祝福のナマル=イグ
ハーモニア大学附属学院は、都会に囲まれた湖の中心に浮かんでいる。都会と学院をつなぐ水上道路には立派な門が設置されていて、そこにはこう書いてある。
SALTUM IMAGINATIONIS IN FUTURUM ACCIPIANT
QUI PER HUNC PORTAM INTRANT
(この門をくぐる者、未来を想像する跳躍を得よ)
跳躍は、無限の可能性を示唆するけど、跳躍できなかった生徒はどうなるんだろう? そう思いながら、あの門を潜ったのは、3年半前の事。
もし、僕が盲目のホドなら……今のこの光景を「エデンの園」と呼ぶんだろう。
*
黒い制服の袖に銀糸で刺繍されているのは、左胸の校章を縁取るヤドリギと同じ模様。「成人」をモチーフにした、ハーモニア大学附属学院高等部の制服だ。
鼻をつくのは、根菜を炒める香ばしい香り。一緒に炒めているのはさっき僕達が釣ったばかりの魚だ。
淡水魚独特の泥臭さを抜くために昨日収穫したばかりの「ルナリア茶」に漬けられた魚「エーリスコ」は、身が引き締まって淡白な味なんだけど、不思議な事に、エビみたいな独特の甘味と味わい深さもある。パリッと焼かれた皮目から滲み出る油が、その深い味わいを生み出してると言ってもいい。
それを絡めるのは、四角い断面を持つパスタ「キタッラ」だ。
ポロロン、という音に視線を向ければ、カフェの調理を一任されてるマダム・ティムの威勢の良い声が響く。
今の音はキタッラを作る為の器具の音色。楽器のような弦の間にパスタを押し込んで、音を弾いて振り落とす。こうやって作るヨーロッパの伝統的なパスタがキタッラというらしい。
でもマダム・ティムはヨーロッパを知らない。どうしてキタッラを知ってるのかというと、彼女の故郷で良く作られていたそうだ。
黒い簡素なワンピースに銀色の髪を一つに結い上げ、マダム・ティムが大皿に盛り付けられたパスタを運んできた。彼女は高い鼻をひくりと鳴らし、シワの刻まれた顔に柔らかな微笑みを浮かべる。
「うん、とてもいい香りだ。さあ、次のパスタができたよ。たんとお上がり」
天井まで昇る開放的な窓から差し込んだ朝日に、出来立てのパスタの湯気がふわふわと映る。
その背景の白と青で統一された壁には所々「木の根」が侵食するように這い、異界の文字のようなものが刻まれ淡い光を放つ。これは僕たちの学院に精霊界の一部が現れた証拠だ。
待ってましたと言わんばかりに、パスタをとりに集まる生徒たち。このカフェがバイキング形式になったのは、1年前の事だ。最初は不平不満を漏らす生徒が多かったけど、慣れは恐ろしいもので、今ではマダム・ティムの新作料理が出るたびに皆目を輝かせるようになった。
そして、僕の目の前にいる2人の生徒も、まさにそれだ。
「ほら、カレン。お前の分も取ってきてやったぞ」
大皿のパスタにいち早く駆け寄っていったダイスケ。機嫌良さそうに笑う彼の若干癖の入ったダークブラウンの髪が微かに揺れ、カレンは眼鏡を掛け直しながら小さくため息をつく。
「あなた、もう5杯目じゃない」
「いらねぇのか? じゃあ俺が全部食うぞ」
不機嫌を露わにする彼女の緑色の瞳。そんな事はお構いなしと言わんばかりに、ダイスケはにこにこと笑顔を浮かべカレンに皿を差し出す。
クールな彼女も、艶やかな麺に絡む魚介の香りには根負けしたみたいだ。ため息と共に皿を受け取るカレンに、ダイスケは小さく笑いが溢した。
「そうそう、そんぐらい食わないと胸以外のところに栄養いかねぇぞ」
「……下世話ね。それにリュウよりは食べてるから問題ないわ」
「……僕を口論の話題にしないでくれる?」
この2人の喧嘩を仲裁するのは、もう何度目だろう? 今や日常の一部となったそれを聞きながら、僕も2杯目のパスタを口に運んだ。
鼻に抜ける燻製のような香り高さが後を引く。僕たちの世界で言うならアーリオ・オーリオと言うんだろう。弦を弾くときにできた微妙な段差に魚介のソースが絡むらしい。相変わらず、マダム・ティムの食事は美味しいな。
もしエデンの園というものがあるなら、きっと──こんな場所だろう。
でも、この楽園は同時に檻でもある。
──僕たちは、この「ハーモニア大学附属学院」に「閉じ込められて」いるからだ。
ほんの1年前まで、ここはアヤカと良くパフェを食べに来た優雅なカフェスペースだった。でも今は、生徒たちが所狭しとテーブルに集まり、談笑しながら食事をしている。
……まるで大衆食堂みたいだけど、富裕層の子供も、一般家庭の子供も、力を合わせてここで「生きて」いるんだ。もちろん対立もあるけど、食べる事に関して背に腹は変えられないのは皆同じだ。
皆、お腹が空いてるんだ。僕たちは「開拓」の真っ最中だから。
*
お腹が満たされてカフェを出ると、目の前に広がるのは広大な「田園」だ。
と、言っても僕が慣れ親しんだものとは少し違う。水田はないし、稲の根元には時折ガラスのように澄んだ煌めきを放つ芝が広がってる。こんな場所で稲が採れるなんて、普通に考えれば異様な光景だ。
穂先は絹のような艶を放ち、淡い青の葉を力強く伸ばす麦・ルナグレイン。その収穫を祝福するように周囲で淡い光を放つのは、豊穣を司る妖精らしい。
この現象を、マダム・ティムはこう言ってた。
「世界樹の根に触れた大地にしか生えない月芝が生える場所に現れる、奇跡の麦・ルナグレイン。収穫祭では必ず豊穣の妖精が舞を捧げるんだよ」
豊穣の女神が「水ではなく月光で育つ芝」を湖畔に植え、生える麦で人と妖精がともに飢えを凌いだという。要は月の光のエネルギーで育つ月芝がルナグレインを生む。それを科学に置き換えると……
芝の根が土壌を覆い水分の蒸発を抑え、根圏に共生する菌類や微生物が土壌のエーテルにより活性化して窒素やリンを供給。麦は夜間の低温と露を利用して代謝を高める性質を持っていて、昼間よりも月明かりや涼しい時間帯のほうが成長しやすい──らしい。
つまり“月光で育つ”というのは、この土地の「特別な条件」が生み出した芝と穀物の根系共生による、類稀なる夜間生育適応と。
……あまり夢がないから、皆が信じてるのはマダム・ティムの言葉のほうだ。
「精霊の、風だ」
耳をくすぐるのは、マダム・ティムがパスタを作る時の弦の音に重なるような──
──自然美の妖精が起こす笛のような音。
──豊穣の妖精が起こす鈴の音。
──芸術の妖精が起こす地鳴りのような金属音。
──海霧の妖精が起こす歌声はまるで
それらが融合して奏でられる、異国の音楽ナマル=イグ。妖精達の共鳴が織りなす見たことも聞いたこともない音楽は、僕達の心に「安らぎ」を与えた。当然最初は皆が不思議に感じた。
アヤカに聞いた事だけど、これは妖精たちが「会話」している時発生するエネルギーの摩擦音らしい。
高等部校舎の方へ視線を向ければ、ハーモニア大学附属学院に侵食するかのように、力強く根を張る世界樹が映る。その周囲を子供がはしゃぐように飛び回るのは、鳥や蝶の形をした豊穣の妖精たちだ。
地鳴りのような音がゴォン、と一際低い音を響かせると、彼らは湖・ハーモニアレイクへ。
バシャ、と水音を立て舞上げられた湖水が、雨のように湖畔の花々やルナグレインの穂に注がれる。それは微かな「虹」を映し出し、あたりの生徒たちが歓声をあげた。
ーー妖精たちが、起こす、喜びと祝福の虹。
生徒たちの歓声が上がり、話し声が聞こえる。
「聞こえたか? 今豊穣の妖精は「嬉しい」って言ったんだぞ」
「どうしてわかるんだよ」
「妖精の起こす音の解読はな・・・」
妖精たちの会話を理解しようとしてるたいだ。でも・・・
「あいつ、また泣いてるな」
そう、呟いたのはダイスケだ。
ルナグレインの根元に降り立った鳥や蝶が、月芝をついばむ。食事を喜ぶような咀嚼音はまるで鈴の音のように心地よく耳に響くんだけど、ひとつ物悲しく響く音が混じってるんだ。
言語学が得意なダイスケは、外国語をニュアンスで理解するのと同じように、彼らの言葉の違和感に気づいたらしい。
それを聞いた時、思い出したのは、アヤカが以前僕に送ってくれた共鳴風だ。
妖精の言葉は、心で聞くもの。
誰かが「泣いている」……どうして泣いてるのか、わからない。でもなんとなく、気になるんだよな。
「おい、見ろよ」
ダイスケが顎で示したのは、高等部校舎の前に止まった大型トラック。あれは数ヶ月に一度、外から物資を運ぶ為にやってくる輸送トラックだ。
「トラックの運転手に感謝しないとね」
空に視線を向ければ、マザーAI・ハルモニアがこの学院を守るために張ったシールドが空にうっすらと膜が張ったようなきらめきを放ってる。
学院を守る為、外部からの侵入は許しても内部から出ることはできない。物理的な脱出はもちろん、SNSの情報もそうだ。
……つまり、あの運転手は、この学院から二度と出られないって事だ。
トラックから降ろされた真っ白なウェディングドレスは、レースが贅沢にあしらわれた豪華なものだった。
「おい、リュウ」
ダイスケはいつも口元に笑みを浮かべてる。けど、その黒い瞳は僕を刺すように向けられてる。これはダイスケが「観察」してる時の目だ。
「当ててやろうか」
「何を?」
「お前、イラついてるだろ?」
「……」
僕は小さくため息をついた。
「当てて嬉しいか?」
にかっと笑顔を浮かべ、親友は池のむこうに停車してるトラックを顎で示した。
「あれ、レオの趣味だろ? アヤカのイメージとは違うな」
ダイスケの視線の先には、荷物のひとつ、純白のウェディングドレス。
「レオ様、だよ」
過去の訓練で心の動きが鈍いのは相変わらずなんだけど、一年前に「ある感情」が僕の中に生まれた。
「嫉妬」という感情だ。
アヤカのウェディングドレスを見て僕が動揺したのを見抜いたんだろう。ダイスケは軽く頭を下げて、小声で呟いた。
「あー、あー、そうだったな。この学院に取り残された俺たちは、妖精の奇跡のお蔭でなんとか生き延びられてんだ。その橋渡しになったレオ様を崇めないといけないよな」
こんな事、周囲の生徒に聞かれたら一瞬で袋叩きに逢う。ダイスケはサポート教師という立場上、そんな事はできない。本来の彼ならはっきり「気に入らない」って言うんだろうけど。
「おい、見ろよ! レオ様だ」
「アヤカ様もいるぞ」
ざわめく生徒達の視線は、一斉にアウリスブリッジへ。そこに現れたのは、黒髪の男子生徒と、金髪の小柄な女子生徒。その後ろを数人の大人が護衛するように歩いてる。
「アヤカ……」
皆がデバイスのカメラを向け、撮影するのは、アヤカの姿。皆に軽く微笑を向ける彼女の瞳は何かを探すように、湖畔を見渡す。
不安そうだ……何かあったのか?
ライトブルーの瞳が僕の姿を見つけた時、彼女がの笑顔が一際輝く。その瞬間
「妖精姫様が笑ったぞ!」
背後の生徒達が写真を撮るため前に乗り出し、僕もダイスケもカレンも、やむ無く後退した。
……アヤカは、アイドルじゃないんだけどな。
そんな僕の心を読んだかのように彼女が小さく笑いを零しているのを見て、少しだけ鼓動が強くなる。僕は今、どんな顔をしてるんだろう? 変な顔をしていないだろうか。
「おい、リュウ」
ダイスケの方に視線を向ければ、いつもの笑顔をしている。
「俺を信じてるか?」
信じる?
「当たり前だろ」
「あいつの事は俺に任せろよ。お前はアヤカのことだけ見てろ」
「聞こえてるわよ、ダイスケ」
カレンはいつも通りの淡々とした口調のまま、一瞬だけ視線を僕ダイスケに向け眼鏡を掛け直すように顔を伏せる。
この閉ざされた世界で、僕たちは今日も生きている。校舎に侵食するように根を張る世界樹に見守られながら。
――僕たちは今、妖精と「共存」をしている。
*
夜の茅が降りると、ハルモニアの張ったシールドが月の光を受けてシャボン玉のように夜空を揺らす。
時刻は夜の12時
上を見回せば、セキュリティの電子的なきらめきを放つ薄いシールドのような膜。その奥には満天の星空が輝いている。背後に目を向ければ、高等部中庭の池ーーハーモニアレイクの上を、淡い光がふわふわと漂い、それと遊ぶように蝶や鳥の形をした光が舞う。
夜のハーモニア大学附属学院は、まさに幻想的な光景……だけど。
僕は手に持ったリンドウの花をポケットに入れると、目の前の高等部校舎の列柱に手をかける。
「さあ、アヤカに会いに行こう」
いつも通り、僕は列柱に手をかけ壁を登る。彼女に会うために。




