フェアリーヴィジョン現象
アヤカの部屋は彼女がいつも髪を結っているリボンと同じ「若草色」と白い家具で統一され、たくさんの植物が飾られている。この部屋に足を踏み入れると、自然と心が落ち着いていくような気がするんだ。
絵画を部屋の隅に置き、一息。
「今度イーゼル(土台)を持って来よう」
部屋の隅に飾られたタクミ君の絵画をアヤカに見せると、まるで宝箱を開けた子供のように瞳を輝かせる。そして……
「素敵……これ、誰が描いたの?」
――アヤカはタクミ君や地下研究所の一連の出来事の記憶を失っていた。
*
アヤカの部屋を後にしながら、彼女の記憶障害について考えた。
タクミ君が化け物に変貌した時、アヤカの心のダメージは相当なものだったはずだ。精神的苦痛から記憶を閉ざしているのだろうか? そう思った時真っ先に思いついたのは、アヤカが月に数回通っている「検診」の事だ。
ふと胸の奥がざわついた。アヤカは「検診」の事を記憶から失っている。もしかして「検診」でも彼女は何らかの精神的苦痛を? 考えが纏まらないまま寮の外に出た時――
――その「違和感」は突如訪れた。
「いつもと空気が違う……?」
まるで、どこか別の世界に足を踏み入れたかのような違和感。レオ君の部屋を後にしたのは、ほんの15分前の事だ。でも明らかに違う。レンガ造りの道を挟む花壇。そこに咲いた満開のパンジーの花。その奥に広がるゴム製の校庭もそのままだ。
――でも。
「おい! 何だ、あれ!!」
登校する生徒達が「異様な光景」に声を上げた。
「キャ――!! 何よこれ!!」
「おい、ここにもいたぞ」
「本当かよ、写真撮ろうぜ……あれ? カメラに映らないな」
花壇、街路樹、芝の上……学園中の至る所に「それ」はいた。そして、僕とアヤカの頭上にも。
まるで空気そのものが光を孕んでいるように、朝の柔らかな陽光に混じった微細な光の粒が形を成して舞っている。
「光の……鳥?」
一瞬見間違いかと思って目を閉じて頭を振る。再びその場所に視線を向けたけど、「それ」は確かにその場所に存在していた。触れようと手を伸ばしたけど、光の集合体は少しだけ羽をはばたかせた後空へと消えて行った。
「おい! こっちは小人だぞ」
声のする方に視線を向ければ、パンジーの間から手のひらサイズの「何か」がひょっこりと顔を出している。ずんぐりとした体躯に厚みのある腕、まるで昔ユメに読み聞かせてあげた絵本に出てきた小人のような姿だ。
小人があたりを見回しながら外に出ると、生徒達がこぞって写真を撮ろうと集まってくる。それを見て驚いたのか、急いでパンジーの花の間に潜り込んでしまった。
「これは……一体」
そして、その様子を見ていたアヤカが不思議そうに尋ねてきた。
「リュウもあの子達が見えるの?」
「? どう言う事だ?」
「この子達、妖精だよ?」
「妖精……? これが?」
蝶のような姿。花びらの上に腰掛ける小さな影。芝の間に隠れ、きらめく瞳だけを覗かせるもの。異様な光景ではあるけど「怖さ」は感じない。まるでおとぎ話の絵本の世界に足を踏み入れたような……不思議と落ち着くような感覚すらある。
そのせいだろうか? 生徒達が「妖精」達を怖がる様子はほとんどない。そして……
――一人の男が花壇の傍で、空を漂う光の集合体をじっと見つめていた。
「フェアリーヴィジョン現象が確認された。世界樹から流出したエーテルにより妖精の可視化閾値が限界を超えたのだろう。精霊界との位相干渉が活性化している……このままでは次元の歪曲が進み、エネルギーフローの不均衡から不足分のエネルギーが世界樹に吸収・還元される可能性が高い」
……言葉が難しすぎて、理解できない。たぶん妖精達が見えるようになった事に対する考察だと思うんだけど……。
丸眼鏡を掛け直し、ブツブツと呟きながら歩く猫背の男。乱れたダークブラウンの髪にどこか虚ろな黒い瞳。白衣を着ているが、科学者だろうか?
そして、男の視線はこっちに……いや……「アヤカ」の方へ向けられた。反射的に身構える彼女を庇うように前に立つと、男はアヤカに視線を向けたままブツブツと呟くように話し出した。
「……プロジェクトの最終段階を急がねばならん。次のサンプルも決まっている……"調整"が必要だが、予定通り1年後にメーファスは誕生するだろう」
――この男、メーファスプロジェクトを知っている……!?
「あの、メーファスっていうのは」
「……いち"サンプル"が口を開くな」
「……!!」
虚ろな表情と少しかすれた声に、生気を感じない怖さを感じた。けど、それ以上に異様だったのは彼の目だ。底知れぬ闇を感じさせるような、一切の光が宿っていない黒い瞳。
「研究を続けねば」
男はブツブツと何かを呟きながら高等部の方へ歩いて行った。その背中を見送っていると、アヤカが僕の制服の袖を掴んで呟いた。
「私、あの人に会ったことがある……確か名前は、イサム博士」
イサム博士……どこかで聞いた事あるような名前だ。この学院に入学してから2年半、一度も姿を見る事がなかった男が急に現れた。アヤカは会ったことがあるけど覚えてないみたいだ。
……どういう事だ?
*
白を基調に青が入った洗練された教室内。最新のスマートボードが設置されたスタイリッシュな勉強机。
授業の準備をする生徒達の話題は案の定「妖精現象」――イサム博士が言っていたフェアリーヴィジョン現象――の話で持ちきりだった。
「可愛かったよね、蝶々みたいなのが私の髪にの周りで飛んでたの」
「私は葉っぱみたいな形をした子を見たよ」
妖精たちの事を「かわいい」「面白い」と称賛し、「不気味だ」と言う者はいなかった。そして僕とアヤカに対し、クラスメイトの反応はいたって普通だ。どうやら「不用な者アンケート」の後、僕達は「早退した」事になっていたらしい。そして――
「タクミ君!?」
若干癖のある髪に小柄な背丈。頼りなさげな表情……それは間違いなく、地下研究所で化け物に変貌した『真田タクミ』だった。一瞬目が合ったけど、まるで意志がないように口元に笑みを浮かべ、機械のようにゆっくりと瞬きをするだけ。
アヤカはきょとんと少年を見つめ、レオ君は何事もなかったかのように取り巻き達と喋っている。
――違和感を感じているのは、僕一人みたいだ。
「リュウ、あの子の心の色……不思議。光の粒がチカチカ瞬いたり消えたり、まるでノイズみたいな色。でもその奥で、人の影が滲んで見えて、何かを求めてる……」
タクミ君の心の色は『青空の下に咲く花畑のような色』だったような気がするけど、どういうことだ? アヤカは彼の記憶を失ってるし、「知らない」前提で話をするべきだろう。正直、心苦しいけど……。
「それはどんな人なの?」
「まだ生まれたばかりで……でも、一生懸命何かを学ぼうとしてる。今も何か情報を見つけて、何が必要か間違いかを「分析」しながら、自分の一部にしてるみたい」
学ぶ……情報を見つける……そして分析……まるでAIのニュートラルネットワークみたいだ。
「似た心の色をしてる子、隣のクラスにもいたの。その子は少しずつ色が変わって、今は綺麗な宝石みたいな色に変わってるよ。あの子も同じなのかな?」
「皆、席につけ」
教師の声で皆が静粛し、僕とアヤカも窓際のいつもの席に座る。今皆を座らせたのは学年主任。タクミ君がレオ君に殴られた後、体育館裏にいた僕達に教室に戻るよう急かした教師だけど……彼も、いつも通りだ。
「まず、皆に朗報だ。我が学院に多大な融資をしてくれている矢崎財閥の株価が急上昇している。これにより学園への融資も増やしてくださるそうだ。皆、矢崎レオ君のお父様に感謝するように」
矢崎家の株価上昇……何か大きなビジネスでも成功させたのだろうか?
「おい、お前ら。レオさんに感謝しろよ!」
「拍手しろ! 拍手!!」
取り巻きの声に皆が次第に拍手をし始め、教室内は拍手で満たされた。株価上昇は素直に賞賛するべきだ。僕とアヤカも拍手を送ると、レオ君は満足そうな笑みを浮かべた。
――でも、一瞬レオ君がアヤカに向けた視線が妙な「違和感」を感じさせた。
アヤカとレオ君は正式に婚約が決まった。未来の妻となる彼女に向ける視線とは思えない「冷たさ」を感じる。この違和感の正体は、何だ?
「次に転校生を2人紹介する」
このタイミングで転校生……
芹沢さんに、シオン、イサム博士。妖精が見える謎の現象に死んだはずのタクミ君が教室にいる事。全てにハーモニア大学附属学院が関わっている可能性が高い。更に、澤谷さんも芹沢さんの手に落ちていると考えるのが自然だ。
そして2人の転校生のうち、1人はカレンの可能性が高い。もう一人は過去に「影縫い」で同期だった戦闘員だろうか?
――情況が悪すぎる……「仲間」が、必要だ。
でも、その名前を聞いた瞬間、張り詰めていたものが一気に緩んだ。
「おーい、そこのくそ真面目。眉間にしわが寄ってんぞ!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、笑顔を浮かべ、ひらひらと手を振る少年の姿が映った。
1人は予想通り、カレン。恐らくあと半年もしないうちに卒業となるからだろう。彼女の制服は転校前の制服・紺のブレザーのまま。
そしてもう1人は――ハーモニア大学附属学院のズボンにベージュのカーディガン、気崩されたシャツ。若干癖の入ったダークブラウンの髪と黒い瞳の男子生徒だった。
「よぉ、リュウ! 久しぶりだな!」
それは僕の親友であり、影縫いを逃亡した後に匿われた先で、兄弟のように育った――和久井ダイスケだった。




