地下研究所⑧ 僕を突き動かす「本能」――それはアヤカを守る事。
――あたりが微かに「揺れた」気がした。
空気の振動する音があたりをざわつかせ、遠くから鳥が一斉に羽ばたき、迫りくる影に怯えたかのように空に逃げていく。まるで「不吉」の予兆を告げるかのような不気味な雰囲気が肌から伝わってくる。
そしてアヤカが抱きしめるタクミ君の背景のに映る「終焉の夕陽」が、僅かに色濃くなったように見えた。
――これは、いったい?
「戻って来て、タクミ君」
周囲を冷やす冷たい風は、アヤカの悲しみを訴えていた。一方で、願いを込めたその言葉は化け物の中に残る何かを呼び戻そうとしているかのように響く。
――太陽の精霊はアヤカの「愛情」に反応し、淡い光を放つ。彼女の「愛情」に反応したのだろうか? 化け物の表情が少しだけ穏やかになったように見えた。
そして――光を失っていたむき出しの瞳が微かに動き、化け物の瞳から血の混じった赤い涙が溢れだす。
――戻ってきた……!?
「君は……化け物になって、も僕を……」
その声は以前の声変わり仕切っていない少年の声ではなく、レムの咆哮に近い化け物の声だった。
タクミ君の腕がアヤカに触れようとして、止まった。その視線は彼自身の変貌し、爛れた赤黒い手に注がれ――
「もう、絵は描けない……僕の絵を好きだって言ってくれたのに、ごめん」
悲しそうに顔を伏せるタクミ君に、アヤカは「行かないで」と繰り返し呟いた。
「……あの時……消しゴムを、あり…………ガッ……」
「タクミ君!?」
ゆっくりと僕の方へ向けられたその視線には「痛み」「悲しみ」……「決意」が宿っている。そして告げられた、絶望と祈りが込められているかのようなその言葉は――僕の耳に残酷に響いた。
「ごろ……じ……で……」
「タクミ君、駄目」
アヤカが首を振り必死に訴えているけど、タクミ君の瞳が徐々に光を失っていく。化け物に……戻っていく。
「ごろじで……」
精霊の光は爛れた体を「癒し」ているかのように見えた――それなのに。彼は理解してる。
もう、元に戻れない事。このままではアヤカを傷つけてしまう事。そして僕にそれを「止めてくれ」と言っている。
「僕は……」
視線がナイフの刃先に吸い寄せられる。
再び地面が微かに揺れ、一層色濃くなった「終焉の夕陽」が僕のコンパクトブロントに当たり不気味な光を放っていた。この刃を振るうことで僕はアヤカを守れるだろう。でも同時に、タクミ君を見捨てる事を意味する。
――守るために、殺す。 「許しがたい罪」を背負う覚悟を、この手に――。
――「ゼロの領域」
初めて使ったのは、僕と同じように殺し屋として働く女の子が、目の前で殺されそうになった時だった。彼女が死ぬ――その現実を叩きつけられた瞬間、僕は無意識に「呼吸」に集中していた。
吸い込む空気が肺を満たし、吐き出される息が体中の感覚を研ぎ澄まし――その瞬間、世界が変わった。
音が消えた。
色が薄れた。
そして、不安、恐怖――すべてが消え失せた。
残ったのは無機質な「最適化された世界」――「脅威」と「救うべき存在」だけが浮か上がるそれは、生存本能が創り出した無の空間だ。
その極限状態入れば、あとは『反射的に実行』するだけだ。一切の感情を切り離し、ただ「本能」のまま、欲望を果たす。
過去の僕にとってそれは、妹を守る事だった。
そして今、僕を突き動かす「本能」――それはアヤカを守る事。その為に――
「君を殺す」
「ゼロの領域」が作り出す極限状態が僕の本能を再び蘇らせていく。
アヤカを守る――迷いのないその一閃をレムの左手首に叩き込むと、刃が肉を裂き、骨を断つ鈍い感触と共に、赤黒い血が飛び散った。
「……ッ!! タクミ君――!?」
その音に気が付きアヤカが彼の左手首に視線を向けようとした瞬間――タクミ君の手が「吸収」を放った。優しい彼女に自分の「死」を目の当たりにさせない為の、最後の力。ふらりと倒れた小さな体を抱きとめた瞬間、巨体が音を立てて崩れ落ちた。
――気づけば、僕たちのいた細道は、アヤカの「悲しみ」に反応した精霊達が起こす冷気で辺りはキラキラと氷の粒が舞っていた。その中心にはレム――タクミ君の無惨な姿。微かに揺れるむき出しの瞳に宿るのは恐怖か、恨みか――それとも僕を憐れんでいるのだろうか。口が何かを訴えるように動き……彼はゆっくりと瞳を閉じ、そして動かなくなった。
「はぁっ……はぁ……」
自分の呼吸音だけが耳に残り、体中に染み付いた血の匂いが意識を現実へと引き戻す。そして頭の中ではタクミ君の言葉が繰り返し再生されていった。
――『悪を憎むな。悪を憎むことは、悪を理解することを妨げる』って……僕の好きな画家の言葉なんだけど。
気を失ったアヤカの口から「ごめんなさい」と小さく呟く声が聞こえた。その泣きはらした顔を眺めながら、僕はひたすら自問自答した。
――僕は、何を守ったんだ?
――僕は、何を殺したんだ?
……僕はアヤカの守りたいものを守れなかったのか? それとも……救えたのか?
感情を捨てて戦った先に残ったのは――胸を支配する「虚無」だけだった。
……気が付けば「終焉の夕陽」が消え、静かになった夜に微かな足音が響く。
「久しぶりの血の味は格別であったでしょう?」
その声に視線を向けると、やせ型で長細い顔。きれいにセットされた白髪に緑色の瞳。その細身な体からは想像できない威圧感を放つ壮年の男――
「芹沢ユウジ」が立っていた。




