解雇命令
――ふと、違和感を感じた。
それは長年培った「感」のようなものなんだろう。窓から指す朝日と微かに聞こえる鳥のさえずり、柔らかな光が照らす室内は、地下研究所での惨劇を忘れさせる程安穏としたものだった。
そんな空気にメスを入れるかのような、張り詰めたような空気。これは――
「何かが近づいてる……?」
あたりを見回した瞬間、額に激痛が入る。滴り落ちた血が目に入り、反射的に目を閉じた。タクミ君の一撃を受けた時に額に受けた傷だ。使用人の女性が置いて行ってくれたタオルで止血したけど、血が止まる気配はない。
「レオ君、さっき『全て筋書き通り』って言ってたけど、何か知ってるの? タクミ君の絵画が君のものになるって言うのは?」
「知らねぇよ! 俺は父様にそう聞かされてただけだ、お前の才能は金で買ったってな。それ以上は知らねぇよ」
確かにレオ君が地下研究所の一件に関わってるなら、彼が殺されかけた事は辻褄が合わない。本当に知らないんだろう。
「レオ君も画家を目指してたの?」
「父様が絵画を集めるのが趣味で、俺はガキの頃から絵画のレッスンを受けてた。英才教育ってやつだな。けど芸術の世界でどんなに子供が夢を持とうと、生き残れるのはほんの一握りだ。いや、一握りどころか数えるほどしかいない」
それは彼自身の失望なのか。それとも長年抱えた苦悩なのか。芸術を志す者は、人に認められる事もなく、孤独の道を歩く事が多いって聞いたことはある。
「コンクールで賞をとれれば親は喜ぶが、何の功績も上げられなければ「お前は駄目だ」と罵られる……それでも子供は親に認められる為に必死に頑張るんだ。子供は親のアクセサリーじゃねえってのにな」
パレットに広がるその色――タクミ君の絵から生まれた「輝くようなライトブルー」を再現しようとした痕跡。同じような色を作ろうとしたけど作れなかった……それは単なる模倣ではないように思える。彼の心のどこかに、タクミ君への憧れが隠されているのだろうか?
「勘違いするなよ」
レオ君の声が急に低くなった。
「俺はあいつとは違う。才能だけでいい気になって、周りを見下してるあいつとはな」
「タクミ君が、周りを見下してた?」
「あいつ、俺たちのことなんて鼻で笑ってたじゃねぇか。俺たちがどんなに悲鳴を上げたって、あいつの耳には届かなかったんだ」
不意に胸がざわついた。タクミ君は確かに過集中状態で周りの声が耳に入ってない事があったけど、あれは「鼻で笑う」態度だったのだろうか? レオ君たちが教室でタクミ君に浴びせた暴言――あれを「悲鳴」と呼ぶなら、彼らはタクミ君を「いじめている」感覚すらなかったという事か?
「おまえは偉かったよなぁ。俺の事も助けてくれたもんな……俺だってお前みたいに強ければ、そうしたかったさ。だからって俺が悪い理由にはならねぇよ。面倒ごとに巻き込まれて死にかけたのはこっちなんだぞ?」
――偉い? 僕はそんな事を言われる為に助けたわけじゃない。
その言葉が嘘であってほしいと、どんなに願っただろうか? レオ君の瞳には疑念の影一つなく、その言葉が紛れもなく彼の本音であると僕は本能的に理解した。
そして、彼の次の言葉が混乱しかけていた僕の思考を容赦なく打ち砕いた。
「合理的に考えれば、タクミが犠牲になるのは決まってたんだ。なのにあいつは無駄に抵抗して、俺たちまで巻き込んだんだよ俺は悪くねぇ……被害者だ」
――頭の中が真っ白になって……
気が付けば、僕はレオ君の上に馬乗りになり、ナイフを彼の喉元に突きつけていた。
「てめぇ……こんなことしてただで済むと思ってんのか?」
レオ君は息を切らせながら、かすかに笑みを浮かべた。その笑みには恐怖も後悔もなく、むしろこちらを挑発する余裕さえ感じられた。
「俺が今、人を呼んだらお前は大罪人だなぁ。アヤカのボディガードどころか、一発で刑務所から出て来られなくなるぞ」
以前の僕なら、彼の言葉に黙って引き下がっただろう。でも――今は違う。
「それなら刑務所に行く前に君を殺す」
「……なっ……」
彼はまだ平静を装おうとしている。でもナイフを押し付ける力を更にに強めると笑みは消え、瞳が一瞬見開かれた。
「お前みたいなクズを生かしておく理由はない」
「……冗談だろ……」
指先に込める力をほんの少し強めれば、僕のナイフがレオ君の喉を裂き、彼の命は終わる。決めて、動いて、殺す。幼い頃訓練で習った通りにするだけだ……。
「地獄の底まで追いかけて……必ず殺す」
「ひっ……!」
恐怖に染まる瞳、本能的な震え――知っている。
影縫いの頃、仕留める寸前の「獲物」が命乞いをする時の顔だ。彼を押さえつける手に伝わる鼓動は、次第に早くなっていく。対する僕の心は異様な程静かだ。
「……それとも、このまま殺してやろうか?」
コン コン
「レオ様、澤谷ソウイチ様がお見えです。お招きしてよろしいですか?」
制服のクリーニングの為退室していた使用人の女性がドアの外から声をかけてきた。それに反応するようにレオ君が震えた声で叫んだ。
「あ、ああ……入れ!」
澤谷さんがここに? 今は6時半。この部屋に来てから1時間も経っていない……この異様なほどのタイミングの良さは何だ? レオ君から離れると、彼は足早にドアの方へ向かっていく。そしてナイフをしまおうとした時、刃の照り返しに僕の顔が映った。
「ああ、この顔だ」
光を灯さない瞳に、虚ろな顔。生気の宿らないようなそれは、まさに――
――お前はタクミ以下――一般人以下の人間だろ? 本来ならアヤカには会う事も無かったような人間だろうが
あの時のレオ君の言葉の通り、僕はただの学生ではない「人殺し」という存在だ。職務の為にここにいるに過ぎない。
「何人殺してきたと思ってるんだ、今更人並みの生活を送れるなんて思う方が、おかしい」
小さく呟きナイフをしまった直後、澤谷さんが使用人の女性に連れられ部屋に入って来た。
「リュウ、アヤカは無事なのかね?」
「…………はい」
依頼人に背中を向けるのは失礼にあたるけど、この顔を澤谷さんに見られるわけにはいかない。軽く呼吸を整えた後振り向く。すると――
「君は」
澤谷さんの後ろには、ハーモニア大学附属学院のものとは違う紺の制服を着た少女がいた。
無事――澤谷さんは地下研究所の一件を知っているのか? そして、このタイミングで「彼女」が現れる事は何を意味する?
バレッタで結い上げた長い黒髪に、女子にしては高い身長。僕が知っていた頃の彼女とは随分雰囲気が違っていたけど、間違いない。その道に生きて来た事を象徴するような「無音」に近い歩調は、僕と同じ影で生きる人間のものだ。
「あら、どこかで会ったかしら?」
小さくため息を吐き「興味がない」と言わんばかりの淡々とした声でかけられる言葉は、まるで機械や人形のようだった。眼鏡を掛け直すように左手を上げた彼女の「緑色の瞳」が向けられ、反射的に目を逸らす。
「彼女は芹沢カレンさん。今日からアヤカのボディガードを務めてもらう事になった」
「……え?」
「リュウ、君を解雇すると伝えたんだ。これからは、この芹沢カレンさんがアヤカのボディガードを務める事になった」
芹沢カレン――彼女を僕は知っている。彼女は、僕の影縫い時代の同僚であり……芹沢ユウジの娘だからだ。
疑いが核心に変わった。やっぱり澤谷さんは、あの地下研究所の一件に関わっている。そして、芹沢ユウジとも……面識があるんだ。これは単に僕の職務が至らなかったからなのか? いや、カレンがここにいる以上「何かが動いた」――そう、判断するのが自然だ。
「僕はアヤカさんのボディガードとして、適正ではなかったでしょうか?」
「いや、君はよく働いてくれていたよ。アヤカも君を気に入っていたし、これからも務めてもらいたいところだけど……少し状況が変わりそうなんだ」
「状況が変わったというのは?」
澤谷さんが少し眉を顰めた。依頼人のプライベートの介入はボディガードとして適切じゃない。でも――
「僕はアヤカさんを4年間見守ってきました。彼女に対し、1人の人間として情も持っています。もし僕の職務が適正外でないのであれば、教えてください。彼女は――」
言いかけて言葉に詰まった。
僕は一体何を聞こうとしている? 何を訴えようとしている? アヤカのボディガードを下ろされるのがそんなに嫌なのか?
「これからも笑顔で学園生活を送れるのでしょうか? 僕は……彼女の未来をこれからも見守りたいです」
言い終えて、胸の鼓動が早くなっているのを感じた。こんな風に何かを強く訴えたのは初めてだ。
僕はタクミ君に「何があってもアヤカを守る」と誓った。けどそれだけじゃない、何故こんなにもアヤカの未来が気になるんだ? 彼女を守るのは職務だったはずなのに、どうしてここまで解雇を拒否する? 自分の心が理解できなかったけど、でもこれだけは言える。
腹の奥から脳まで燃やされるような不快な感覚。これが感情なら、アヤカのボディガードは僕にとって、ただの「任務」じゃないって事だ。
だからこそ、次の言葉が重く響いた。
「アヤカと矢崎レオ君の婚約が正式に決定したんだよ」




