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「そんなに緊張せずとも、取って食いはしない。楽にするがよい」
「ひゃい」
広い城のどこをどう通って来たのかも分からないままに、私はとうとう魔王様の御前に連れてこられてしまった。
近くで見ればその美貌も存在感もやはり桁外れで、震えそうになる体を抑えるので精一杯。とてもリラックスなど出来やしない。
だって本能が畏れを抱いているもの。
死にかけのコケッコみたいな顔をしているだろう私が面白いのか、魔王様はふっと笑って長い御足を優雅に組んだ。意外と表情の動くお方なんだな…
「先の戦場での演奏、あれはお前だろう?見事であった」
「い、え…私など、楽団にも認められぬ未熟者でございますれば…えと、お耳汚し失礼致しました」
「いや。楽団がどうかは知らんが、少なくとも私にとっては…とても好ましいものだった」
「き、恐縮でしゅ…」
「それにお前がどう思っていようが、周りからの評価がどうであろうが…結果がすべてだ。お前の音は確かに我が軍を救い勝利に貢献した。誇るがよい」
お世辞かもしれないけど、魔王様に認められたという歓喜が体を痺れさせる。
先程までとは別の震えが表に出そうで、私はきゅっと唇を噛み締めてこれを抑え込んだ。
「しかし、お前の音楽は聞いたことのないものだったな。独学か?」
「は、はい!色々な国の音楽を聞いて、相棒の…私の魔楽器が一番に輝ける旋律をと思って…」
「成る程な。確かにお前達の歌はあの場で一番に輝いていた」
魔王様は、思いの外優しい瞳と声をお持ちなんだな。
そんな事を思ったせいだろうか。
私の口は思わず、問いの音を紡いでしまっていた。
「あの、魔王様…ぁっ」
「何だ?気にするな。発言を許そう」
不敬かと口をおさえた私をクスクスと笑い、魔王様は続けろと先を促す。
チラリと彼の傍らに立つ青年を見れば無言で頷いていたので、私は改めて息を吸った。
「わ、私達の音楽は…その、楽しめました、でしょう、か?」
「…ほう?」
音楽が好きじゃないと聞く魔王様。
そんな魔王様に楽しい音楽を教えてあげたいという私の願い…いや、野望は…
「…あぁ、とても。とても楽しませてもらったさ」
「!!」
見事に叶ったらしい。やった!やったね、相棒!!
許されるならガッツポーズをしたいくらいに舞い上がる。今なら興奮でどんな曲を奏でてもアップテンポになってしまいそうだ。
魔王様が私の演奏を楽しんでくれた!
なんて…なんて嬉しいのだろう!
あぁ、確かに。確かに!出兵の日に見た無機質な瞳は今や子供のように煌めいていて、つまらなそうだった顔は自然な笑みを浮かべている!
私達が、変えられたんだ!
嬉しすぎて体が熱いし、どうしてか心臓が死にそうなくらい激しく跳ねていた。
ドキドキという拍動が刻むビートは私の音楽より激しくて、どんなに嬉しいときでも感じたことがないくらいに…
「ふっ、随分と可愛い顔をする」
「ぇ?あ、その…!」
「そんなに喜ばしいか?私が音楽を楽しい、と言ったことが」
「それはもう!私はその言葉を聞きたくて…あの戦場まで行ったのですから!」
「…っふ、はは!そうか!」
拳を握って力説すれば、魔王様は一瞬目を丸くした後片手で顔を覆いながら天を仰いだ。
え、あれ?どうしたのだろう?私何か変なこと言ったかな?
「あぁ、ダメだ。可愛い」
「え?」
口が動いたのは見えたけど、音は良く聞こえなかった。
私が首をかしげると同時に魔王様はおもむろに立ち上がり、スラリと長い足で一歩、二歩、と距離を詰める。
「そう言えばこれは聞いた話なのだが…お前は私を己の『音』で、いや、『音楽』で満たしたかったそうだな?」
「ぅえ!?」
一気に冷水がかけられたように、浮わついていた私の体から熱が奪われた。
え、私そんな畏れ多いこと…
"私の『音楽』で…魔王様も戦場もいっぱいにしてやるんだ!"
言った。確かに、近いこと言ったね。
けど…どうして魔王様がそれを知ってるの!?
いや、まてまて落ち着けミュゼット。
混乱はもっともだけど、今は魔王様の御前だ。取り乱している場合じゃない。
「そ、それはその場の勢いと、いいますか…えっと」
「言ったんだな?」
「い、い…まし、た…たぶん」
「そうか!くくっ!ははははは!!」
絶対零度の眼差しを覚悟していた私は、魔王様の口から溢れる"喜び"の音に目を白黒させる。まって、良い声で腰が抜けそう。
奪われた私の熱が魔王様に移ったのか?
そんな馬鹿な事を考えている間にも魔王様との距離は近づいていて、気付いた時には手を伸ばせば触れられそうな距離になっていた。
近くなって更に表情が良く見える。
歓喜の音を紡ぐ魔王様の御尊顔は…驚くほど甘くとろけていた。
「喜べ、ミュゼット・フェローチェ」
「…え?」
魔王様の、手袋に包まれた指が私の輪郭をなぞるように滑り…顎を僅かに持ち上げる。
そうすれば弧を描く碧に真っ直ぐ絡めとられ、魂まで捕まれたような気がした。
「私は…いや、俺はお前の『音楽』で満たされたぞ」
「っん!ぇ…」
耳元で囁かれた言葉は甘くて熱くて…音に込められた感情を読み取る前に体がふにゃりと力を失って傾く。
やばい、本当に、こ、腰が、抜けた…!
そんな私を酷く楽しそうに見つめる魔王様は中々に意地が悪いらしい。
「次は俺の番だな。ミュゼット、お前を俺の 『音』で満たしてやる」
「魔王様の、『音』…?」
魔王様の演奏が聞けるならそれは大変光栄だけど…何故に??
疑問が顔に出ていたのか、魔王様は一言「必要だからだ」と言って私から手を離す。
必要とは???
「あの…」
「黙って聞いていろ」
「ひゃい」
言われるがまま口を閉じた私を褒めるように目を細め、魔王様はまるでマントを翻すように手を振った。
瞬間、彼の周りを白黒が囲む。
あれが、王だけが持つと言われている魔楽器…鍵盤。
驚きもほどほどに、ポーンと魔王様の音が跳ねた。