雷鳴
嵐に窓がカタカタと泣いているのを聴く夕方。ボロアパートの一室で煎餅布団にくるまりながら、僕はひとり孤独に弱々しい電灯の光を見つめている。
意識の空白を裂く様に雷が鳴った。
あの女が来る。
僕は直感した。
心のちょっとした隙間に入り込んだ時、天から響く雷鳴を聴いたならば、僕はこの世ならざる者の姿を認識せざるを得ない。雷鳴が何かの合図なのか警報なのかは分からなかった。
目を閉じろ。何も見るな。
本能はそう警告しているにも関わらず、僕の瞼は閉じることなく部屋の隅々までを見渡して『それ』を捜してしまう。
いない。今日は来ない。
ホッとしながら寝返りをうって、僕の心臓は止まった。
視界に収まり切らないほどの至近距離に女の青白い顔があった。今にもお互いの鼻先がつきそうだ。どうやらすぐ隣でこいつも体を横たえていたらしい。
長く垂れた黒髪、垢抜けた平行眉、黒目がちな切れ長の眼、スーッとした鼻筋、薄い唇。艶かしい端正な顔立ちが逆に恐怖を掻き立てる。
女はニタリと嗤った。
僕は悲鳴を上げる事も出来ずに、反動で跳ね上がる鼓動の苦しみに目を見開くことしかできなかった。
しばらく見つめ合った(睨み合った?)後、女は僕の鼻の下から涙袋にかけて舌を這わせた。ザラザラと湿った感触がこの上なく気持ち悪いが、身をよじることさえできない。完全に僕が硬直したのに満足した女は細い腕を支えにしながらゆっくりと布団から起き上がり、今度はその鼻先越しに僕を見下ろした。くっきりとした鼻筋に息を通していたであろう細い鼻孔と生気の失せた冷ややかな虹彩と、それでも燃える悪意に開く瞳孔が世界中の人間の心の濁りを湛えている様だった。
女はもう一度ゆっくりと顔を近づけて来て、目をキョトキョトさせながら金縛り状態で動けずにいる僕の頬に冷たい薄い唇でそっとキスをしてから立ち上がり、部屋の中を徘徊し始めた。
女の舌に舐められた顔面にはまるでナメクジが這い回ったかの様な不快な粘つきが残り、頬にキスされた時の渇いた唇の冷たさは未だ鮮烈に感じられて背筋が凍る。
肉体も心も恐怖の悪寒に震わせながら女の様子を伺うと、部屋のあちこちに貼られたお札を一枚一枚、丁寧に剥がしている所だった。
この女は一体何者なんだろう。このアパートに住むようになってから少し経った頃にこいつは突然姿を現した。
それは今日みたいな嵐の日。暴風雨と共に雷が鳴ったその瞬間だった。
雷光に瞬きながら現れ、窓辺で腰を抜かした僕に抱きつきながら御影石よりも冷たい額をピタリとつけて、眼前でニタリと嗤ったのだ。
もちろん引っ越そうとしたが、ここ数日でみるみる体が重くなり、寝込んでしまう様になった。
今は一日の大半を布団の上で過ごし、そうして貯蓄したなけなしの体力で買い出しと食事をする毎日となっている。
そして、ふとした時に心を無にしたならば忽ち雷鳴が響き渡り、どこからともなくこの女がやって来て僕をなぶり、苦しめるのだった。
やがて部屋の中の全てのお札を剥がし終えた女は、僕の所に戻って来た。
横たわる僕の前にしゃがみ込み、これ見よがしに勝ち誇った様に、手にした何枚ものお札に鼻をつけ、スゥーッと匂いを嗅いで、やはりニタリと嗤ってみせた。
まだ動ける内に神社や寺に行って手に入れたお札も、この女の前には無力なのだろうか。
僕は一度ゆっくり瞬くと、敗北を認めた。全て諦めて降伏した方が楽になれる事に気がついた。
――わかったよ。
僕が何をしてしまったのかは知らないけど……、
恨まれたのか見初められたのか知らないけれど……、
連れて行きたいなら好きにすればいい。
静かな心で念じたのを聞き届けたのか、女はいつになく優しい微笑みを浮かべた。
それから白い手の細長い指で僕の手首を掴んで押さえつける様にした後、空いた方の手で僕の頭を撫でながら顔を近づけて、フッと息を吹きかけた。
ブツン、とブレーカーが落ちた様に視界が暗転し、響き渡る雷鳴を聴く。
混乱と恐怖の中、意識が吸い上げられ、終わりを受け入れざるを得なくなる。
しかし、そうして全てを受け入れた後、僕は今まで自分を苛んでいたあらゆる苦しみや怖れから離脱できたのを感じた。
◆
ハッと目が覚めると、僕はベッドの上に横になりながら一戸建ての屋根を静かに打つ雨の音を聴いていた。
嫌な夢を見たな……。
それが夢であった事に安堵しつつ、僕はリビングに向かう。
キッチンでは妻がテーブルの上に朝食を準備してくれていた。
「おはよう」と束ねた黒髪を振りながら切れ長の眼で涼しげに微笑みかけてくる。
「おはよう」と僕が妻に促されるまま一緒にテーブルにつくと、雨脚が徐々に強まって来た。
向かい合って座る妻が髪を解き、長髪がサラリと下ろされる。
「今日は嵐になるらしいよ」
妻も雨音に反応して天井を仰いだ。
細い鼻孔に、しっとりと垂れた黒髪。
僕は少しだけ肝が冷える気がして、妻の顔に見入ってしまった。
「何よ?」
僕の視線に気づいて訝しげに首を戻した妻に思わず沈黙する。
「たとえ奥さんでもさ、女の人の顔をまじまじと見るのは失礼だよ」
窘められた僕はスッと通った妻の鼻筋とキリッとした平行眉に釈明の必要性を感じて、今しがた覚めたばかりの悪夢について一通り話した。
「へぇ……」と妻は少しだけ目を見開いて、
「それは怖かったね」
よしよし、と頭を撫でてくる。
雨脚は更に強まる。
妻はそれにはもう反応せずに僕を見つめて、
「もう大丈夫。私がいるよ」
と薄い唇で微笑んだ。
段々と妻の白い肌の色が気になって目を伏せようとした時、
「ねぇ、あなた」
と冷たい息が顔に吹きつけられる。
雨脚が更に更に激しくなる中、独り言の様に妻は呟いた。
「本当はこっちが夢だったりしてね」
雷鳴が天に響き渡り、目の前の女はニタリと嗤った。