いつかなくなる図書館で
机に重ねた、参考書、ノート、ペンケース、スマホ。腕に抱えて立ち上がる。脚が軽い。腰が軽い。放課後なのに、体がちっとも疲れてない。
「藍ー!」
教室の入り口から、聞き慣れた声。元・陸上部の杉山えみりだ。
「今日少しだけ部活に顔出すけど、一緒にどう?」
抱えた荷物を上に持ち上げて、告げる。
「ごめん! 今から先生に聞きたいことあって!」
――嘘。
頭の中で指を折る。
「そっか、了解! また、都合が合ったらね!」
えみりが去っていく足音を聞き終えてから廊下に出た。
「あ、ねえねえ、畠中ー! 俺ら今から二組の教室で――」
クラスメイトの男子たち。
「ごめん、今日用事あるんだ!」
――また、嘘。
頭の中で指を折る。両手がグーになった。
部活に入っていた人もほとんど引退し、以前と違う騒がしさを纏うようになった廊下を早足で歩く。底の薄い内履きが、ぱたぱた鳴る。少し涼しくなった風が半袖から入って抜けるけれど、傾いた陽射しが差し込んで、まだじわり暑い。
七月下旬、インハイ予選の敗退から一ヶ月以上が経っていた。
ギュッと、内履きが鳴った。足の裏が、走る時のように、強く廊下を蹴ろうとしていた。もう、必要ないのに。
もう、朝練がない。放課後の練習がない。次の大会は、もうない。
こういうのを「日常ががらりと変わる」というのだろうか。いや、こんな変化も違和感も大したものじゃないんだろう。進学して、就職して、数年もすれば、高校時代と一色でベタ塗りされてしまうんだ。大人が、青春の細部を都合よく忘れてしまうように、都合よく美化してしまうように、きっと私もそうしてしまうんだろう。
職員室を通り過ぎて、渡り廊下に出る。
今日は少し風がある。向きは――。また、もう必要ないことを考えてしまう。
体育館から、掛け声がする。シューズと床が強く擦れる音がする。グラウンドから、芝生を刈った匂いと、砂埃の匂いがする。
――私は何も思い残してない。
頭の中のグーを、どうするべきか悩んだ。
渡り廊下を小走りする。音も匂いも、どんどん、どんどん遠くなる。
うちの高校には図書室の他に"図書館"がある。校舎から伸びる渡り廊下、その一番奥にある図書館は随分昔に建てられたものだそうで、薄暗くて見るからに出そう。古くて需要のなくなった蔵書と冷暖房の効かない空間。夏は暑いし、冬は寒い。寄り付く人はいない。本を借りたい生徒は図書室か公立の図書館に行く。
だからこそ。
私は図書館に行く。誰もいないから。
少し小走りしただけなのに息が上がっている。思ったより体力は落ちているのかもしれない。整えてから、使われていないチャペルみたいな扉を押し開ける。
入り口から奥、天井に向かって楕円に広がる空間。レースカーテン越しの柔らかい光。古い紙だかほこりだかの匂い。人の気配のしない、古くて静かで新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。
「ふはあ」
思わず、吐息を漏らしたところ。ざらっと音がして、びくっと体が硬直する。
入り口から見て右手奥のカウンター、本を持ち上げる白い腕が見える。顔は隠れて見えないが、三年生で図書委員長のトコナツだ。気持ちよく深呼吸したのを見られていないか心配になったが、トコナツはこちらを気にする様子もなく、手元の本のページを、ざらっと、まためくった。
カウンターから距離を取るように、図書館の奥へ足を進める。
陽射しが降り注ぐ芝生の上と真逆の、この埃っぽい空間で。
――インハイ、終わったんだ。
思い出して。読書用の机に荷物を置く。
――終わったんだな。
次すべきことは決まっている。受験勉強だ。だから、参考書を、ノートを持ってきている、のだけれど。
椅子に腰を降ろさず、後ろの棚の前をうろつく。適当な本を抜いて開く。
陸上を始めたのは中学校からだから、六年近く打ち込んでいたことになる。それも、あっけなく終わった。あまりショックは受けていないと思う。結果を出せる人は一握りだ。一握りが出せるからこそ、価値のある結果だ。知っていた。
それに、私は部活を終えてややほっとしている。人と一緒に練習するのは疲れる。認識をすり合わせるのは疲れる。テンションを合わせるのは疲れる。
一人の時間に、ほっとしている。
また、本の内容と別のことを考えてしまった。閉じて戻す。
でも、勉強する気にもなれない。
なんとなく、しゃがんでみる。棚の一番下の段、臙脂色の分厚い本『オリエンタル全史』全十巻が目に入った。
――ああ、楽だ。
誰の目も気にしなくていい。何をしなくても、言わなくても、誰ともぶつからない。
思うまま、『オリエンタル全史』の一巻に手をかける。
裏表紙をめくると、奥付の刊行日は60年以上前だった。これ、誰か読むのだろうか。
適当に指をかけると、スピンもしおりもないページが開いた。栞かと思ったが、違う。折られた紙だ。広げると。
〈いつも本を読んでいる君が好きです〉
思わず、勢い良く本を閉じる。分厚いページがぶつかって、バンッと音を立てた。
――これって、ラブレター?
自分宛てのように顔が熱くなって、それから、いいや違うと首を振る。私がここに来るようになったのは一ヶ月ぐらいのことだし。
――でも、誰が、書き残したもの?
もう一度、ページを開いて、紙を広げて見る。きれいな字。鉛筆で書かれたのだろう強弱がある。誰なのか、誰宛てなのかは、どこにもない。女子なのか男子なのかも、わからない。
紙を元通りにたたんではさみ、そっと本を棚に戻す。
誰かの、恋文。
すごく、どきどきしていた。
ふと、トコナツの方を見ると、目が、合った。今こちらを見たというより、見ていた、という感じ。いつもうつむいて本を読んでいる男子の目線が、じっとこちらを見ていた。
どくん、と胸が鳴る。
すぐ目はそらされた。
「表彰状、畠中藍」
二年の秋だった。県大会の大会にリレーで入賞して、全校集会で賞状をもらった。受け取って壇上に整列した後、隣のえみりがもうタイツを履いていることに気が付いて、私もタイツにすればよかった、脚の傷とか、日焼けとか、見られるの嫌だなとか考えていた時。
「――とこなつ」
と、そう聞こえた。校長の前にいる人を見る。男子生徒だ。背は、高くも低くもないけれど。
「あなたは、全国読書感想文コンクールにて――」
賞状を受け取るためにブレザーから伸びた手、上げた顔が、白い。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
校長と挨拶を交わし終えた彼は私の横に整列する。私はやり場のなくなった目線を下げる。彼の賞状を持つ手と、自分の手が、全然違っていて嫌だった。
「榎本すごいね!」
降壇する時、えみりがトコナツに話しかけたのでびっくりした。
「応募者が少なかったんじゃない」
あまりにも温度の低い返しに、またびっくりした。
「クールだねえ」そう言ってえみりは笑ったけれど、私は「日光が足りてなさそうな人だな」と思った。
学年の列に戻っていくと、えみりのクラスのところから「おい、小夏!」と男子たちの声が聞こえてきて、ああ、トコナツじゃなくて"えのもと・こなつ"かと納得した。
――日光足りてなさそうなのに、トコナツ。
それから、私は心の中で彼のことをトコナツと呼んでいる。話したことは一度もない。
あのラブレター、いや、恋文という方がしっくりくる。あれを書いたのはもしかして。
「一緒に食べよう」とお弁当を持って現れたえみりにつく嘘は思いつかなかった。
お弁当の包みを開きながら、部活の話題を避けるように、こちらから切り出す。
「ねえ、えみりのクラスのさ、榎本君って、図書委員だよね?」
「榎本って、榎本小夏? うん、そうだけど」
不思議そうな顔をしながら、えみりは玉子焼きを口にほおった。ほふほふしながら続ける。
「図書委員ってか、図書委員長だね。委員会系はもう引き継ぎが終わってるはずだけど」
「え、そうなの?」
「そうそう。うち進学校だし、三年生の仕事は夏まで。部活と一緒だよ。榎本の場合は、まだ仕事してるっぽいけど」
「何で、まだやってんの?」
「知らない? 榎本が"図書館の番人"って呼ばれてるの」
「番人?」
「うちの図書館ってさ、古いし、冷房も暖房も効かないし、誰も使わないし、皆当番やりたがらないんだけど。あいつ、自分だけでいいっつって、一年の時からずっと一人でやってんの。前に、図書館遊び場にした先輩相手に怒鳴ったって話もあってさ。だから図書館の番人」
「何でそこまで?」
「さあ。よくわかんない。他の委員も仕事が減ってありがたがってるみたいだし、訊いたことないんじゃないかな」
「変な人、だね」
本の虫ってやつなのだろうか。よくわからない。
「変だねえ。でも――」
えみりは箸を止め、小声になった。
「結構モテるぜ。あいつ」
「え」
「運動部じゃないのに運動神経良くてさあ、体育の時とか結構格好良いよ。あと、何だろう、誰とでもフラットに仲良いね、意外と」
野球部の誰々とか、サッカー部の誰々とか、テニス部の誰々とか名前がつらつら出てきたところで、
「わかった、わかった」
と遮る。
意外だ。心身ともに日光足りてない系男子だと思っていた。
「で、榎本の何が知りたかったのよ」
にやっとえみりが笑う。
「ちょっと、借りたい本を調べたかっただけだよ!」
私は頭の中の指を折りそうになった。いや、借りたい本などないから折るべきだ。でも、何だか。
嘘はたぶん、それじゃない。
少しも進まない参考書と、埋まらないノートを定位置に置いて、そっと移動する。トコナツはカウンターで熱心に本を読んでいるようで、こちらは見ていない。
棚の前にしゃがんで、件の本を抜き出す。
今日も、恋文は挟まったままだ。
「畠中さん」
「はっ、はい!」
しゃがんだつま先にぎゅっと力が入って、体がうさぎみたいに跳ねた。
見上げた先にいるのは、トコナツだ。
「陸上部だよね」
「え?」
来い来いと小さな手招きをされ、カウンターのところまで移動した。
「後輩ちゃんが喧嘩してる。杉山が、たぶん困ってる」
トコナツが、カウンター後ろの窓を覆うレースカーテンを少しめくってみせた。
「え? え?」
グラウンドがよく見える。それから、陸上部がよく休憩に使う木陰が近い。陸上部の女子数人がいる。
人差し指を口に当てたトコナツが、窓を少しだけ開けた。
「やる気ないなら辞めなよ!」
ひゅっと、嫌な風が流れる。知っている声だ。「藍せんぱーい」と、笑顔で駆け寄って来てくれた子の声。
「ちょっと、落ち着きな――」
えみりだ。
「えみり先輩だって、本音はどうなんですか!? この子のせいでって、思ってるんじゃないんですか!?」
後輩も、同い年も、ぐいぐい引っ張ってくれるキャプテンだったはずのえみりの口が動かなくなる。
「ほら! 先輩たち最後の大会で、バトンミスして、最近は練習も真面目にしないとか、あんたなんか――」
――違う。
頭の中じゃなくって、今、私にぶら下がっている手を握りしめる。力を込めているはずなのに、全身が何かに負けるように震える。
「行かなくていいの?」
トコナツが窓を閉めると、図書館は再び静かになった。
「私が」
沈黙。この図書館は、静かだ。聞こえてしまうのは頭の中で練られる嘘とか、言い訳とか、そんなのばかりだ。
「私が、行っても」
「畠中が行っても何も変わらないかもしれないけれど、行かなきゃ後悔するんじゃない」
「え?」
「行きなよ。駄目ならここ戻ってくればいい。幽霊みたいな図書委員長以外、誰もいないから」
図書館を飛び出して、さっきの木陰まで。
「はあっ、はあっ」
全力で走ったのは、いつぶりだろう。短距離なのに、とても息が切れている。
「藍、先輩」
さっき声を上げていた後輩だった。
「えみりっ、ごめん」
一番最初に出たのはそれだった。
「え、なんで……?」
えみりの顔色が悪い。体調とか、そういうのではきっとなくて、きっと、心が悪い。
「何度も、後輩の練習見にいくの、誘ってくれたのに、断ってごめんっ!」
体はもう震えてない。たぶん、走ったからだ。
「アンナちゃん、この間の、リサちゃんとのバトンミスは、しょうがない、ことだからっ」
「でも!」
しょうがない、皆頑張った、悔いはない。あの日、皆そう言った。
「リサちゃんだけが、悪いわけじゃない」
一年でメンバーに選ばれたリサちゃんは腫れた目を伏していた。あの日と、同じだ。
あの日。
本戦に進めると、皆が自信を持っていた。最後の日になるかもしれないことを、想定はしていたけれど、想像はできていなかった。
「バトン、落ちて、びっくりした」
嘘は簡単に済むのに、本当のことはぽつぽつとしか言葉にならない。
「気付いたら、終わってた。私、六年、陸上やってた。結果を残せる最後のチャンスだったのにって、思った。短時間で、無意識に、何のせいにしたら楽かなって考えてた。あの日は、ずっと、ぼうっとしてた。だから――」
えみりが見てる。
「何を言っていいか、わからなかった。思ってることが、まだ、ごちゃごちゃで。だから、『しょうがない、皆頑張った、悔いはない』としか、言えなかった」
言い切れなかったことを後輩たちに忖度させて、こうさせてしまった。
「三年生最後の大会で、あの結果で、一番堪えるのは後輩たちだって、えみりはちゃんとわかってたんだよ。だから、引退した後も部活に顔だして。私は自分勝手。まだ、怖かったから。終わってしまったものが、大切な物だってわかるのが、怖かったから」
一年生のリサへの嫉妬、怒り。引っ張っていく立場になった二年生の不安、焦燥感。ギスギス音が鳴っていたことにも、距離を取って気が付かないふりをしていた。
えみりが、リサとアンナの間に一歩入る。
「アンナ、リサが部活に来づらくなったのはプレッシャーからだと思うんだ。それは、そう思わせてしまった私たちのせいだから。リサ、ごめんね。一年生で、入ったばかりの部活で、大役引き受けてくれてありがとう」
えみりがリサの手を握ると、リサの目からぶわっと涙が溢れた。
「アンナがうまくやろうとしてくれてるのも知ってる。部活のこと考えて動いたり、時には嫌なこと言わなきゃって思ってるのも知ってる。そういう子だから、次のキャプテン任せたんだしね」
今度は、アンナの肩を叩く。そして、
「後輩ちゃんたちに重たいプレッシャーを課してしまったのは我々三年生なので、存分に恨め!」
がははっと、風が吹くように大きく笑った。空気が変わる。
昔、えみりに空気清浄機ってあだ名をつけたのを思い出した。
「昨日、ありがとう」
購買で買ったタブレットタイプのチョコレートの袋を、図書カウンターの上に置いて頭を下げる。
「ううん。あの後、戻ってこなくてよかった」
それは、戻ってきてほしくなかったということだろうか。トコナツは「いただきます」と小声で言って、袋を開けた。甘い匂いが広がる。白い指がチョコレートを捉える。
「やっぱり、私が行っても、あまり意味なかったけど。えみりはだいたい大丈夫にしてくれる空気清浄機みたいな人だし」
「そんなことないと思うけど」
もごもごとトコナツが言う。転がして食べるタイプなんだなと思う。
「杉山の表情、畠中が来て変わった」
「見てたの!?」
「行けと言った手前」
まだもごもご言いながら、トコナツはまたチョコレートを手に取って、
「はい」
カウンターに着いた私の手の上に持ってきた。
「あ、いいの?」
「そんなにケチに見える? ほら、溶けちゃう」
渡される時、触れた手が熱かった。溶けるのはまずい、まずいから、と、急いで口にほうる。甘いな。甘い物を食べると脳が働くとか言うけど、嘘だと思う。何か今、何でもそのまま話してしまいたい。
「私って、嘘つきなんだよね」
トコナツは窓の方を見ている。
「あんまり、思ってること正直に言いたくて。何か、自分の考えが間違ってる気がすることも多いから。できればあまり人と話したくない。逃げるために、嘘ばっかついちゃう」
昨日、初めて会話したばかりの図書委員長と話しているけれど。
「僕は――」
あ、チョコレート、溶け切ったんだな。
「正直者にも偽善者にもなれない畠中をひどい人だとは思わないけど。人を傷つけたくないから言葉や行動を選ぶし、たぶん疲れる。優しいんでしょ。杉山、畠中のそういうところに救われてるんじゃないの」
窓からこちらに視線が移って、動けなくなる。「結構モテるぜ。あいつ」どうして今、えみりの言葉を思い出すんだ。
「嘘つきなだけだよ」
「人のための嘘もあるでしょ。まあ、いいけど。僕が決めることじゃないし。で、そんな嘘つきの畠中にお願いなんだけどさ」
「な、何?」
「あの手紙のこと、気付いてるよね」
気付いているというか、ずっと考えている。誰が書いたのか。書いたのはトコナツなんじゃないか、と。
「『オリエンタル全史』のやつ?」
トコナツだとしたら、誰に宛てたんだろう。この図書館に来るのって、トコナツ以外だと――。
心が、音を立てる。
「やっぱり。お願いなんだけれど、あれ、そっとしておいてくれないかな。受け取るべき人が来るまで」
あ、私じゃないんだ。そりゃそうだよな。さっきとは違うふうに心が音を立てた。
レースカーテン越し、穏やかに光が入る。トコナツの顔がいつもより赤らんで見えた。
一週間、図書館には行っていない。
「あんまり、思ってること正直に言いたくて。何か、自分の考えが間違ってる気がすることも多いから。できればあまり人と話したくない。逃げるために、嘘ばっかついちゃう」
最後にトコナツに言ったことが、頭の中でリフレインしている。
――私は、今、何から逃げている?
一つ思い当たったけれど、「違う」と自分に嘘をついて、頭の中で指を折った。
公立の図書館にでもいこうか、考えながら帰り支度していると、
「畠中さんいますか?」
女子が集まって話し込み、塞がっていた教室の扉の辺りで声がした。
「ねえ、藍ー! 呼んでるよー!?」
女子が道を開けて、こちらを呼ぶ。居たのは、
「ちょっといい?」
トコナツ。
近くの女子たちが、小さく、でもわかりやすく、「何、何?」とざわめいたのがわかる。
「貸出図書のこと」
トコナツがそう告げると、皆興味を失ったみたいだった。
借りてる本なんてない。
「えっと、何?」
人気を避けて避けて避けて、図書館である。
トコナツはカウンターの内側には入らないで、建物の奥に進み、『オリエンタル全史』付近の椅子に座った。そして机に突っ伏した。
「畠中、最近、来ないね」
突っ伏したまま話すトコナツを、突っ立ったまま見下ろす。
「体調でも悪いのかなって」
「え……。元気だけど」
「そう」
次の言葉はないようで、戸惑う。何か、話題を。
「あ、あのさ。トコナ……榎本君ってスポーツやってたの?」
「中学まで、テニスやってた」
へえ、意外だ。
「色白だから想像できないって言われるけど。いつも日焼けしてて、小夏は一年中"夏"って感じだねって言われてた」
「何で、辞めちゃったの?」
「怪我しちゃって」
むくっと、トコナツが起き上がる。
「続けられなくなった。僕もまあまあショックだったけど、親の方が大変だった。学校側の指導が悪かったんじゃないかとか言い始めて。僕は、監督のこともコーチのことも仲間のことも好きだったし。だから、なんか、ね。どうにかしたかった。けど、上手な主張できるほど大人じゃなくってさ」
トコナツの横の椅子に、腰掛ける。
「テニスできなくなって、家に早く帰るじゃない? そうするとさ、親がかわいそうな目で見るんだよ。そんな親がかわいそうで、僕、学校楽しいよって主張したくて、図書室で時間つぶすようになったんだ。そんなに、本好きじゃなかったけど、ずっといると読書以外することもなくて、気付いたら夢中になってて、どんどん他の本も読みたくなって。高校で図書委員会選んだのも、そんな流れ」
「てっきり、生まれた頃から本の虫なのかと思ってた」
「読めないでしょ」
「でも、どうして、図書館なの? 図書室じゃなくて」
「入学してすぐ、図書委員会のオリエンテーションでここに来て――」
トコナツが後ろの棚に腕を伸ばす。重たい一冊がひょいっと持ち上げられる。こんなに長くて筋肉のついた腕だったんだと、どきりとする。
「見つけたんだ。この恋文」
見つけた――つまり、これを書いたのはトコナツじゃない。
「図書室と違って図書館は利用者がほとんどいないから、いっそのこと閉鎖して、図書委員の負担を減らそうかって話が出てたんだけど、じゃあ、僕一人でやりますって」
「これ、見つけたから、ずっと当番してたの?」
「ん」
図書館の番人じゃなくて、恋文の番人だったのか。
「僕が一年の時にもう挟まってたから、ずっと前のものなのかもしれない。もう、書いた人も、読んでもらいたかった相手も卒業しちゃってるかもしれない。けどさ、来るかもしれないじゃん。だから、三年間は見守ろうって思ったの。それだけ。どうせ帰っても本読むだけだし。やること変わんないから。まあ、この調子じゃ届かずじまいだろうけど」
「どうして届かなかったんだろうね」
「三年間しか、なかったからだよ」
「え?」
「高校生活は三年間しかないのに、その間に伝えなかったから。今日言えなかったことをいつか言えるとは限らない」
今日言えなかったこと。その言葉に、胸が鳴る。
明日からまた図書館に通い始めたとして、トコナツに会えたとして。誰かの恋文を挟んで過ごす私たちの日常は、永遠じゃない。私たちは卒業する。図書館はきっと閉鎖されるし、いつか壊されて、跡形もなくなる。
今は、当たり前じゃなくなる。
あ、だから、今。
今、言わなきゃいけないんだ。
「あの――」
「好きだ」
「え?」
「だから、今日のうちに言っておく。畠中のこと、好きだ」
日常は続かない。だから私も、今、返事をする。
頭の中で折った指を、一つ、開いた。
秋になると暖房設備の良くない図書館は冷える。
「ここ、座ってみたかったんだあ」
カウンターの内側の椅子に座ると、カーテン越しの太陽で暖かい。
「いいでしょ」
「んー。でも、ちょっと眩しすぎない? 日焼けしそう」
「日光浴できるよ。僕もいつもしてる」
「その割には小夏、真っ白だけどね」
「藍は、日焼け治ってきたね」
カウンターの上で手が重なると、小夏の顔が赤らんだ。もちろん、私も。
恥ずかしくなって目を泳がせたカウンターの端、いつだかあげたチョコレートの袋がきれいに伸ばされて飾られている。
「私ね、小夏のこと心の中で"トコナツ"って呼んでた」
「ん?」
「二年の時、全校集会で表彰一緒になった時。ぼうっとしてたら榎本小夏の"トコナツ"のことだけ聞こえたの」
「ふふっ、何それ!」
小夏がこんなふうに笑うんだって、知れてよかった。
「トコナツなのに日光足りてなさそうーとか思ってた」
「うわ、ひっどいなあ」
「ごめん」
指が絡まると、温かい。
「僕は、藍に"ランちゃん"ってあだ名つけてた。藍の字ってランって読むでしょ。それと、頑張って走ってるから」
ん? と首をかしげる。
「それ、いつのこと? 私が走ってるの見たことあったの?」
「……みなまで言わせないでよ」
少し考えて、顔がかっと熱くなった。レースカーテンの向こうでは、きっと、後輩たちが練習に勤しんでいる。
「あの恋文のことがなかったら。いつか伝わるかもって考えてたら、僕も同じことしたかもしれないな」
「私も。指を折ったままだったかも」
「え? 何、指折るって、物騒なんだけど」
あの恋文はたぶん届かない。だけれど、あの恋文のおかげで、私の日常に君が、君の日常に私がいる。これからも。