愚者――矢崎レオ
開放的な大きな窓。
ロールスクリーン越しに淡く照らされたそこは、生徒が体調を崩した時の治療と休憩を受ける、いわば「保健室」という場所だ。アヤカをベッドに寝かせ一息ついた後、タクミ君がわずかに体を震わせながら苦笑いした。
「それにしても、さっきのリュウ君かっこよかったね」
「かっこいい?」
「アヤカさんが倒れた後、お姫様抱っこして全速力するんだもん。僕と同じ非力なタイプだと思ってたから、意外だったな」
「変だったかな?」
「ううん、なんかヒーローみたいだったよ。いつも無表情だから周りに関心ないのかなって思ってたけど……アヤカさんの事になるとすごいんだね」
……不覚だ。アヤカに気が向いてて周囲の目を気にする余裕がなかったのかもしれない。ボディガードである事は、澤谷さんの関係者以外は知らないんだ。
一方で気がかりなことがあった。アヤカはタクミ君のスケッチブックの話題が出た後いきなり倒れた。何か理由があるのか?
「そういえば、タクミ君さっき言ってたスケッチブックって?」
「あ、ああ……この間アヤカさんにあげたんだ。その……欲しいって言うから」
「それがどうして必要だったの?」
「え、ええと、それは」
――タクミ君が口ごもった直後だった。
「……やめて……」
「アヤカ!?」
か細い声に彼女の方を見たけど、アヤカは意識を失ったまま、うわごとのように何かを呟いていた。
「……燃やさないで」
燃やさないで……? どういう事だ?
ガァンッ!!!!
――突然、保健室中に響き渡る轟音に皆の視線が集中する。
「誰だ!?」
保健室の先生が勢いよく扉を開け、次の瞬間その表情は凍りついた。
「誰に向かって口きいてんだ? あ?」
教師に向かって鋭い声で吐き捨てる黒髪と細目に長身の少年。彼の名は――矢崎レオ。
「あ、ああ……矢崎様のぼっちゃま。どうされましたか?」
教師が言い終わらないうちに、ずかずかと足音を響かせこちらに近付いてくる。微かに開いたカーテンの隙間越しにレオ君が近づいてくる様子と、道を開けるように散らばる生徒の姿が映った。誰も……レオ君と目を合わせようとしなかった。
――直後、勢いよくカーテンが開けられた。
「……タクミ。てめぇ、何してやがる」
吐き捨てられるような言葉と舌打ちにタクミ君は一瞬で青ざめた。
「ぼ、ぼぼぼ僕は、アヤカさんと登校してて彼女が倒れたから」
「俺が聞いてんのはそんな事じゃねぇ。目障りなんだよ、お前は!!!!」
「ごごごごごめんなさい!!」
レオ君から逃げるように、保健室を飛び出していくタクミ君。足早に去ったせいか、彼のカバンから零れ落ちた絵具が2つ床に落ちていた。
「どんくせぇ奴だ」
――矢崎財閥。彼らが澤谷家にアヤカとの許嫁の申し出をしてきたのは一年前。アヤカの自宅での事だ。
「矢崎家のご子息のレオ君だね。リュウ、挨拶しなさい」
にこにこと彼らを出迎える澤谷さんに施され、言われるがまま頭を下げた。父親と共に澤谷邸に足を運んだ彼は、僕の姿を見て一瞬驚いた顔をしたのを覚えてる。当然だ、学校では僕は「運動が苦手な真面目で目立たない生徒」だったんだから。
「突然クラスメイトが来て驚いただろう? レオ君は私の仕事仲間である矢崎さんの息子さんだ。彼はアヤカとの将来の誓いを申し出てくれて……何度か断ったけど、どうしてもというものでね。まあ、付き合いのひとつのようなものだよ」
ちらりと僕に視線を向けた澤谷さんは若干困り果てているかのように見えた。
「君という監視役がいるとわかっていれば、学校で横暴な態度を取ることはないだろう」
「つまり、婚約は」
「アヤカ次第、と言う事になってる」
……つまり、矢崎家の一方的な申し出と言う事らしい。
矢崎レオの父親を見れば口元だけ笑って目は笑ってない――本心を隠している……「影縫い」で仕事をしていた時によく見た大人の顔をしていた。
「レオ、澤谷家のお嬢さんがお待ちだ」
「はい、父様」
父親に声を掛けられ、レオ君が僕に軽く微笑んで横を通り過ぎていく。そして、すれ違いざま――
「ボディガードである事をばらされたくなかったら、俺の言う事にケチをつけるなよ」
――不正規な方法で入学した事がばれれば、僕を雇った澤谷さんの立場が悪くなる。
ハーモニア大学附属学院は裕福な家庭に生まれた子供、またはタクミ君のように才能に恵まれた人間が特別に入学を許可される学院だ。もしそんな事になれば、恐らく僕は解雇される。そして子供のボディガードの情報が世間に知れ渡るだろう。
――当然、その情報は「影縫い」にも届く可能性が、ある。
「あなたの言う事に反論する気はありません」
「よくわかってるな」
……圧力に屈する自分が情けなかった。でも――僕は彼の言う事を聞かざるを得なかったんだ。
――あれから1年。
彼は高圧的な態度をとってくるものの、僕とアヤカに直接的な被害をもたらす事はなかった。でも――常に彼は視線で訴えていた。
俺の言う事を聞け――と。
「矢崎君、アヤカが寝てるんだ。頼むから静かに……」
「随分いい身分になったなぁ、リュウ? 俺に指図する気か? ん?」
勝ち誇ったかのように見下す視線が向けられる。
「アヤカはさっき倒れたばかりなんだ。僕の立場をわかってるなら、横暴な態度は謹んでくれないか?」
こちらの要望を受けてくれるだろうか?
しばらく彼の冷たい視線にこちらも視線を返し、やがてレオ君は小さく笑った。
「わ――るかったよ。保健室では静かに、常識だもんな!!」
彼はにかっと笑うと、保健室を後にした。
しばらくして目を覚ましたアヤカの体を軽く支えながら保健室を後にする。
広い廊下の壁には、デジタルディスプレイが淡い光を放っていた。学校内の連絡事項や、イベント情報・部活動の入部員募集の情報が書かれてることがほとんどなんだけど、今日は違った。
――『絵画コンクール』と題された広告が映し出され、タクミ君の絵が大きく表示されている。そして、その絵をぼんやりと見つめる1人の男子生徒がいた。
――レオ君?
それは間違いなく保健室で威勢を散らしていた矢崎レオだった。でも、先程とはだいぶ雰囲気が違うようだ。
「タクミ、お前は自分が特別だとでも思ってるのか?」
名前を指でなぞりながら小さく笑い、呟きとともに握りしめた拳はディスプレイの端に爪痕が残りそうなくらい力が込められている。
「あいつの絵か……くだらねぇ」
やがてため息をつき、レオ君は僕たちに気付くことなく、教室の方へと歩いて行った。