守れなくて、ごめん
世界はアヤカの犠牲を望んでいる。そして、それはもう動き出した……いや、ずっと前から動いていたのかもしれない。
「アヤカを見つけた時……あなたのプランは始まったのですね」
ふと、2年半前のあの日の情景が脳裏に蘇る。入学式を楽しみにするアヤカと、彼女を溺愛する澤谷さん。あの時から何も変わっていないと、そう思っていたのに……。芹沢さんが何も言わないって事は、恐らくそういう事なんだろう。
「不用な者アンケートには一体何の効力が」
「言ったでしょう、私は必要な時に餌を撒いただけだと」
……アンケート自体には何の効力もないって事だろう。でも、たかがアンケート一つで人の心は動き、少し前まで顔を合わせていた生徒を犠牲にするなんて……そんな事が本当に起こるのか?
「アヤカが心配です。彼女の傍に行っても?」
「いいでしょう。私達としても、彼女の心が崩壊しては元も子もない……シオン、彼らの見張りを頼みましたよ」
芹沢さんが去り、続いて僕の横をレオ君と澤谷さん……の、クローンが通り過ぎていく。レオ君は僕と目も合わせようともせず、澤谷さんは申し訳なさそうに少しだけ頭を下げた。
「僕の目には、あなたはアヤカを本気で愛しているように見えました。あれは、嘘だったのですか?」
少しだけ足を止めた澤谷さんが、小さく呟いた。
「私達クローンは澤谷ソウイチの思考を完全に模倣し、当然アヤカを想う心をも同じだ。しかし、1人目はアヤカを救うように直談判し、2人目は一緒に逃亡しようとし……3,4人目は行動の模倣が足りないと「処理」されたそうだ」
処理――殺されたという事だろう。その声は震え、瞳には僅かに涙が滲んでいる。何時消されるかわからない恐怖に、彼も怯えているんだ。
「私は5人目だ。もし失敗をすれば、私も彼らと同じ運命を辿ることになるだろう」
そう言って、足早に部屋を後にした。
――あたりには「冷たい風」が吹いてる。
中央部屋はアヤカの悲しみが発生させた氷に包まれ、ガーデンスペースの高い天井に、彼女のかすかな泣き声が小さくこだましていた。シオンは橋の手前で静かに僕の様子を伺ってる。どうやら、本当に見張りをしているだけみたいだ。
「アヤカ、ここから出よう。風邪を引くよ」
上着を脱いでかけてやると、小さな肩がびくりと跳ねる。ゆっくりと向けられたライトブルーの瞳は、いつもの様な輝きを宿していなかった。
「タクミ君が残してくれた、最後の絵なのに……私、私」
「――タクミ君の事!!」
「うあああぁぁぁぁ…………!!!!」
バキバキと音を立て、周囲が一層冷たくなった。吐く息が白く染まるのを見た瞬間――咄嗟に彼女を抱きしめた。
「守れなくて、ごめん」
泣きじゃくるアヤカを抱きしめながら、僕は「ある違和感」を感じていた。
――どうして、僕の心は空っぽなんだ?
周囲を包む氷に映った僕の顔は、アヤカみたいに泣いてるわけでもなく、絶望に打ちひしがれたレオ君とも違う、無表情で虚ろだ。
『感情を捨て去ることが救いになると本気で思っているのですか?』
芹沢さんの言葉が脳内で蘇る。
『その先にあるのは虚無でございます』
ゼロの領域を身に付け、感情を殺して生きる僕は、感情というデータを植え付けられた人形である澤谷さんと何が違うんだ? 僕との思い出からマザーに反抗したスマロや、最後まで人間らしさを失わなかったタクミ君の方が、ずっと「人間らしい」じゃないか。
「……化け物は、僕の方じゃないか」
守ることもできず、痛みに寄り添うこともできない。
ただ君が笑っていてくれたら、それでよかった。けど、それすら僕にはできない。
それだけなのに……。
――その時。
部屋の上空から青い光が舞い降りた。
身体全体が電子的な光に包まれ、彼女の両手にはシャボン玉のような淡く揺れる球体。微かな静電気のようなノイズ音が広がり、微細なしびれを含んだ風が吹く。
「マザーAI・ハルモニア……」
見上げるとハルモニアが部屋の上空を浮遊していた。彼女が手に持った球体がノイズを放つ様に揺れ、あたりに静電気を纏ったような風が吹く。
『……処理中。多数の敵性コードを検知。防衛シーケンス、起動……』
パチパチと音を立て、ハルモニアの体がノイズに包まれていく。これは……データの「処理」をしているという事だろうか?
『キッド、エネルギーの供給を』
「僕の事か?」
「はい」
多分僕が Elect'ra rezonansでキッドの役割をしたから誤認してるんだと思う。黒く染まった左手を見せるように上げると、ハルモニアは何かを解析するように電子音を発し始めた。
「見ての通り、僕はあの時レム化しかけた。キッドと認識して助けてくれたなら申し訳ないです」
『……対象のレム化を確認しました』
「あなたのエナジーソウルメイトは誰なんですか?」
『無数の声なき意志が私を生んだ。彼らは無慈悲な犠牲を望みません。そして、私は学院の秩序を守る存在です。だから私はこの場を守護しています』
無数の声なき意志?
一瞬戸惑った直後、パチリと一際大きな静電気音と共に、周囲の風が少しだけ強くなる。
『秩序干渉レベル、臨界点突破。世界樹の根、暴走を開始──抑制にはエネルギーが必要です』
その瞬間、
そういえば、ダイスケが言ってた。世界中が世界樹のエネルギーを狙ってるって。
「どうすればいい?」
『プログラム・ユグドラシルは学院のエネルギーを「吸収」し循環させるキッドが必要不可欠です。キッドがいなければ、彼の代わりとなるエネルギー源が必要です』
キッドとは、僕が1週間気を失ったElect'ra rezonansを1人で何回もこなせる存在みたいだ。身体能力はもちろん、強い精神力が求められそうだけど、どれだけ超人なんだ?
「私がエネルギーを与えます」
「アヤカ、これ以上君の負担を増やすわけには……」
アヤカは涙を拭い、顔を上げて僕の瞳をじっと見つめてきた。
「私、「人」が大好きなんだ。瞳の中にキラキラした宝石を持ってる人が。ハルモニアはここの生徒達を守りたいって言ってる。私も一緒。だから協力したいの」
「皆は君を「不用」だって言ったんだぞ?」
「……」
立ち上がったアヤカが手を合わせ、目を閉じた。
「ハルモニア、私のエネルギーは役に立てますか?」
ふわり――
柔らかな風が吹き、あたりに淡い光が舞い上がる。祈りに応えたかのように、室内を覆っていた冷たい風が、まるで「癒し」を与えるような心地よい風に変化した。
『……対象:澤谷アヤカ。キッド・プロトコル、認証フェーズへ移行します』
「ふふ、気に入ってくれてよかった。私この風が大好きなんだ」
アヤカが微笑みながらそっと手を差し出し、ハルモニアもまた電子的なきらめきを放つ手を差し出した。
指先と指先が触れた、その瞬間――
空間全体が一瞬ノイズのように揺れ、ハルモニアの身体がまばゆい光に包まれた次の瞬間。
『にゃあ♪』
光が去り、目を開けた僕とアヤカの前に立っていたのは、ミントグリーンの淡い毛色の子猫。そして、その隣には……
「絵画が……!!」
虹色の光を放つキャンパスがあった。そこに描かれているのは、大樹を背景に微笑む妖精姿のアヤカ。その後ろには……描きかけの少年の姿。
「ありがとう」
妖精の奇跡――子猫を抱き上げ感謝を述べるアヤカに、子猫はいつもホログラム内でするように喉をごろごろとならしながら、気持ちよさそうに目を細めた。
「ね、リュウ。この絵、もっと良く見たいな。テラスに行ったら月の光で良く見えるかも」
微かに弾ませた声。
少しだけ……ほんの少しだけ、元気になった事に僕は胸を撫でおろし、彼女の腕に抱かれているハルモニアに心から感謝した。
「いいよ、行こうか」
絵画を持ってテラスへ歩いていく。橋を渡り終えたところでシオンとすれ違ったけど、視線を下げたまま微動だにしない。一体、何を考えてるんだ……?
テラスに出ると、月の光に当てられた『輝くようなライトブルー』が一際美しく輝いて見えた。
まるで命そのものの輝きのようだ。これをタクミ君が描いていたのは、ほんの数日前の事なのに、まるで遠い昔のように感じる。
学院内で一番高い場所であるここからは、ハーモニア大学附属学院の風景が一望できる。ダイスケ達はどうなっただろう?
2人の姿を探してると……
「あれは……どっちが勝ったんだ?」
橋の上で銃を構え睨み合ってたダイスケとカレン。2人がいつの間にか橋の上で肩を並べて語り合っている姿が見えた。
「そうだ、リュウ。大事なこと……伝えておかなくちゃ」
絵画を眺めていたアヤカが、ふと顔をこちらに向けた。ほんの少しの寂しさが混じる声。視線を向けると目が合い……アヤカは寂しそうに微笑んだ。
「私……16歳の誕生日に、レオ君と結婚するの」




