地下研究所④ 失敗
「科学において、失敗は単なる結果ではないと科学者たちは言うでしょう。彼らは失敗を恐れません。そしてレムは、ただの失敗作ではない。崇高なる数々の試行の、たった一つの可能性に過ぎないのです」
*
大人の1.5倍ほどの体躯。耳元まで裂けた口に、むき出しの瞳が鋭く光る化け物――『レム』
「ゼロの領域」を発動し、無機質な床を蹴りつけて一気に走る。化け物が鷲掴みにしているレオ君の頭部に徐々に力が込められていく。
「アアアアアアアアアアアア!!!!」
――砕ける――!! 嫌な音が脳裏をかすめたその刹那――
懐に滑り込み、頭部へ全力のアッパーカットを叩き込むと鈍い衝撃と共に巨体がぐらりと仰け反る。その隙を見逃さず、レオ君を引き寄せると抱えて後退した。
「リュウ!? お前もここにいたのか!?」
「タクミ君、レオ君を頼むよ」
駆け寄ってきたタクミ君にレオ君を任せ、短く言い残し再び化け物に接近する。
しなるように振り下ろされた巨大な腕を紙一重でかわし、拳を振り抜き腹へ全力の一撃。飛び散る血が腐臭をまとい、返り血となって僕の頬を濡らした。
右手に握りしめたコンパクトブロントを持つ手に力を込め、狙うは――弱点の左腕の黒い石。
「ガアアアアアアアアッ――!!」
確かな手応えと共に、石が砕ける音が響き巨体が音を立てて崩れ落ちた。返り血を拭いながら振り向くと、レオ君が我に返ったように顔を上げ――次の瞬間、険しい表情でタクミ君の胸倉を掴み叫んだ。
「タクミ! てめぇ、1人で逃げやがって……!!」
「れ、レオ君無事でよかったよ……!! 怪我はない? ……あっ」
タクミ君の視線が彼のズボンに留まった。レオ君もそれに気付いたのか胸倉を掴む手が緩み、しばらく微妙な沈黙が流れる。僕たちの到着が一瞬でも遅ければ――あのまま彼の頭は握りつぶされてたんだ。無理もない。
2人の無事を確認し、奥のアヤカのいる部屋へと近づく。
そして――一瞬足を止めた。夢の中では、僕たちのいる空間とアヤカのいる部屋は完全に分断されていたはずだ。でも今は、一部が不自然に開いたままになっている。
――さっきの嫌な予感が脳裏によぎる。これは――罠か?
「2人とも走れる?」
「う、うん」
「何かあったらすぐに部屋の外に走って」
2人が不安そうに頷くのを確認して、アヤカのいる部屋へ足を運ぶ。
彼女の顔色が少し悪い……何かされたのだろうか? 辺りを慎重に見回しながらアヤカのいる部屋に足を踏み入れた瞬間――耳をつんざくような電子音と機械音声が流れた。
『侵入者を発見しました。セキュリティを発動します』
「――!! 部屋を出ろ!!」
2人に叫びながらアヤカに駆け寄り、ナイフでロープを切り始めた。
「リュウ……?」
かすれた声に少しだけ視線を向けると、ぼんやりと目を開けたアヤカが僕を見下ろしている。
「アヤカ、今助けるから」
『施設のロックを発動します。緊急施錠まで、あと5分』
――5分。
突如突きつけられたタイムリミットに全身に冷たい汗がにじむ。――焦るな!! 焦燥感が胸を締め付ける中――一瞬背筋がひやりとした。これは、殺気? 振り向いた先には――
「グゥウワアアアアアアアアア!!!!」
――耳をつんざくような咆哮と共に、さっき倒したはずの化け物がゆらりと立ち上がっていた。
「こいつ、まだ――」
――ドォン!
開きっぱなしの扉の入り口を化け物が全力で拳を叩きつけ、衝撃音と共に破片が四散し、大きな破片が僕たちの方に飛んでくる。
拘束を解いた僕は、咄嗟にアヤカを抱きよせ横に飛び退いた直後――破片が僕の左腕をかすめ、アヤカが拘束されていた椅子が粉々に砕け散った。
「アヤカ、怪我はないか!?」
「私より、リュウが」
アヤカの視線が僕の左腕に留まっていた。浅い傷から血が流れる。さっきの破片が少し当たったみたいだ。
「大したことないよ、君が無事でよかった」
――ドォン!
再び響いた衝撃音に振り返ると、入り口を壊した化け物が室内に侵入してきていた。
『緊急施錠まで、あと4分』
タイムリミットが刻々と減っていく……短時間で仕留めないといけない。アヤカを背に隠し、立ち上がるとナイフを構え――化け物に向かって走った。その瞬間――
「吸収!!」
「――えっ!?」
タクミ君が背後から左手で化け物に触れ、バリバリと電気をまき散らしながら巨体が痙攣する。鈍い音を立てて地面に倒れた化け物。タクミ君は大きく息切れしながら、その場に立つくしている。
「で……できたッ……!!」
これは……!? いや、考えてる暇は――ない。
「逃げるぞ!!」
アヤカの手を引き、倒れた化け物の横を駆け抜けた。
アヤカのスマロが教えてくれた道を思い出しながら、広い廊下を駆け抜ける。
辺りには『レム』たちの不気味な声が微かに響いているけど、不思議なことに僕たちが走るこの廊下だけは、異様なほど静まり返っていた。
――妙だ。来るときはあんなにたくさんいたのに。
『緊急施錠まで、あと2分』
タイムリミットが異様な恐怖を煽る中、辿り着いた広い部屋の奥に長い階段を見つけた。地図通りなら、あの奥に出口がある――!!
一気に駆け上がり、光が差すその場所に走った。
「――!! 出てきた……!?」
背後では重苦しい音と共に、僕たちが出てきた地下研究所への入り口が音を立てて施錠されていくのが見えた。
「ここ、高等部か?」
レオ君があたりを見回し呟いた。そこはハーモニア大学附属学院の高等部の体育館裏。校舎の白い外壁と体育館に挟まれた、広く長細い空間。奥には高等部の中庭が見える。
――そして、僕たちの視線は自然と空へ向いた。
「なんだよ、あれ」
空には星が輝いていた。しかし、広がっているのは幻想的な星空ではなく――夜空の下には血のように赤く染まった「夕焼け」のようなものが光を放っている。
「今、朝の5時だろ? 日の出にはまだ早いぞ」
――終焉の夕陽。
シオンはこの不気味な空について多くは語らなかった。もし、その名の通り世界の終わりを告げるものだとしたら――一体何が原因で、こんな異様な光景が出来上がったんだ?
――ぐうううう……。
重苦しい空気を切り裂くように、盛大なお腹の音が鳴り響き、皆の視線がタクミ君に集中した。
「あ、あはは。おなかすいたね」
彼の苦笑いに、どこか張り詰めていた空気がふっと和らぐ。それはアヤカもレオ君も同じみたいだ。
……とにかく、無事に出ることが出来たんだ。今はそれを喜ぶべきなのかもしれない。
「タクミ君、さっきは危なかった。ありがとう」
「ぼ、僕は何も」
タクミ君が「吸収」と叫んだ直後、化け物が倒れた時の光景を思い返した。あの能力は……
「スマロのエネルギー充電システムを使ったの?」
「う、うん。このスマロは吸収したエネルギーを自分の体に蓄える事が出来る特別なスマロなんだって」
僕たちが捕まる時、スマロは人体のエネルギーを吸収する事で僕たちを気絶させた。タクミ君が使ったのは、恐らくそれを応用したものなんだと思う。
「あの科学者にこれを使ってあの化け物を倒せって言われたんだけど……結局リュウ君に倒してもらっちゃったよね」
「倒したのはタクミ君だよ。でも、あの化け物のエネルギーを吸収するって……体、大丈夫なの?」
「ちょっとムズムズするかな? でも大したことないよ」
情けなさそうに笑うけど、彼が勇気を出してくれなかったら時間内の脱出は絶望的だった。先程まで不安そうにしていたアヤカもいつものように微笑んだ。
「すごかったよ。助けてくれて、ありがとうタクミ君」
柔らかな笑顔に、タクミ君もつられるように笑顔を浮かべる。その笑顔はぎこちないけど、どこか誇らしさが滲んでいるようだった。
「綺麗……」
アヤカがぽつりと呟き、彼女の方を見るとライトブルーの瞳をキラキラ輝かせ、うっとりとタクミ君の瞳を見つめている。
「あの絵と同じ……タクミ君の心、キラキラ輝いてるね」
「こ、心の色?」
「うん。「輝くようなライトブルー」と、その下に咲く綺麗な花畑みたいな綺麗な色が見えるよ」
――妖精は、人間の瞳の奥に心の色を見ることが出来る。そして、綺麗な心を持つ人間に恋をするように惹かれるんだ。
アヤカの言葉に引き寄せられるように、僕もタクミ君の瞳を見つめた。その瞬間――僕にも感じ取れた気がしたんだ。アヤカが言う「輝くようなライトブルーを背景に咲く、花畑のような色」が。
――それは清々しく美しい色で、どこか心が温かくなるような感覚がした。
「タクミ君、君は本当に――」
「めきゃ」
強い人だ。そう言おうとした僕の言葉を遮るように、突然タクミ君が変な声を上げた。
ピシ――
何かが裂ける音と共に、僕の頬に生暖かい液体が数的飛び散った。
「――は?」
思わず声が漏れる。何が起きたか理解できないのは、僕達だけじゃない。タクミ君も同じのようだった。
「ふぁ、なにこれ」
タクミ君の左腕が膨張し――肉の一部が裂け、血が噴き出し、赤黒い肉の色がむき出しになっている。
「リュウ君、僕……今、どうなってるの? か、体がい、痛っ――」
彼の震える声が、耳に突き刺さる。声変わりしきっていない少年の声がかすれていく。その直後――
「――僕、戻れるよね? 元に……もどぅおれうよべ……?」
めきめきめきめきめき。生々しい音と共に、彼の体はさらに膨張していった。
「アアアアアアアァァァァァァァ!!! いだいいだいいだい!!!!」
夜空に悲鳴が響き渡る。一体何が起きているんだ!? 理解が追い付かない。タクミ君は必死にスマロを外そうと動かしたり腕を叩いたりしているけど、膨張は止まらなかった。
「――タクミ君!!」
はっと我に返り、タクミ君に駆け寄ろうとした次の瞬間
ずるり。
音を立てて、タクミ君が叩いていた左腕の皮膚が剥がれ落ち、骨がむき出しになった。その一瞬――彼は僕の方へ視線を向ける。
――その瞳は恐怖と絶望に染まっていた。
「だずげ――」
タクミ君の腕につけられたスマロが膨張した腕に破壊され、中から「黒い石」が姿を現した。その石は変貌していくタクミ君の肉体の一部となるように、不気味に煌めく。
ずる、ずる……
赤く染まった月夜を背景に立ちはだかるのは――僕の知る気弱だけど心の優しい天才画家ではなかった。
赤黒い血を滴らせ、吐く息から背筋を凍らせるような腐臭を漂わせる――化け物がそこにいた。