地下研究所⑦ 『悪』
夜の闇に微かに吹く冷たい風を切り裂くように、走る。
化け物の荒々しく振り上げられた腕が僕めがけて振り下ろされ、回避すると耳元で風を切る音が耳に響いた。
――嫌だ。
頭の奥で幼い少年の声が響いた。
――嫌だ。
「うるさい……黙れ!」
吐き捨てるように呟き、化け物の懐に入ると腹に肘を叩き込む。苦痛の声を上げて膝を突く化け物に追撃の肘を振りかぶる――その瞬間、脳内に別の声が響き渡った。
――君が彼に与えた無言の「NO」がどれだけの絶望を彼に与えたか、君は理解していますか?
ゼロの領域――絶対集中状態でいるはずなのに、誰かがざわざわと声を上げ心を犯していく。
「黙れ……黙れ!!」
燃えるような何かが胸の中心を侵食する一方で「殺す事」が染み付いた体は本能的に任務を実行した。肘を化け物の首に叩き込み地面に叩きつけ、そのまま馬乗りになりナイフを構えた。
「ガアアアアアアァァァァァ!!!!」
刃が化け物の左手首の黒い石に当たると激しくのたうちまわり、僕を引きはがそうと肩を鷲掴みにした。ミシ、と左肩が軋む音に刺激される闘争本能。それに反応するように脳が熱くなり――拳を振り上げた。
「くたばれ……!!」
躊躇なく顔面に拳を叩き込む。そのたびに生々しい衝撃が腕から伝わり、飛び散った血が僕の制服を赤く染めて行った。
「ガッ……グガッ――!!」
――「殺しの天才」
過去に「影縫い」で呼ばれていた呼び名は嫌悪感をしか感じなかった。でも今の僕は「目的」の為に「感情を捨てて」任務をこなす――人殺しだ。
――君たちはどうですか? 運命を打開しますか? それとも無意味と理解し反抗を諦めますか?
「何が運命だ!! 何が反抗だ!! 僕はただ、守りたい人の為に戦うだけだ。アヤカを守る。その為だけに――」
化け物が肩を掴む腕の力が僅かに抜けた。殴る手を止め一気にナイフを持つ手に力を込めると、「黒い石」に僅かな亀裂が入る。その時――
一瞬僕は「彼」と目が合った。
むき出しになった瞳。所々裂けた肌。目を背けたくなるような、痛々しい姿。そこには、僕の良く知る気弱で心の優しい少年「真田タクミ」の姿はない。
でも視線が交差した一瞬――微かに彼の瞳に見えた気がした。アヤカの大好きな「輝くようなライトブルー」が。
「タクミ、君―—!?」
――人は自分のしたことが『悪』と思いながら生きてるわけじゃなくて、守りたかったものがあったのかもしれない。例えば家族だったり、夢だったり……人の表情には『理由』があると思ってるんだ。
『悪』……誰が悪なんだ? そう思った瞬間――呼吸が乱れた。
「ゼロの領域」からの開放され、眠りから覚めるかのように音と刺激を取り戻していく僕の世界。
「肌に触れる冷たい風」――「目の前の化け物が苦しそうに吐く呼吸」――「僕自身の心臓の音」――全てがうるさい程耳に響く。そして、過去の芹沢さんの問いかけが、僕の脳内に蘇ってきた。
――君たちは世の中を毒す真の敵が誰か、わかりますか?
敵……悪は……
「僕が……悪だ」
突如――右半身への激痛と共に世界が揺れ、宙に浮いた体は鈍い衝撃と共に地面に叩きつけられた。目の前が霞み耳鳴りが響く中、顔を上げると骨を折った右足を徐々に再生させながら立ち上がる化け物の姿が映った。
地に落ちたナイフを拾い上げ立ち上がる。引きずるような足音――奴が、近づいてくる。
ぽた。
血の滴る音に視線を向けると、ナイフを握る手が震えている。がたがたと……まるで痙攣するかのように。
「殺せ」
――嫌だ。
「殺せよ……!!」
――嫌だ。
「やらなきゃいけないんだ!! 殺さなきゃいけないんだ!!」
――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
脳内で響く少年の声が徐々に理性を侵食していく。
ふと顔を上げると――すぐそこに迫った化け物が腕を振り上げ、僕を仕留めるべく振り落とそうとしていた。
殺せなければアヤカが殺される。ユメのように……また、失ってしまう。
動け。動けよ……!! 殺さないといけないのに……
「――嫌だ」
頭に響く声が心の叫びとなり、そのまま口から零れ落ち全身を震わせた。本能が、拒絶している――彼を殺したくない、と。
その瞬間僕の命が終わる――そう思った。
*
――一瞬、過去の事が脳裏に蘇った――妹、ユメが死んだ日のことだ。
服に染み付いた血の匂いと、酷い疲労、そして混乱。任務に「失敗」した僕は妹のユメの病室に運んでいた。ターゲットを殺せなければユメの命はない。そう伝えられていたにも関わらず、僕はその日のターゲットを殺すことが出来なかったんだ。
ユメは僕の頭を撫でながら「お兄ちゃんのうそつき。もう危ない事はしないって約束したのに」――そう言って微かに微笑んでくれた。その笑顔に安堵して、ほんの少しだけ目を閉じたんだ。
でも、目を開けた時映ったのは――窓から身を乗り出すユメの姿だった。
指先が冷え、目の奥が焼け、胸の奥が引き裂かれ、乾ききった喉から心の叫びが湧き出す。
「嘘だ!! やめてくれ!!」
ユメの手を掴もうとした手は、空を切り……微かな笑顔と大粒の涙を浮かべて、妹は夜の空に消えて行った。
人生を賭ける、唯一のもの。それを失った時人はどうしたらいいんだ?
多くの人は、本能的に逃げるか、自己崩壊して周囲に流されるか。もし心が強い人間なら、新しい「価値観」を見出して前に進むんだろう。
僕は、逃げた。
「影縫い」から……ユメの死から……今までの「しごと」から。
*
「……ア……ヤガ…………さん……」
朦朧とする意識の中、ふと顔を上げると――化け物が振り上げた腕が止まっている。いや、ただ止まってるだけじゃない。その腕を抱きしめて動きを封じているのは、アヤカだった。
「アヤカ……?」
彼女の周囲に「丸くて淡い光」がひとつ、ふたつ浮かび上がり、やがてタクミ君の体を包むように周囲を照らす。不思議と心地よい光。この光は――太陽の精霊だ。
「戻ってきて、タクミ君」




