共鳴風(エコーウィンド)――君に贈る「Va -Lu-Gas」
部屋全体が繭のような透明なガラスに包まれ、天井には無数のLEDが星空のように輝いている――ここはハーモニア大学附属学院の調理室だ。教師を囲むように円形に配置された調理ブース。その一角で僕は、冷や汗が頬を伝う感覚を覚えながら、ホログラムに表示されたレシピを凝視する彼女を見守っていた。
――表情が、随分硬いな。
アヤカは料理なんてしたことがない。ハーモニア大学附属学院では専用の食堂で特別な食事が設けられるし、澤谷邸には専属のシェフがいるからだ。家庭科の調理実習でさえ、普段は「AI調理デバイス」や「スマートカッター」が用いられ、生徒たちは料理よりもデバイスの使い方を学ぶほうが一般的だった。
でも――
「ちゃんと、見ててね?」
「うん、でも包丁なんて大丈夫?」
「だ、大丈夫だもん……!!」
アヤカは包丁刃の向きを確認すると、キラリと光る刃に決意の眼差しを向け、まな板の上の玉ねぎに宣戦布告と言わんばかりに包丁を向けた。
――アヤカ! そんなに力まなくていいんだ!!
僕の心の叫びも空しく、アヤカはまな板の端をぎゅっと押さえ、震える右手で玉ねぎを切断線を確認しながらゆっくりと切り始める。
――玉ねぎが、揺れている……!!
包丁は震え、今にも横に転がりそうなたまねぎが不安定に揺れ動く。そのぎこちない動きに僕の心臓は早鐘のように鳴り、徐々に血の気が引いていくような感覚を覚え――そしてとうとう叫んでしまった。
「ちょっと待った!!」
一生懸命なアヤカに申し訳ないと心の中で思いながら、彼女の手を取り、優しく包丁を下げた。
昼休憩になり、各々が作った料理を食べる時間。
あっという間に調理した料理を食べ終えたダイスケは、食べ足りないと言ってカフェに足を運び、カレンは気付けば姿が見えなくなっていた。
中庭に設置されたテラス席では、クラスメイト達が友達同士で料理を食べながら談笑したり……
「へー、結構やるじゃん」
「当たり前でしょ? 私だって料理くらい作れるんだから」
意中の男子に手料理を振る舞う女子生徒も。そんな会話を聞きながら、僕とアヤカは中庭から少し外れた白いリンドウが咲く花壇の横のベンチに座った。
「ふう」
アヤカはしょんぼりしながら、自分の崩壊したハンバーグ(というか炒めたミートソース)を見つめている。
「結局リュウに全部やってもらっちゃったな」
「次の家庭科の授業で頑張ろう」
「次は、リュウと一緒に調理できるかわからないから……」
「……」
「一度でいいから、リュウにお料理作りたかったの」
「僕に? どうして?」
「その……夢だったの。自分で作ったものを、えっと、その……」
アヤカが言いにくそうに視線を逸らした時。人型の妖精が飛んできて、お弁当のミートソースを覗き込んできた。
手のひらに乗るくらいの大きさで、人型クッキーのような体に毛糸でできたかのようなもこもこの髪。背中には小さな羽、ボタンを縫い付けたような愛らしい瞳をしてる。
「その子はお掃除が好きな子だね」
「掃除が好きな妖精なんているのか?」
「うん、失くしものが急に見つかったりすることってあるでしょ? そういう時はこの子が見つけて、そっと近くに置いておいてくれてるんだよ」
僕の視線に気づいても、妖精は微動だにしない。
「フェアリーヴィジョン現象」により、ハーモニア大学附属学院の中庭は、まるで異界に足を踏み入れたかのような不思議な空間となっている。
淡い緑の光を放つ光が中庭のベンチの上で、揃って歌を歌っていたり、蝶のような姿をした光が女子生徒の頭に止まり羽を休めたり。この弁当箱に興味を示す妖精もそうだ。
「ここにいる妖精達は、アヤカとは雰囲気が違うな」
「妖精は本来泣いたり怒ったり、笑ったりしないの。私は……『特別』なんだって」
特別。それはどういう『特別』なんだろう? 誰かに言われたのか?
どうしても頭によぎるのは……『特別』であるが故にいじめの対象となった、タクミ君の事だ。
「見て」
アヤカが指差したのは僕の右肩。掃除の好きな妖精が小さな羽を羽ばたかせ着地し、そのままうとうとして眠ってしまった。
「リュウが気に入ったんだね。この子もリュウの綺麗な心に惹かれたのかな?」
アヤカは以前から僕の心の色を『澄んだガラス玉のように綺麗な色』だと言ってくれてたけど、それを聞くたび若干の違和感を感じてた。過去に人殺しをしてた僕にはどう考えても、合わない言葉だからだ。
「そんな事言ってくれるのは、アヤカだけだよ」
「うーんと」
少し体を左右に揺らしながら、アヤカが考え込むように遠くを見つめる。
「多分、リュウは何かを人のせいにしたり、恨んだりした事がないんじゃないかな」
「恨む……か」
それは、言われてみればそうかもしれない。僕を影縫いに売った父さんと母さんも、僕を解雇した澤谷さんも、人殺しをさせていた芹沢さんも……行動に疑問を感じる事はあったけど。
「自分の境遇を人のせいにしたって、どうにもならない。僕は毎日目の前の事をこなしてただけだよ。強くならないと、大切な人を守れなかったから」
「リュウのそういう所、その……」
アヤカが一瞬言葉に詰まった。
「その子は好きなんだと思うよ?」
どうしたんだ? いつもの柔らかな笑顔を浮かべているのに、なんだか……寂しそうだ。
「余計な事を考える暇はなかっただけだよ」
「私の警護も?」
「……それは」
違う。でも、その言葉をすぐ飲みこんだ。
アヤカと初めて会ったのは、11歳の冬の終わり。約4年間、僕は彼女の警護を務めてきた。それは警護対照だからと言うのもあるし……僕の個人的な想いもある。
それに気づいたのが解雇を言い渡された時だったのは皮肉に感じたけど、それで良かったのかもしれない。
「僕は君のボディガードだから」
僕とアヤカは住む世界が違う。レオ君との結婚も、素直に祝福するべきだ。
少しだけ、沈黙が流れた。
僕とアヤカは無言で食事をし、互いの弁当箱が空になった頃には皆が食事を終えて、中庭の外れにいるのは僕とアヤカだけになっていた。
「この花……」
アヤカがの瞳が花壇の外れに咲いている白いリンドウにとまっている。
「こんな所に咲いてたら誰かに踏み潰されちゃうね、こんなに綺麗なのに」
「種が溢れたんだろうね」
「少し、私に似てるかも」
似てる? それは自分が妖精とも、人間とも言えない存在だと言ってるのだろうか?
「そのリンドウ、アヤカの部屋に飾ってあげたらどうかな? 今日授業が終わったら、鉢植えにして部屋に届けに行くよ」
「……」
アヤカは返事をせずに立ちあがり、芝生の真ん中に歩いていく。
「ね、リュウには私が何に見える?」
「いきなり、どうしたの?」
「妖精? 人間?」
「どっちかに決めないといけないのか? アヤカはアヤカだろう?」
それを伝えた瞬間――
「ありがとう、リュウならそう言ってくれると思った!」
アヤカが声を弾ませ、両手を広げた。
直後、柔らかな風が吹く。制服が風になびき、細い金髪と若草色のリボンがふわりと風に舞った。鼓動のような音が響き、中庭の木々が揺れ出し、喜びの声をあげるように音を奏でていく。
――精霊たちが、喜んでる?
「リュウ、聞こえる? 精霊達の声」
「声?」
耳を澄ましたけど、聞こえるのは風が花や草を揺らす音だけ。
――けど、振り向いたアヤカのライトブルーの瞳と目が合った瞬間。
『Auris elyr, Valgas anima.』
風が微かな囁きとなって、言葉にならない詩が僕の心の奥に直接響くように伝わってくる。
「なんだ、これ?」
視線を逸らす事が出来なかった。何を言っているかはわからない。でも
『Fel nostel, estra liss arda.』
これはアヤカの心だ。
彼女の想いが精霊たちを震わせて風になって、僕の心に共鳴してるんだ。
「言葉では伝えられないから、この風に託したの。伝わったかな……?」
「何の言葉かわからなかったけど……意味は」
「妖精のさようなら、だよ」
さようなら? 確かに物悲しい響きではあったけど、そんな風には聞こえなかった。そう、思った時
――昼休憩の終わりを告げる音が中庭に響いた。
澤谷さんとの約束は、午前中まで。
この瞬間から、僕はアヤカのボディガードではなくなった。校庭の方を見ると、澤谷さんが手を振る姿が小さく見える。
「時間、だね。検診に行かなきゃ」
アヤカは自身の髪を結っていたリボンを外して僕に差し出した。
「私のお父さんの心の色と同じ色のリボン。いつかお父さんに会える日まで毎日つけてるって決めてたの」
お父さんに会える? 前もそんなことを言ってたけど、お父さんって澤谷さんの事じゃないのか?
「私、お父さんの春の草原みたいな綺麗な緑色の心の色に恋をして、お父さんの娘になったの。今日はお父さんに会える日なんだ、だから……リュウにあげるね」
僕が無言でリボンを受け取ると、アヤカはいつもの柔らかな微笑みを浮かべた。でもすぐ瞳が潤んで、それを隠すように背を向けた。
「今までありがとう」
「アヤカ」
澤谷さんの方へ走ろうとした彼女の手を咄嗟に掴んだ。
「本当に今のは”さようなら”なのか? だとしたら、僕はそんなの認めない」
「リュウ」
「契約は失効した。だからはっきり言うよ。この先君を守るのは、僕自身の意思だ」
アヤカの肩が震えてる。彼女は何かを言いかけるように少しだけ顔を上げたけど、言葉を飲み込むように小さく頷いた。
僕が手を離す瞬間、少しだけ指先が名残惜しそうに触れる。そして、アヤカは振り向かず澤谷さんの方へと駆けて行った。
アヤカの背中を見送りながら握りしめたリボンに視線を向けた、その時。
「精霊のエネルギーが生み出す共鳴風……Valgasという部分か。美しい響きだったな」
背後から男の声。振り向くと、そこには中庭を飛び回る妖精達とは違う、人と同じ大きさの……
――妖精? いや……違う……?
その男の姿を確認した瞬間、彼の放つ異様な気配に体がビリビリと反応する。
「誰だ?」
「君はデモ活動をしていた俺を遠くから見てた……覚えてないのか?」
男が喋る度に吐き出される息に、血の匂いが混じっている。
その男はどう見ても、中庭を飛び回る妖精や、今僕の肩で眠っている妖精とは違う風貌をしていた。




