【番外編】Ebeniza's Echo③ ― 美徳と大罪 ―
目を開けると、見慣れた天井があった。
夜の帳は降りたまま、窓の外には薄墨を溶かしたような静けさが残っている。朝には少し遠い――そんな時刻だろう。視線をずらせば、私の腕の上でアヤカがすやすやと眠っている。
そっと髪を撫でるとアヤカが身じろぎし、うっすらと目を開けた。
「悪かったね、起こしてしまったかな?」
綺麗なライトブルーの瞳が私の姿を映し出した瞬間、天使のような愛らしい微笑を浮かべたが、すぐにその笑顔は曇った。
「お父さんの心が……泣いてる」
心の色。
それは、妖精が人間の瞳の奥に見ることが出来る、宝石のようなものらしい。アヤカが言うには、私の心の色は「春の草原に優しい光がさしたような色」だそうだ。
「心配かけてしまったかな? まだ朝には早い、もう少し休みなさい」
もう12歳になるというのに、アヤカは時折「一緒に寝たい」と言ってくる。
何度この子を「愛しい」と思っただろう? 少しだけ笑顔を浮かべる娘の額にキスを落とすと、胸に光がさしたように心が安らいでいくのを感じた。
「お父さん、お話して?」
「どんなお話がいいんだい? 昔アヤカが好きだった人魚姫かな?」
「ううん、お父さんの話がいい」
私の話……
急にブラウニーを食べたいと言い出したり、何かあったのだろうか? もしかして、カスミの事を誰かに聞いたのか?
「わかった。じゃあ“エビニザの共鳴”の話をしようか」
「きょう、めい?」
きょとんと瞬きをするアヤカ。
「そうだ。私の一番大切だった人の話だよ」
私はアヤカに話をした。障碍を抱えながら、自由と権利を求め戦ったカスミの事を。彼女と共に生きたいと思っていた事を。彼女を心の底から……愛していた事も。
「力ではなく、優しさが未来を変える。彼女はそれを私に教えてくれた」
「……やさしさ?」
「謙虚であること、人の親切を忘れずに学び続けること。困難は再生の前触れで、日常の中に幸せは隠れている。昨日食べたブラウニーは美味しかっただろう?」
それは、カスミの生き方そのものだった。
「だからこそ感謝を忘れず、自分の心に節度を持って生きなさい、と……」
しかしアヤカの方を見ると、巨大な「?」マークが頭の上に浮かんでいる気がして、思わず吹き出しそうになった。
「……難しかったかな。アヤカがもう少し大きくなったらわかるよ」
「学校でお勉強したらわかるようになる?」
「ああ、もちろんだ」
ぱっと笑顔を浮かべ、嬉しそうに頷くアヤカ。
カーテンの隙間から覗く夜空。その向こうには、あの時と同じ都会のネオンが小さく光っているのが見える。あれから2年……私はアヤカを実の娘のように可愛がってきた。
アヤカは私の宝だ。いつか、誰かが代わりにアヤカを守ってくれる日が来ても、私はこの子を守り続けるだろう。
*
「ハーモニア大学附属学院」は、都会の中心の湖に孤島のように浮かんでいる。フェリーを使うか水上道路を走るかが、移動手段だ。私を乗せたリムジンは水上橋を走り、やがて門へと差し掛かった。
――立派な「門」は、左右対称に構築されたアーチに天使の彫刻。そして
SALTUM IMAGINATIONIS IN FUTURUM ACCIPIANT
QUI PER HUNC PORTAM INTRANT
(この門をくぐる者、未来を想像する跳躍を得よ)
中心に刻まれているのは、この学院の理念のひとつ「創造的想像」を象徴した言葉だそうだ。
ギリシャ建築の荘厳さと、未来都市を想わせる透明素材や幾何学構造が融合し、たくさんの木々が植えられ不思議な安らぎを感じさせる学舎。アヤカが通う場所。そして未来の子どもたちが夢を描く場所だ。
中等部の制服は「自然と科学の融合」をモチーフにしているらしい。男子は科学モチーフの青と幾何学。女子は自然モチーフのエメラルドグリーンに、花をイメージしたたローズピンクのチェックのスカート。
今朝届いたばかりの制服を嬉しそうに披露してくれたアヤカを思い返し、思わず笑みがこぼれた。
「帰ってきたら苺のパフェ、一緒に食べたいな」
娘のわがままを理由に、今日は少しだけティータイムの時間を作った。その時間を楽しみに思いながら、車が門をくぐる様子をぼんやりと見つめる。
学院に足を下ろすと、高台から学院が一望できた。
「お待ちしておりました、澤谷さん」
芹沢さんが出迎えてくれた。
細身だが長身。見上げなければ顔を見る事の出来ないほど背が高い彼は、穏やかな微笑を浮かべる紳士的な好々爺といった男性だ。
しかし――彼の完璧な所作故の「人間とはかけ離れた無機質さ」が気になっていた。この直感は、私の父が政界で権力者達と握手を交わすのを、幼少期から見て身についたものだ。
「この子は?」
芹沢さんの少し後ろには「黒服にサングラスをかけた私と同じくらいの背丈の男」と「少女」が立っていた。
「貴方はどこかでお会いしましたかな?」
男は軽く「いいえ」と言う。どこかで聞いたことのあるような声色だが……?
「この子は娘のカレンです」
少女・カレンは、黒髪を金色のバレッタでポニーテールのように結い上げ、眼鏡が知的な印象を与える少女だった。
「カレンさん、よろしく」
私が手を差し出すと、少女は人形のように表情をこわばらせたまま、手を取り小さく「よろしくお願いします」とだけ言った。
……感情表現が苦手な子のようだが、この子も何かを抱えているのだろう。アヤカと友達になれたら良いのだが。
RRRRR……
腕時計型デバイスの電話機能の音。
左手首につけたホロパス(※スマロよりも機能が多彩になった腕時計型デバイス)の液晶画面には「橋本ナオキ」の文字。
「どうぞ」
芹沢さんに軽く会釈し、少し離れた所でホロパスを操作した。
目の前にふわりと浮かび上がる、約24インチほどのホログラムディスプレイ。その中に現れたのは、長く伸ばした茶髪を後ろで束ねた、柔和な表情の青年だった。
「お久しぶりです、澤谷さん。突然申し訳ございません、今お話しできますか?」
「すまないが、これから人と会う約束があってね。手短な話であれば今聞きましょう」
丁寧な口調とは裏腹に、若干の疲労を滲ませるナオキ君。次の彼の一言は、私に衝撃を与えた。
「では……単刀直入に申し上げます。アヤカさんのボディガードを、他の子に交代させていただけないでしょうか」
リュウ君を交代させる? なぜ今、そんな話が?
芹沢さんに少し頭を下げ、会話が聞こえないように距離を取り、彼に問いかけた。
「穏やかではないね、娘は彼をとても気に入っているんだ、理由を聞かせてもらえるかな?」
「ええ、実は……」
その内容は、まさに衝撃だった。
芹沢ユウジ――彼こそが、リュウがかつて所属していた闇組織の統括だったというのだ。
もし彼が今もリュウ君を追っているのだとしたら? そんな場所に彼を送る事の危うさは、容易に想像できた。
――私が芹沢さんに感じた違和感は、間違っていなかったのだ。
「実は今から芹沢さんとの打ち合わせがあるんだ。この会話も聞かれている可能性が……」
「ご安心ください。それに関しては対策をしてあります。ですが、通話履歴が残らない事を不審に思われる可能性はあります」
ナオキ君の声は穏やかながらも警戒心が滲んでいる。
「澤谷さん、その打ち合わせ――中止できませんか?」
今日の予定には「この学院の地下にある研究施設の視察」が含まれていたが、密室に足を踏み入れるのは、あまりにも危険すぎる。
「ありがとう。不審に思われないよう、今日は早々に切り上げる事にするよ」
「それを聞いて安心しました。ですが念の為、打ち合わせの音声を、こちらでもモニターさせて頂けないでしょうか?」
「……どうすれば?」
「ホログラムは閉じていただいて構いません。通話だけ、起動したままに」
――彼は信用できる。私は彼の言葉に深く頷いた。
ナオキ君はリュウ君の過去を知り、未来を案じている。彼の提案は、私にとって救いだった。
*
ナオキ君申し出通り、ホログラムだけ閉じて芹沢さんの所へ戻った。
高等部校舎前の中庭には、大きな湖が広がっていた。校舎を美しく反射させる水面を、細い一本道が縦断している。聞けば、この道は学院の人気のスポットであり、名所ともされているという。
「相変わらず、美しいな」
「お気に召しましたか? 娘さんの結婚式も、ここで挙げられると良いでしょう」
「はっはっは、まだまだ先の話ですよ」
和やかな会話とは裏腹に、背後を歩く少女――カレンの無言が緊張感を漂わせる。彼女がリュウ君と同様の闇組織の戦闘員だとしたら……?
今日「わざわざ」同行させた意図があるとすれば、この「散歩」は、ただの和やかな昼の一幕ではないのかもしれない。
だが、ここは学院の中庭。生徒や教師たちが視界の至るところに存在している。この状況で何かを仕掛けられる事はないだろう。
湖のほとりでは、生徒たち芝生に腰を下ろしお弁当を広げる姿や、本を読む姿。微かな笑い声が響くその光景は、まるで――
「天国のような光景でしょう」
芹沢さんの言う通り、平和そのものだった。
「芹沢さんはクリスチャンでしたね」
「ええ、慈悲の瞑想は共感と赦しを与える。彼らは私と同様罪深い故に地獄に落ちるのだと、神を通じて再確認しているのですよ」
「それは……」
神を信じているというより、道具として信仰しているように聞こえるが……?
「カレンの母親は、それは愚かな女でございました。感情論と色欲に塗れ、平気で人を裏切り……もし彼女が地獄の門を潜ったなら、一切の希望を捨て氷の中で永遠に沈黙している事でしょう」
十字架のカフスに触れ、私の方に向けられた緑色の瞳は、若干の「哀れみ」を含んでいるようにも見えた。
「澤谷さん、エネルギー問題についてどうお考えですか?」
エネルギー? 今の会話と何の関係があるんだ?
「地政学から考えれば、水素発電が主流となった今はクリーンなエネルギー開発が実装されていると言えるでしょう。資源ナショナリズムによる独占とソーラーパネルの失敗は国際水路回廊設立の一助となり、今の安定供給に繋がったと考えていますが……それが何か?」
カーボンニュートラル目標で、新たにCO₂排出量に課税(炭素税)が強化された。世界的な資源ナショナリズム(自国優先主義)は石油の輸出制限や価格つり上げ。更に「謎の気候災害」が定期的に襲い「石油=悪」というレッテルが完全に定着したのは2042年の事だ。
気候変動と環境汚染への懸念から太陽光や風力の再生可能エネルギーは衰退し、唯一残ったのが「水素」だ。
これが私たちの暮らす2050年の主流エネルギー――液体水素の輸送網とインフラ整備による「国際水素回廊」による水素発電だ。
「我々は今、選択の分岐点に立っていると言えるでしょう。理想か、現実か。無知な愛か、冷酷な進歩か」
「冷酷な進歩……ですか。この学院の設計は、まさにそれを象徴しているようにも思えますね」
彼の言う「冷酷な進歩」は「科学の発展」を意味するのだろう。水素発電へ何らかの懸念を持っているのか? では……
「無知な愛とは?」
「少数派の反乱を、ご存じでしょうか?」
「ええ。過去に何度も争いがありましたね」
「愛は良いでしょう、しかし無知なる愛は時に社会の進歩を鈍化させます。集団が効率と秩序のもとで生きる為には“個”の情感は刃にもなりうる。澤谷さんは、どう思われますか?」
なるほど、彼は国際水素回廊に何らかの「犠牲」が伴うと。そう言いたいのだろう。そして、その犠牲は「不可避」だと。
極めて彼らしい合理主義だ。恐らくは東洋の一部で行われる少年奴隷等を指しているのだろうが……世界全体を俯瞰し、秩序を重んじ、犠牲を厭わない。その論理に誤りはない――しかし。
「……社会全体を考える上で、時に犠牲も必要でしょう。けど私は、それでも“無知な愛”を選ぶかもしれません」
「ほう?」
恐らく、この思想は芹沢さんは好まないだろう。もしかしたら彼の瞳には”愚者”に映るかもしれない
「第三の考えも、あると思うのです」
「ほう?」
「歩み寄り、無限の可能性を引き出す事が革命ではないでしょうか。未来エネルギーは人類全体の課題であり、少数の犠牲でしか成り立たない世界には意義を唱えるべきと考えています。だから私はアヤカをここに入学させようと考えました。個々の才能の教育……この学院の理念に共感したからです」
沈黙している芹沢さんの微笑は、まるで私を選定するかのように僅かに細められていた。
「世を導く者の多くが芹沢さんと同じような事を語るでしょう。しかし価値あるものが常に多数派の側にあるとは限らない。才能とは圧倒的に“少数派”に宿る。あなたも、その一人なのでは?」
「……」
少しだけ沈黙が流れたが、やがて芹沢さんは弾けるように笑った。
「はっはっは、あなたの思想を例えるなら……「美徳」……これがぴったりでしょう。実に澤谷さんらしい考えだ」
「いえ……妻の受け売りです」
気付けば昼休憩が終わったのか、生徒達は校舎に戻り、あたりはしんと静まり返っていた。
「しかし」
急に芹沢さんの声のトーンが変わった。その瞬間、彼の緑色の視線が鋭利な刃物のような鋭い光を帯びる。
――ふと、背筋がぞくりとした。
「こうは考えませんか? 才能とはマイノリティであり、抗争があれば、どちらにも属さない弱者であると。献身、勤勉、忍耐――過去に“美徳”を掲げて革命を起こした者の大半は、身内の裏切りに倒れました」
身内の裏切り……その言葉には確かに身に覚えがある。カスミを殺したのは、彼女と同じ障碍者だったからだ。
「才を持つ者は「誰の武器になるか」という選択を迫られるでしょう。どの派閥に属しようが、武器を振るのは欲望に塗れた者たちです。傲慢で、強欲で、怒りに満ちた者が、美徳を纏い“天使の仮面”を被る……革命とはそういうものです」
まるで演説のようなそれは、誰かに向けた「会話」ではなく「断罪の美文」――そう感じた。
「この世界に100%など存在しないでしょう。ですから私は、美徳を掲げる者こそ、最も用心深く観察するのです」
ビジネスに置いて、相手との会話は本音の探り合いだ。敵意か選定か……もしくは騙す気か。それを言葉の温度と圧で感じ取る。
――そして今。この男は「会話」をする気がない。
「芹沢さん、美徳は何代にも渡り語り継ぐものであり、特にこれからの子供達に忍耐は必要と考えています」
「献身、勤勉、忍耐……実に美しいですが、合理的判断に迷いはただの障碍でしかありません。判断を鈍らせ、時に最も残酷な戦争の火種となでしょう。歴史を振り返ってみてください、正義ほど危険な動機は他にないのです」
彼は私の思想を美徳と称し、完全に否定しようとしている。もしかしたら私は、知らずに彼の触れられたくない過去に触れたのだろうか? いつもの芹沢さんらしくないようにも、思える。
しかし……私はカスミと共に築き上げたこの思想を曲げるわけにはいかない。
「私は誰かの笑顔の為に戦った者を「無知」と嘲笑せず、その信念を讃えたい。だからこそ才能は正しく育てる必要がある。ここは、そういう学院ではないのですか?」
微かに吹く風は、ピリついた空気から額に滲んだ冷汗を、少しだけ落ち着かせていく。芹沢さんは目を閉じ、少しの間を置いてから再び口を開いた。
「理解できますよ、澤谷さん。美徳とは、人が壊れてもなお誰かを信じようとする力だ。あなたが守ろうとするものは、確かに尊い」
その言葉は一滴の敬意が滲んでいたかもしれないが――私は見てしまった。
――仮面の奥に、沈殿した獣のようなもの。
微笑という皮の下に隠された真の意志を。そして次の言葉が、それを露わにした。
「……ですが、その尊さ故に、あなたはここで――終わるでしょう」
終わる?
「自然淘汰をご存知でしょう。神は沈黙し選別を委ね、人は秩序に従う者を残す。あなたの理想という名の煉獄の先に神はいますか?」
その時、彼の後ろにいた黒服の男がサングラスを外した。その男は……
「……私?」
男は紛れもない、私自身の顔だった。似ているとかではない……「全く一緒」なのだ。
「あなたの美徳がどこまで通用するか……見せて頂きましょうか。傍観者である神が、手を差し伸べるか否か」
数ある作品から本作を読んで頂き、ありがとうございます。
番外編の続きは、また来週の金土日のどこかでアップします。恐らく次がラストになるかと思います。
もし続きがよみたいと思って頂けましたら、下の☆☆☆☆☆を★★★★★に変えて応援してくださると今後のモチベーションになりますm(__)m
【ちょっと補足】
国際水路回廊について(フィクション設定)
複数の国家間を繋ぐ、水素の国際供給網(インフラ&協定)で構成されたシステムです。水素の製造、輸送、貯蔵、消費を一体化したネットワークであり、リュウ君達の世界では2042年に構築されました。
陸上・海底の両方に存在し、陸上の場合は高圧パイプラインを用いた水素輸送。経由年に「水素ハブ」を設置して貯蔵しています。
改定ルートは液体アンモニア化して運ぶのが主流となっています。直接接続による拘束輸送が可能ですが、近隣同士の国でしか実現はされていない。
最も主流な輸送方法は液体水素タンカー。リュウ君達の国ではこれによる輸入がメインとなっている(エネルギーは他国依存の部分が多い)




