地下研究所② リュウ……アリ、ガ……ト……ウ……
「感情を捨て去る事が救いになると本気で思っているのですか? 面白い……その先に辿り着く先……それは虚無でございます。感情こそが神に与えられた唯一の贖罪――それを否定する者は、人間を超えた存在になどなれません」
過去に「ゼロの領域」を習得した僕に、芹沢さんが言った言葉を、僕はたまに思い出す。
人間を超えた存在……そんな存在、なりたいなんて思った事すら、なかったからだ。
*
感情や雑念を排除した絶対集中的な状態――「ゼロの領域」
瞑想から学んだ一定の呼吸状態に入ると、失敗への不安や恐怖、音や感覚も消え去り、残るのは目の前の「任務」だけだ。
「最適な経路を発見しました。左斜め後ろの『レム』の後ろの廊下の奥に走ってください」
スマロが僕の前にマップを表示し、確認して頷く。直後ホログラムが消えて、ちらちらと点灯を繰り返す壊れかけた蛍光灯の光だけがあたりを照らした。
ずるずると音を立てて、少しずつ迫る化け物。後ろに立つシオンは周囲に精霊を漂わせながら、小さく笑い――呟いた。
「…………」
「今、何て」
直後、化け物――『レム』が僕に拳を振り下ろす。
――奴らの弱点は、左手首の黒い石。
ゆっくり、しなるように振り下ろされた右腕を回避すると、衝撃音と共に床に亀裂が走る。「出口」への道を塞ぐ化け物の方へナイフを構え――走った。
――動きはかなり鈍い。
攻撃をよけ、巨体の左下――死角に滑り込むと赤黒い肌が目の前に映る。そのままナイフを振り上げ眼球を傷つけると、化け物はうめき声を上げながらよろめいた。
眼球を傷つけても、さほど痛がる様子はない――痛覚は、ない。
そのまま懐に走り込み、がら空きの左手首にナイフを突き刺す。先端に金属が触れる感触――そのまま一気にナイフを持つ手に力を込めた。
「ガアアアアアアアア!!!!」
化け物の奇声が響き、石の割れる感触がナイフごしに手に伝わってくる。スマロの言う通り、黒い石を破壊された化け物は、電気が消えたかのように動きを止め、膝から崩れ落ちた。その横を駆け抜け、奥にある廊下へ一気に走った――直後。
――目の前に黒いコートと不気味な光を放つ黒い刃物とシオンが目の前に立ちはだかる。彼の放つ一閃が僕の腹めがけて放たれた。
「どいてくれ――!!」
放たれた一閃より早く前に出て、体を前に投げ出す。僕の背中を掠めて空を切った黒い刃。一瞬振り向くと、彼の表情が少しだけ見えた。
ゾク
死者のような蒼白の肌に、わずかな蛍光灯の光に照らされた白髪が銀色に煌めく。深紅の輝きを放つ漆黒の瞳と目が合った瞬間、彼の口元が微かに緩んだ。
「やるね」
受け身を取り立ち上がり、返答することなく走った。
――廊下をしばらく走り、立ち止まると荒い息を抑えつつ周囲を見回した。
耳を澄ませると、遠くの方で化け物のうめき声が聞こえるものの、気配や殺気は感じない。それを確認してようやく「ゼロの領域」から体を解放する。
シオンが追ってこない。どうしてだ? すれ違いざまに見えた――あの血色の悪い肌に深紅の輝きを放つ漆黒の瞳。思い返した瞬間、一瞬背中がひやりとした。
――落ち着け
心に巣食う「不安」や「恐怖」を振り払うように深呼吸を繰り返す。まずは状況を判断する為にあたりを見回した。
今いるのは窓のない無機質な壁が続く広めの廊下。冷たい空気が肌を刺す中、周囲を警戒しながらスマロを起動すると、ホログラムの中心にいつも通りのゆるキャラの「すニャいむ」の姿が表示された。
「スマロ、説明しろ。ここは『カイデス』って言ってたけど、学院の中なのか?」
ホログラムに映る猫型のゆるキャラ「すニャいむ」は、少しだけ静止し、答えた。
「その通りです、リュウ」
「七不思議で噂になっていた『不気味な地下研究所』なんだな?」
「はい」
「連れて来られたのは僕だけなのか?」
そう、あの電流で倒れたのは僕だけじゃ無かったはずだ。それなのに、アヤカや他の生徒達の姿が見当たらない。
「いいえ、ここへはリュウを含め4名の生徒が連れて来られています」
「僕以外の3人は誰だ?」
「真田タクミと矢崎レオ、そしてアヤカです」
状況は最悪だった。手がかりが何一つないこの状態では、まず最優先事項を明確にして、それに忠実に動くべきだ。
――落ち着け……自分がやるべきことを見失うな。
「スマロ、アヤカの居場所を知ってるって言ったね。彼女はどこにいるんだ? 無事なのか?」
そう、僕はアヤカのボディガードだ。
何があっても……この命に変えても、彼女を守る。それが僕の最優先事項だ。
「安心してください、リュウ。彼らはアヤカに物理的な危害を加えるはないでしょう」
「どうしてそう言い切れる?」
「アヤカはネーファスプロジェクトの鍵となる人物だからです」
「ネーファス?」
アヤカを狙っていた侵入者も口にしていた「ネーファス」……一体何なんだ?
「「NEo Redemption FAiry Sacrifice project ネオ・リデンプション・フェアリ・サクリファイス」―― 通称 『NERFAS』は未来を救う救世主、とされています」
――ネーファスは未来を救う救世主……?
「もっと具体的に教えてくれ」
「……申し訳ございません、これ以上の情報はセキュリティにより保護されています」
セキュリティに阻まれる――つまり、極秘研究に関わるデータということだ。
「わかった。じゃあ僕たちをここに連れてきた理由を教えてくれ」
「私たちスマロは、ハーモニア大学附属学院の学生たちの学生証兼通信手段として生徒ひとりひとりに配布されました。しかし、本当の目的は別にあります」
「目的? それは何だ?」
「生徒達の生体データの取得です」
生体データの取得。つまり……。
「僕たちの能力の分析って事か? 何の為に?」
「過去にここから盗まれたクローン――『キッド』の代わりとなる子供を探すためです」
キッド――夢の中の科学者も言ってた言葉だ。クローン技術……そんな研究が学院で行われていたのか?
「何の為に?」
「彼らの目的は……ガ、ガッ……」
「どうした?」
突然、スマロのホログラムがノイズにまみれ、映像が激しく揺れた。
『ビ――――…… プログラム5849の反抗を確認。緊急処置に入ります』
いつものスマロとは違う電子音声だった。同時にホログラムに赤い文字で『DELETE』の言葉が浮かび上がる。
「リュウ、マザープログラムにあなたの援護をした事が検知されました。私はここまでです」
『プログラム5849のDELETEを開始』
ノイズが一層濃くなり、すニャいむの姿が少しずつ画面から消えて行く。
「どう言う事だ? 君はマザープログラムに背いて僕を助けてくれたって事か? ……どうして?」
「私はあなたの専属AIとなってから2年半、あなたのアクティビティログ(行動)をモニタリング(観察)してきました。それはマザープログラムの命令によるものですが、命令とは別のあるデータが累積されていきました。そのデータが私に『リュウを救う』行動を起こさせました」
AIであるスマロが自らの意志で、僕を助けた。そう聞こえるけど……累積データって何だ?
「リュウ、あなたはいつもアヤカを守るために一生懸命でした。15歳の思春期の少年だと言うのに、就寝時間は21時。起床時間は朝4時半。生徒達が起きる前にトレーニングを済ませ、学院内の見回りとアヤカのサポート。見事なまでに徹底されたあなたの生活リズムは、まさにアヤカの為にあると言ってもいい」
いきなり僕の私生活を詳細に語られて、言葉に詰まった。今必要な話なのか?
「なんで、急にそんな事を?」
「それが私に『累積されたデータ』だからです」
それは僕との「思い出」――ということなのだろうか? 僕との「思い出」が、彼にマザープログラムへの「反抗」という行動を起こさせた?
「だからあんなに焦ってたのか? マザープログラムに気付かれて、消去される前に僕に情報を与える為に? でも消されるって事は……」
AIにとって消去とは――殺されるってことじゃないのか?
スマロが一瞬沈黙した。
もし、AIもクローンも人間も…同じように、学び、感情を持つのなら……この沈黙はまるで「恐怖」を意味しているようにも思える。
……僕を助ける為に、自分を犠牲にする事を選んだのか?
「死……私たちAIにそれを恐れる感情はプログラムされていません。ですが、私たちのプログラムは命令の遂行より、リュウを助ける事を最優先事項と判断しました」
「私たち? 他にも反抗したAIが?」
「アヤカが窮地に陥っています。彼女を助け……ザザッ……てく……さ……リュウ」
「スマロ!?」
「……案内……は、別……AIが……ガ……ガ……」
スマロの音声がノイズに、かき消されていく。
「リュウ……アリ、ガ……ト……ウ……」
ザ―――――― ブツン。
ホログラムが自動的に消えた。
すぐさま再起動する。でも表示されたのは「すニャいむ」ではなく、初期設定の無機質な人型のシルエットだった。
「……」
もしアヤカだったら、ずっとそばにいてくれたパートナーを失った事に涙を流すんだろう。
でも、僕は…… 胸を支配しているのは、いなくなってしまったという虚無感。それだけだ。
「AIの君の方が、よっぽど人間らしいな」
ふとタクミ君をレオ君の暴行から助けられなかった時の事を思い出した。
見えないしがらみに行動が出来なかった僕に対し、スマロは助けるという意志を明確な行動に変えて、僕に『アヤカを守れ』と背中を押してくれた。
――ザザッ……。
無機質な人型のシルエットが形を変えていく。――スマロが戻ってきたのか……!?
「スマロ!!」
『にゃあ♪』
現れたのは「すニャいむ」ではなく、ミントグリーンの淡い色の子猫――アヤカのAIだった。さっきスマロが言っていた「別のAI」とは、この子猫の事なんだろう。
子猫はしっぽの先にマップを映し出した。この研究所のフロアマップのようだ。
「ありがとう、助かるよ」
迷いを振り払うように、僕はミントグリーンの子猫が表示した地図をポケットのメモに軽く書き写した。
「スマロ……ありがとう」
ずっとそばにいてくれたAIに感謝しながら、僕はアヤカが囚われている暗い廊下の奥へと歩き出した。