絵画の天才・真田タクミ ――彼は、いわゆる……
――時刻は4:30。
ダークブラウンの勉強机と椅子。整然と並ぶ本棚には教科書や参考書。ここは僕たち学生一人一人に与えられる、学生寮の一室だ。
ベッドから起き上がると、スマロの起動スイッチを押す。空気がふわりと振動し、ホログラムが浮かび上がる。その中心には猫耳をつけたスライム型のゆるキャラ「すニャいむ」がいるはずだった。が――。
「リュウ、エネルギー不足です」
ホログラム上に現れたのは可愛らしいマスコットではなく、水たまりのように床に溶けた不気味な物体。それを見た僕は、思わず苦笑いした。
「わかった。トレーニングの途中に供給機があるから、寄っていこう」
「ありがとうございます」
気遣いにちゃんと感謝もする。この感情システムは生徒がスマロに愛着を持ち最後まで世話をさせる為に作られた「育成」システムらしい。
――スマロの充電は、基本学園内に設置された「充電システム」から行う。
「吸収」
スマロに内蔵された「エネルギー吸収」システムが起動し、自動的に起動したホログラムが僕の前に映し出された。そこには「充電完了」の文字が浮かび上がっている。
「機能回復。エネルギー満タンです」
「満足した? じゃあトレーニングに」
「待ってくださいリュウ」
「何?」
「お腹がすきました」
「……」
……ちゃんと食事も与えてあげないといけない。これもスマロの「育成」システムのひとつだ。食事の方法は「食事」ボタンを押してご飯をあげるだけなんだけど、それもスマロの「気分」で決まるらしい。責任と喜びを教える為の学院の方針から創り上げられたシステムだって聞いてるけど……
「ほんと、君は手がかかるな」
正直、そう思わざるを得なかった。
*
7時半になるとアヤカを迎えに彼女の部屋に行き、2人で登校する。このルーティンはボディガードとしての仕事の一部だ。
「わあ!」
寮を出ると、校庭を囲むように咲くパンジーの花が青空を背景に鮮やかに咲いている。瞳に飛び込んできたその景色にアヤカはキラキラと瞳を輝かせた。
花を眺めながら嬉しそうに体を左右に揺らす。無邪気なその姿はとても微笑ましいんだけど……アヤカはたまに何もない所で転ぶから、こういう時僕は気が抜けないんだ。
「あ! タクミ君」
花壇の前でスケッチブックを片手に絵筆を動かす少年にアヤカが元気よく声をかける。
「うーん」
「気付いてないみたいだね」
集中しているのか、彼の視線は花壇のパンジーにくぎづけだ。アヤカはいつものように少し歩調をはずませながら近づいていくけど、彼女が背後に立っても彼は微動だにしなかった。
「タクミ君?」
呼びかけても、相変わらず無反応だ。
「わっ!!!!」
「わ――――――!!!!!!!!」
アヤカの大声に、少年の声変わりしきっていない高めの声が盛大に響き渡る。振り向いたのは若干癖のある柔らかな髪をした小柄な少年だった。
「あ、アヤカさん……驚かさないでよ」
「ごめんなさい。でも、そろそろ登校時間だよ?」
「えっ……もうそんな時間? カバンもってこないと!!」
焦ったように立ち上がり、画材を片付けようとする彼の手から大量の絵具が地面に零れ落ちる。
「う、うわわわわっ!!??」
「タクミ君、拾っておくから、カバン」
絵具を拾いながら微笑むアヤカ。その優しげな表情にタクミ君は顔をほんのり赤く染め、俯いた。
「ありがとう、アヤカさん」
頼りなさげな表情を浮かべ、微笑む彼の名前は「真田タクミ」
絵画の才能を見出され、この学園に入学した一般家庭の生まれの少年だ。気弱な彼は、言い方は悪いけど地味で目立たない生徒……僕と同じようなタイプの生徒だと思う。
――その後、学生寮に戻ったタクミ君は荷物をパンパンに詰め込んだ学生カバンを抱え、息を切らしながら駆け戻ってきた。
「ご、ごめん。待っててくれたの?」
「まだ登校時間まで時間あるよ?」
アヤカが時計を指さし微笑むと、タクミ君もほっとしたように微笑んだ。
――校舎の中に入っていくと、高い天井と、右側には大学キャンパスのように大きな窓が壁のように並び、太陽光がたっぷりと差し込む開放的な廊下。
左側に続く教室からは雑談をする生徒、宿題を忘れたと思われる少年が友人に助けを求める声、日直が黒板にチョークで何かを書き込む音……それぞれの生徒たちの動きが、廊下を歩く数分で一気に目や耳に飛び込んでくる。
「コンクールの結果が出てたね。すごいね、タクミ君今回も最優秀賞って」
「あれ、僕その事話したっけ?」
「ううん、スマロがおすすめニュースに出してくれるから。タクミ君の活躍はいつもチェックしてるよ?」
アヤカが廊下を歩きながらスマロを起動すると、首元に若草色のリボンをつけた小柄でふんわりとした猫の姿が映し出される。
『にゃあ♪』
少し甘えたような、柔らかく高めの声。ミントグリーンの淡い色合いのその子猫は「loading」の言葉を映し出したままホログラム上をぴょんぴょん跳ねまわる。……まるで、普段のアヤカみたいだ。
触れるとごろごろと喉を鳴らすエフェクトに微笑むアヤカの瞳がふと、タクミ君の左腕に留まった。
「タクミ君、スマロは?」
タクミは一瞬「あっ」と思い出したような顔をした。
「あれ、ほんとだ。部屋に忘れたのかな。でも、まあ困らないから大丈夫だよ」
「それ昨日も言ってたよね。私がメッセージ送っても気付いてくれないんだから」
アヤカが苦笑すると、タクミは「そうだっけ?」と首をかしげる。
――その瞬間、彼が手に持ったスケッチブックが手から滑り落ちそうになり、僕はそれを慌てて掴んだ。
「タクミ君、気を付けて」
「うん、気を付けるよ……多分」
タクミ君の忘れっぽさは筋金入りだ。鉛筆や消しゴムを忘れるのは日常茶飯だし、先日はカバンそのものを忘れたこともある。彼が言うには「ちゃんと前日に準備してたんだけどな……」との事だけど。
そんなこんなで、僕もアヤカもタクミ君といる時は自然と彼の身の回りを気遣う癖がついていた。多少の忘れ物は許容してしまうくらいに。
でも、学生証も兼ねた連絡手段であるスマロを忘れるのは……僕が言うのもなんだけど、彼はどうも危なっかしくて目を離せない。
「今日のアヤカのおすすめニュースだニャ♪」
ロードが終わり、ポップな吹き出しと共に猫のしっぽの先に映し出されたのは、「輝くようなライトブルーの天才絵画少年」の見出しと共にネット記事に映し出されたタクミ君の絵画だ。
「これ! 絵画も素敵だけど、もっとタクミ君の顔をおっきく映してほしいなぁ」
彼女の細い指がホログラムをタップする度に、肉球のモーションが弾けるように画面を飛び回る。これはスマロのデザイン変更によるもので、カスタマイズや興味関心に応じた情報提供は基本的な機能のひとつなんだ。
「アヤカさん、もしかして僕のニュース毎回チェックしてる?」
「あ! 今気持ち悪いって思ったでしょ」
「お、思ってないよ」
むくれたアヤカに、タクミ君は慌てて手を振り困ったように眉尻を下げた。でも顔には喜びを隠しきれない様子で笑顔が浮かんでいる。
「そうだ、アヤカさん!」
「どうしたの?」
「この間のスケッチブック、ちょっと貸してほしいんだ。確認したいことがあって!」
あまりにも唐突な提案に、僕もアヤカも一瞬戸惑ったが、タクミ君は気にせず続ける。
「あ、でも、もし嫌なら無理にじゃなくて……いや、やっぱりお願いしたい!」
「え、えっと……スケッチブック??」
困惑したように笑うアヤカ。タクミ君はやっとその場の空気を察したようで「あ、もしかして今の僕、変だった?」と小声で聞いてきた。
「うん、少しだけ」
僕が答えると、タクミ君も「ごめん」と少し照れくさそうに頭を掻いた。
「タクミ君、スケッチブックがどうしたの?」
どうも噛み合わないその空気を仕切り直す為に、僕は再度質問を投げかける。アヤカとタクミ君の会話が微妙にズレた時にサポートするのも、僕の職務のひとつだ。
――その時だった。
「スケッチブック……」
「アヤカ、どうした?」
アヤカの様子が急におかしくなった。小刻みに震える肩。笑顔が消え、蒼白になった白い肌を見て僕は異常事態と把握した。
「アヤカ!?」
直後――僕の呼びかけに応えることなく、アヤカの体が突然崩れるように倒れた。慌てて彼女の体を支えると、肌の冷たさがじんわりと伝わってくる。
――精霊たちが、悲しんでる。
生徒達の賑やかな声が響く、広い廊下。窓の空いていないその場所で吹く冷たい風は、紛れもなくアヤカの「悲しみ」を訴えるものだった。