【番外編】Ebeniza's Echo① ―猫のしっぽとミントグリーン―
澤谷さんとアヤカの過去話です。
たった一人のユダにより、人は簡単に没落するものだ。
私はそんなユダに人生を翻弄され、妻と娘を失った。
SNSが普及し、障害を持つ者が、その危険な思考を散見させるようになったのは、私がまだ若い頃の話だ。世界は豊かで平和である。だからこそ人は快楽を求め、承認と拡散に心を満たされる。気付けばどうだろう? 「異常」は「新鮮」に。「危険」は「カタルシスの象徴」として、我々の世界に蔓延するようになったのだ。
――それは、冬の寒さを少し感じ始めた秋の事だった。
政治家を父に持つ私・澤谷ソウイチは、大学で法を学び、35で独立の末「障碍者施設・エビニザ」を立ち上げた。「害」ではなく「碍」を用いた事に違和感を感じる人も多いだろうが、ちゃんと理由がある。
「だから、私は“障碍者”って言葉が好き……かな。生きてるだけで誰かの障害物になってるなんて、思いたくないから」
彼女は教えてくれた。生きづらさは私たちの中にあるのではない、社会の「さまたげ」の中にあるのだと。
「私たちの人生は、誰かの優しさという名の石の上に、少しずつ積まれていくものだと思うの」
エビニザは、そんな想いから名付けられた。
小さな施設を囲むように配置されたレンガ造りの花壇には、白いリンドウが満開に咲き誇っていた。「癒し」をテーマにミントグリーン色の壁で統一された小さな施設。張られている絵画や折り紙は、利用者が一つ一つ手作りしたものだ。明るくのびのびと「活動」し自立を目指すという施設の方針から、利用者と見守り人は協力し合う事が、エビニザの方針だった。
営業を終えた私は、広い作業部屋で利用者に軽く挨拶する。そして、奥のキッチンから煙が漏れているのが見えた。おやおや……「彼女」がまた、スイーツを焼き過ぎたな?
「やあ、今日の出来栄えはどうかな?」
キッチンを覗くと、1人の女性が眉間にしわを寄せていた。黒髪をサイドに三つ編みにし、茶色かかった瞳と長いまつげ。悩むように頬に手を当てる小柄な女性――彼女はこの施設の利用者の1人だ。
「また、焼きすぎちゃった」
しょんぼりと眉を垂れる小柄な女性。猫のしっぽブラウニーは、この施設の利用者であるカスミの得意料理だ。少しいびつな形をしたシナモンの香る生地には刻んだリンゴの果肉が溶け込むように練り込まれている
「とても美味しそうなスイーツだね。一つ味見させてくれないかな?」
「焦げてるわよ?」
「ほんの少しだけだろう? どうかシェフの最新作のご相伴にあずかれませんか?」
そう言い紳士のように帽子を取り軽く会釈する。根負けしたように軽く笑ったカスミは、猫のしっぽのようにくるりとした形のブラウニーをひとつ、私に差し出してくれた。一口かじると、ココアの香りとジューシーなリンゴの香りが口いっぱいに広がる。
「今日の腕前も見事だね」
「本当にそう思う?」
正直に言うと、少し焼き過ぎなのか若干のパサつきはあった。これは時間配分が苦手なADHD特有の「忘れ癖」から来るものだろう。
「本当さ。いつか「猫のしっぽブラウニー専門店」を開きたいね。ところでどうして猫の形なんだい?」
「また、はぐらかして。それに、そういうのは皮肉って言うのよ」
「気を悪くしたかい?」
「そんなことないわ。でもそれ、私みたいな人は本気で捉える事もあるから、注意してちょうだい」
カスミはブラウニーを木製の皿に盛りつけながら、言葉を続けた。
「そうね……猫は時速約50キロで走れるって知ってる?」
「へえ、それは知らなかったな」
「猫って何千年以上も前から人と一緒にいたのよ。ネズミ退治の為と言われてるけど、彼らは人と共生する為に進化してきた。本当は私達より生物として優れてるのに、そっと寄り添ってくれてる……まるで、私たちみたいでしょ」
エビニザの大部屋は、利用者が作業するスペースになっている。彼らにひと時の休息を告げる猫のしっぽブラウニーは、利用者達の密かな楽しみだった。
――カスミはADHDという障碍持ちだ。
「人は平等だなんて、簡単に言えない。この世は生まれた時点で不公平だから。でも、だからこそ私たちは互いに支え合うために生まれたの。人はひとりでは尊厳を持てない。だから、支え合うことで初めて人は“誰か”になれるの」
「双方の理解」――障碍を抱える者として、暴力的でも政治的でもない理想を掲げていた。
「あ! 勘違いしないでね。もちろん努力は必要よ、特に私達障碍者はね。99%の努力をして、ようやく1%の理解を求められるんだと思うわ」
そんな彼女に、私は深く共感していた。
エビニザが出来上がってからというもの、カスミは花を育てる方法、編み物や掃除を学び社会に自ら率先して貢献し、仕事として確立させ、それを「同じ障碍者視点の教養」として私の施設の利用者に教えたのだ。施設の中で誰よりも積極的に事業に関り、日々の瞑想と定期的な運動を欠かさず行い、多忙な中でも週に一回、私とのアフタヌーンティデートも欠かさなかった。
彼女を全力で支援する事で、障碍を持つ者に社会的地位を。今は簡素なキッチンで質素なお菓子を作る彼女だが、もっと豪華な調理場を与えたいとも思っていた。
「でもね」
ある日、カスミは少しだけ本音を教えてくれた。
「もし生まれ変わったら、小さな妖精になってあなたを探しに行きたいわ。そして奇跡を起こして大富豪にしてあげるの。だって私の夢を叶える為に、毎日ボロボロのスーツを着ているんだもの」
その言葉をきっかけに、私はカスミにプロポーズをした。
*
結婚式は、出来上がったばかりのエビニザで簡素に行った。振舞われたのは、もちろん花嫁手作りの「猫のしっぽブラウニー」だ。
あの豚小屋に閉じ込められる事を拒み、自由と権利を求めるカスミ。私は彼女と水とパンを共有し生きていきたいと、本気で思っていた。
“愛”――人を信じる優しさを。
“弥”――絶えず、広がっていく願いを。
“花”――誰かの心に咲く、柔らかな力を。
名前は、祈り。
この子が生きる世界が例え不公平でも、誰かの尊厳を守り、手を差し伸べる側であってほしい。そう願って、妻は娘に『愛弥花』と名づけた。
アヤカは、私と妻の希望の象徴であっただろう――「この時」までは。
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2046/09/22 00:12
“優しさ”の名を借りた支配、“支援”という名の檻、
花壇は墓標、編み物は拘束、掃除は魂の洗脳。
“エビニザ”は楽園じゃない。檻だ。そして魔女には制裁を。俺は皆を魔女から解放する使命を神から与えられたのだ。
#共響舎を消せ #これは芸術だ
大きな炎がミントグリーンの施設――エビニザを焼き払う絵と共に、SNSに投稿された。
その書き込みをしたのはエビニザの利用者であり、妻と同じADHDの男だった。SNSで彼が発信したそれは瞬く間に炎上し、社会的なニュースとなった。それが私の目に止まったのは、投稿された一週間後。たまたま仕事で施設を離れた時の事だった。急に体がざわつき、私は施設に戻った。
「見ろよ、お前らの“献身”とやらを。編み物? 花壇の手入れ? 掃除? それが何になる? これはただの火事じゃない。クソつまんねぇ“神話の終わり”だよ」
真っ赤に燃える施設。逃げ惑う利用者たち。その前にたった一人、冷静に立ち尽くす男が私に向かい狂ったように笑い、声をあげた。
「神は俺に“火を描く指”を与えた。でもみんな『気持ち悪い』『わからない』『やめてほしい』って言うんだ。あの魔女は俺に投稿の削除を命令したよ。命を注いだ芸術を否定された創作者がどれほど泣き、絶望したかわかるか?」
妻は男に真面目に働くように指示したと言っていたが、その事なのだろうか?
「神が選んだのは俺の方だった。分をわきまえろって、黒人を迫害してたあの時代の連中と何が違う? 正論を振りかざした魔女に俺の“火”が裁きを下しただけさ」
「カスミが、中に!?」
「ああ、足の骨を折ってやったからな。避難できなかったんだろ? 神はいつだって、楽園を焼き払ってから世界を作る。ノアの洪水、ソドムの火、原爆。歴史は破壊から始まる――これは俺のジェネシスだ」
まるで神そのものになったかのように酔いしれる男。彼が警察に拘束される横を走り、私は炎の中に飛び込んだ。熱気が肺を圧迫する中、妻と娘を探し、たどり着いたのはいつも妻がいつもブラウニーを焼いていたキッチン。そして……
――崩れ落ちた天上の下敷きになっていた妻とアヤカを見た私は、まるで障碍を持つ者が壊れて発狂したかの如く声を上げた。
2046年秋。
炎の中で気を失った私は、奇跡的に救助された。何故私だけが生き残ったのか。カスミとアヤカを失った私の心は空虚だった。
「もっと多くの障碍を持つ人に、自力で立ち上がる勇気を持ってほしい。私の願いは、それだけ」
火を放った男に、カスミが送った返信。彼はこれを見て犯行に踏み出したらしい。
障碍を持ちながら戦い、命を落としたカスミを世間は賞賛したが、それも数日の事だった。やがて「かわいそう」という一言で片づけられ、私とカスミのしていた事は小さなことだったのかと悔やんだ。気が付けば、病院服のまま街に飛び出していた。
人身売買のニュースが本格的に流れ、世間の一部はスラムのように衰退した世界。一方で都会のネオンはきらびやかに光を照らす。しかし、ガード下のスラムを照らすのは街灯と飲食店の屋台の僅かな照明、そして時折ガード上を走る電車の室内照明のみ。
地上の星たちは、天の星に嫉妬する。彼らが見上げるのは夢ではない、反射された絶望だ。笑い声、罵声、時に泣き声――彼らの喧騒や賑やかな声は不思議と不協和音ではない。まるで時代を象徴し共鳴し合う、一つのハーモニーのようだ。
「これが……地獄と言うのだろう」
そう思ったのは、私が妻と娘という希望を失ったからなのかもしれない。屋台から漏れる煙を見て思い返すのは、あの日カスミが失敗したと言って少しだけ焦がしたブラウニーの香りだ。
――どん。
私の体に何かがぶつかり、黒髪の少年が走り去っていく。一瞬目が合った時、少年の深い青の瞳に「深い悲しみ」が宿っていることを悟った。こんな夜中に、あんなに小さな少年が1人? そう思った瞬間――私はハッとして、ポケットを確認した。
「やられた……!!」
少年は私の財布を擦ったのだ。病院に戻るべきか。そう思った私を、気付けば数人の男が囲んでいた。
男達は私を道端の隅に引きずるように連れて行き、金を強要した。しかし財布は先程の少年に擦られてしまった。それに気づいた男達は、鬱憤を晴らすように暴行した。
静かになった細道の先から、繁華街の賑やかな音が聞こえる。彼らは靴裏に忍ばせた1000円札には気が付かなかった。それにほっとしながら壁に身を預け、思い返したのは深い悲しみを宿した青の瞳。
大人は金を賭博や酒につぎ込むだろうが、あの少年は生きる為に使うのだろう。ほんの少し遅ければ、あの少年は今日買うパンすらなかったのかもしれない。
「あの少年の未来に、あの金が役立つなら……」
そう思った時、涙が溢れた。
「違う……私が守りたかったのは……本当に守りたかったのは……!!」
天を仰ぎ、私は月に向かって手を伸ばした。
「妻よ……アヤカよ……私もそこへ連れて行ってくれ。1人は嫌だ……!!」
――その時。
空から淡い光がひとつ、舞い降りる。いや――小さな、人か?
手のひらほどの大きさの淡い光は、私の目の前で「羽を持つ人の形」を形成する。金髪にライトブルーの瞳の、可愛らしい少女の風貌をしていた。
少女は私の瞳をじっと見つめ、やがて何かをみつけたかのように瞳を輝かせ、はしゃぐように私の上を飛び回った。その無邪気な姿に少しだけ笑みが溢れた。
「とうとう、幻が見えるほどになったか」
体を起こし、手を伸ばしたその時。少女の姿が光に包まれ、一瞬目を閉じる。ゆっくり瞳を開くと、そこに立っていたのは8,9歳ほどの少女だった。
「君は」
「パパ」
パパ?
理解が追いつかず呆然とした私が手を伸ばすと、少女は白いワンピースをふわりと浮かせ、私の胸に飛び込んできた。草原のような、優しい香りがふわりと鼻をつく。絹糸のような美しい髪を撫でると、少女は気持ち良さそうに笑顔を浮かべた。
「君は、私のもとへ舞い降りた天使かな?」
まるで月明かりに照らされた水面のような柔らかな笑顔を浮かべ、少女は私の頬にキスをした。その瞬間、私の頭の中に一瞬忘れかけていた妻と娘の思い出が鮮やかに蘇った。
非難と罵倒に耐え、いつも穏やかな微笑みを浮かべていた妻。
生まれたばかりのアヤカが私の顔を見て大泣きしたが、私は一生懸命あやした。その後見せてくれた笑顔。
アヤカを抱き、妻が歌っていた子守唄・・・それを聞きうたた寝する私に妻は「まるで子供みたいだ」と言いながら、頬にキスをしてくれた。
……まるで、心に一筋の光がさしたかのようだった。
「君に名前をつけよう……そう、アヤカ。愛らしい君にぴったりだ」
私はなるべく人気のないところを避け、アヤカを連れて病院への道を歩いた。
少し歩いた先で、アヤカの瞳が一点に留まっている事に気付いた。彼女が見つめていたのは、ガラスの向こうに飾られているクマのぬいぐるみ。
「あれが欲しいのかい?」
アヤカは首を振った。万が一の為に靴裏に忍ばせていたお金を取り出し微笑むと、私はアヤカを連れて店に入りぬいぐるみを購入した。アヤカはそれを抱きしめ満面の笑顔を浮かべ、彼女を抱いたまま、私は病院に戻った。
今思えば、私はこの時妖精に魅入られたのかもしれない。それは禁忌の果実を口にしたイヴと同様に罪深い事だったのかもしれない。
しかし、私はそれを後悔することはないだろう。
同様に人間の美しい心に魅入られ、人として生きる事を選んだ妖精アヤカもまた、私と同じ罪を背負っていたのかもしれない。
「君はブラウニーは好きかな? 今度一緒にお菓子を作ろうか。私の大切な人が良く作っていた……とても美味しいスイーツなんだ」
私とアヤカはこの日の夜、街中で1つのリンゴを購入し、一緒に食べた。
共に生きる――その誓いとして。




