
「にゃあ」
「うん、わかってるよ」
子猫に急かされて彼女のそばへ。水の精霊が「悲しみ」に反応して発生させた冷気で、部屋の中は凍てつくように寒かった。精霊のエネルギーを得る為に、今日は花畑のリンドウを燃やしたんだろう。
拘束を解いて華奢な体を抱き上げると、前より少し体が軽くなったような気がする。頬には泣きはらした跡。なんとか笑顔になって欲しくて毎日運んでる花も、結局彼女を苦しめる一助になってるのか……?
ガラス張りの天井を見上げれば、世界樹が得たばかりのエネルギーの光を纏って淡い光を放ってる。
世界樹にエネルギーを与えないと、僕たちの世界のエネルギーは枯渇するらしい。イサム博士の「50年後崩壊説」はいよいよ現実味を帯びて、SNSでも定期的に話題になるようになった。
……皆はアヤカを、その危機から救ってくれる奇跡の少女――「救世主ネーファス」と言う。
「本当は拷問に近い苦痛を与えて、無理やりエネルギーを搾取してるだけなのに」
こんなの、タクミ君に「無言のNO」を突きつけていた時と変わらないじゃないか……!!
「リュウ?」
「!」
アヤカの方を見ると、ライトブルーの瞳がうっすら開き、僕の顔をじっと見てた。
「体調はどう?」
「大丈夫、だよ」
「ここは寒いから、外に出よう」
いつも通り「検診」の記憶は失ってるんだろう。焼け焦げた花壇が見えないように外に出ようとすると、アヤカが小さく首を振る。
「もう少しこのままでいてほしい」
そう言って僕の胸に顔を埋めて幸せそうに微笑む。
望めばなんだってしてあげるのに、アヤカが望むのは、いつもこれだけ。子供の頃澤谷さんのベッドに潜り込んだ時のことを思い出して、落ち着く……らしい。
そして、上目遣いで僕の瞳を覗き込んでくる。僕の瞳の奥に見えるっていう「心の色」を見てるんだろう。
「綺麗……」
妖精は綺麗な心を持つ人間に恋をするように惹かれる。アヤカは僕の心が「澄んだガラス玉のように綺麗な色」だと言って、たまに覗き込んでうっとりと見つめて来るんだ……けど。
――心の色は僕の「嫉妬」も反映されるものなのだろうか?
さっきのノーエとの会話もあって、それを彼女に見破られないかと少しだけ冷汗が滲む。アヤカが首をかしげながら、更に覗き込んでくる。
しばらくじっとしていたけど、この至近距離は――限界だ。
「あっ、ごめんなさい」
「い、いや……いいんだけど」
耐えきれずに視線を逸らしてしまった。心臓が……煩い。
「リュウ、ここ怪我してるね」
僕の動揺に気付いたのか、アヤカがさっき擦りむいた僕の指の怪我に話題を変える。少しだけほっとしながら彼女をベッドに座らせ手指を見ると、先端からうっすらと血が滲んでた。
「ああ、大した事ない……」
言い終える前に、アヤカが怪我をした指を両手で包み込む。彼女が祈るように目を閉じた直後――怪我の部分が精霊の淡い光に包まれ、みるみるうちに傷が癒えて行った。
これはアヤカが「救世主」と呼ばれる理由の一つ――「癒しの力」だ。
「……昼間もたくさん治療して、疲れてるだろう?」
「そんな事ないよ。それにリュウに怪我、してほしくないの」
いつものような柔らかな微笑みを浮かべ、アヤカはテーブルに置いてあったポットを手に取った。
「今日はね、リュウにルナリア茶をご馳走したくて用意してたんだ」
*
ポットから注がれるのは、精霊の光によく似た淡い青の光を放つお茶。小さな光が星のように煌めき、まるで夜空の一部が注がれてるみたいだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
月の光を浴びて淡い青の光を放つ葉――「ルナリア・セレニス」
月芝やルナグレインと同じように、学院内には見たことのない植物が所々に生えるようになった。それを天日干しして作るお茶は、マダム・ティムの故郷で祭事から普段の滑降品まで、広く飲まれていたらしい。
「妖精や精霊たちには感謝するべきなんだろうな。彼らがいなかったら、ここでの自給自足はとても無理だった」
このハーモニア大学附属学院に閉じ込められた2000人の生徒。食料が底を尽きるのは、あっという間だった。
もちろん外からの物資も届く。富裕層が好む高級な国産米やパン、ナノバイオ肉が主流の時代だって言うのに、分厚い和牛の切り身や、マグロの刺身が届いた事もある。でも、それらはレオ君や限られた富裕層の生徒が独占して、僕たちの口には入ることはない。
「……ごめんなさい」
「アヤカが謝ることじゃない」
レオくんの妻になる彼女には同じように特別な食事がを与えられるけど、アヤカはそれを学院内で誕生日を迎える子たちに「プレゼント」として振る舞ってる。その時は決まって、この妖精の祝福を受けた特別なルナリア茶を煎れてくれるんだ。
「あと2週間……皆と心を一つにできるといいな」
2週間後、アヤカはレオくんと結婚する。
その後はレオ君の妻の務めを果たす為「卒業」するそうだ。……もちろん、そんなの建前で、この場所に隔離されてエネルギー生成の為の検診を毎日されるんだろう。
「アヤカ、やっぱり考えは変わらないのか?」
結婚は彼女が「資源」として確立する事を意味する。「僕達」だって、何もしてこなかったわけじゃない。彼女を救う為の計画は練ってきた。けど……
「ルナフェリスはきっと起こせる。その為に頑張ってきたんだもの」
ルナフェリス——奇跡の麦・ルナグレインの収穫の時期にだけ現れると言う、巨大なエネルギー現象。
アヤカはこれをマダム・ティムに教わり、実現する為の活動をしてきた。
誕生日を迎えた生徒に食事のプレゼント。怪我をした生徒の治療を率先して行うこと。そして……「検診」を拒否しない事。
「お父さんが昔、教えてくれたんだ。謙虚であること、人の親切を忘れずに学び続けること。困難は再生の前触れで、日常の中に幸せは隠れている……って」
アヤカは諦めない。検診で大切なものを何度も奪われてるっていうのに、人を信じ続けてるんだ。
彼女の澄んだライトブルーの瞳は、寸分の疑いも宿さず輝いていた。だから、僕は彼女の意思を優先しようと思ってる。
共存——それが本当に可能なら、誰一人犠牲にせず、世界のエネルギー危機も、この学院も救えるはずなんだ。
*
アヤカと過ごす時間は、あっという間に過ぎていく。
今日はよほど疲れたんだろう、気がつけば寝息を立てていたアヤカをベッドに寝かせて、来た時と同じ壁から降りる為にテラスに向かう。シオンは来た時と同じように壁に背中を預けてじっとしてる。
……微動だにすら、しない。
「彼女を救えるとでも?」
背後から話しかけられて、振り向くと、シオンが少しだけ視線を僕の方に向けていた。
「僕は彼女のボディガードです。彼女が望む事を叶える。それが務めです」
「では、彼女が死を望んだら君はその通りにするのですか?」
死……?
「アヤカがそれを望んでるって事ですか?」
「望む事を叶えるとは、そういう事でしょう」
少しだけ顔を上げたシオンの漆黒の瞳が、月の光に照らされて微かに赤く光る。この男は一体何を考えてるんだ……?
「そんな事にはさせません」
それだけ言い残し、僕は壁を降りた。
*
学生寮に戻る為に、ハーモニアレイクを縦断するアウリスブリッジを渡っていると、昼間も聞こえた「泣き声」が聞こえる。誰が泣いているのかはわからない。でも、異様に気になる声だ。
もし本当に泣いているのなら――なぜ泣くのだろう。
「ノーエ」
呼びかけると、スマロのホログラムが目の前に表示された。
『なんでしょう?』
「妖精が泣く時って、どんな時なんだ?」
『妖精に感情はありません。ですが一般的に人間の場合は、感情は何かを訴える時に表出します。怒りは思い通りにならない事への恫喝。笑いは喜びの共有……』
「じゃあ、泣く時は?」
人間の事例でも、何か手掛かりになるかもしれない。
『泣く行為は「助けを求める」か「別れを告げる」時に多く観測されます。涙は感情の過剰排出であり、同時に記録でもあります。声や涙の痕跡は、周囲に“ここに心があった”と知らせる仕組みです』
……つまり、この声の主は、誰かに何かを訴えたいという事か? 泣く妖精なんて見た事ないけど……。
やがて声は聞こえなくなって、豊穣の妖精達が月に捧げる感謝の鈴の音だけが静かに響く。
「あれ、君は」
月に重なっていた「淡い白の光」が僕の目の前でふわふわと浮かぶ。これは……1年前、アウリスの鎮魂歌を聞いた夜に初めて会った、白い光だ。
ドクン。
心臓の鼓動のような音が聞こえる。僕の手のひらの半分くらいの大きさ……精霊とは違うのか? 光はしばらく飛び回った後、僕の左肩に羽を休めるようにとまり、そのまま動かなくなった。
寝てるのか……?
しばらく様子を見ていたけど動く気配はない。僕は光を肩に乗せたまま、寮へ戻った。




