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平成を、生きる  作者: Eve
1/1

歩んだ人生は、「平成」という時代でした

この作品は、たくさんの幅広い年齢の方にぜひ読んでいただけると幸いです。

もちろん、賛否両論あるとは思いますが、この連載小説が終わるいつかまで、暖かく見守っていただけることを望みます。そして、少しでも共感できる場面があれば、嬉しい限りです。

まずはじめに、この小説を読むにあたって賛否両論あるとは思いますが、

子どもから大人まで、幅広い年齢の方に読んでいただけますように。



平成という時代が終わろとしているのをきっかけに、

平成という時代について思うことを綴ろうと思う。



私は昭和の最後の年に生まれ、平成が始まろうとしているまさにその時に

人生の一歩を歩み始めた。


子どもの頃にはすでに平成の時代を生きていたが、

当然子どもなので何かを真剣に考え何かについて語ろうとはまだ思わない年齢だった。

最近になって思うことは、「世の中本当に便利になったな」ということである。

当然誰もが当たり前に思っているだろう。


しかし、便利な世の中とはいえ、非常に生きにくいと最近思うのだ。


様々な分野で大きな発展が見受けられたことにより、

便利なものが次々に生まれた。

生活をする上で、仕事をする上で、生きていく上で、

スムーズに何事も円滑に進む。

仕事の効率化がアップして、このやり方で行けば会社の業績にも繋がるだろう、と

世の社会人は皆一度は思っただろう。


しかし、便利になったことで、人間の脳は衰えていく一方なのではないか。

全ての分野において、と言っているわけではない。


便利になる=楽を知る

ということについてここでは語りたいと思う。


私は地方の田舎で生まれ、20年間その田舎で育ったために、

物でありふれてる環境に染まったのは社会人になって数年してからだ。

両親は厳しく、他の家庭ではお小遣いというものをもらっていたが、

私はお小遣いをもらっていなかったために欲しい服や欲しいものを

すぐには買うことができなかった。

中学生になると、周りの友人たちは携帯電話を持つようになる。

その前は、PHSという今でいうトランシーバーくらいの大きさのある端末機だ。

周りの友人たちはPHSや携帯電話で家族や友人、恋人と自由に連絡を取ることができる。


しかし、私の家庭は他の家庭より裕福ではなかったことと、

両親が厳しかったこともあり、みんなが早々にも携帯電話を手にしている時代は、

公衆電話からよくかけたものだ。

友達との待ち合わせには事前に家の電話にかかってくる。

まさにダイヤル式の黒電話だった。

塾や学校の帰りに迎えにきてもらうには、

学校の廊下にある薄ピンクの電話や近くの公衆電話からかけ、

テレホンカードをいつも持ち歩いていた。


高校生になり、ようやく携帯電話の所持許可が出たのだ。

その解放された気持ちからか、高校生にして月々の料金は2万円を超えることもあった。

高校生で携帯の通話料が2万を超えることは今の時代、

あまりないだろう。(あるかもしれないが...)

何故ならば、〇〇パックだの、お得な料金プランというものが後にできたからだ。

当然私は母親に怒られる毎日だった。

「毎月、毎月、どうやったらこんな金額を使うのだ」と。


高校生ともなると女子とはいえ、反抗期というものがやってくる。

母親の言葉一つ一つに毒を吐きたくなったものだ。


携帯料金についてグチグチと言われるのが嫌だったのと、

やはり周りの友人たちのように自分で好きなものを自由に買い、

好きなことをしたかったこともあり、私はアルバイトをするようになる。


アルバイトをすることは良い経験だと私は今も昔も思っている。

私の高校はアルバイトが禁止であったが、禁止にする理由が今でもわからない。

なぜならば、礼儀も常識も何もわからない子どもが大人と一緒に働くことで、

最低限の常識や礼儀を知るようになる。

身につくかというと一概には言えないが、知るようになるだけでまず1つの成長だと思う。

学校というありふれた規則の中に縛られるよりは、

社会のしがらみというものをその時から知っていた方が後の自分の人生のためになる。


自分で汗水垂らし、一生懸命働いて得た給料はさぞかし嬉しいだろう。

お金が入ると素直に嬉しい気持ちになるのは誰でも一緒ではあるが、

同時に、どんなに一生懸命働いても得られる給料はこれぐらいか、と

落胆する時もあっただろう。

そうして現実の厳しさを知るようになる。

自分の頑張った成果の分だけ必ずしも報酬が得られるわけではない。

成果を評価してもらってこそ、初めて自分の報酬になるのだ。

だが、これは今だから思えることで、当時高校生であった私は、

母親にグチグチ言われることなく携帯が使えるだの、欲しい服を自由に買えるだの、

そんなことばかり思って浮かれていたのが事実だ。

その時私は、浮かれつつも高校生なりに働くことの大変さを少しは感じていたはずだ。


 平成が終わろうとしている今の時代、若い女の子はどうやって好きなものを

買って好きなことをしているのだろうか。

よく耳にするようになったのは、「パパ活」という言葉である。

私が聞いた「パパ活」というのは、若い女の子が大人の男性に

ご飯をご馳走してもらったり、好きなものを自由に買ってもらったり、

海外旅行に連れて行ってくれたり、お小遣いをくれたりだそうだ。

掘り下げると、ご飯は高級料理店、好きなものはハイブランドのバッグや靴、

海外旅行は交通費やホテル代など数日間、いや、数週間の全ての旅費だというではないか。

これを聞いて正直私は言葉が出なかった。

所謂、昔でいう援助交際ではないのだろうか、と思わず眉をひそめたくなる。

「パパ活」というものに未成年が入っていないことを願うばかりだ。


さらに掘り下げると、大人の男性といっても

独身だったり既婚者だったり様々らしいが、

共通していえるのは年収が高かったり、資産に余裕がある人間が相手の対象のようだ。


私が出会ったその女の子は、相手に対して特別な何かをするわけではなく、

ヘラヘラと笑い相手のご機嫌を取って少し甘えるだけで

「パパ活」というものが成立するという。

回数を重ね、気に入られさえすればその場で数万から数十万の

お小遣いを現金でもらえるとその女の子は言った。

そのお金でさらにブランド物のバッグや靴や衣服を買い、好きなことを自由にしている。

そういう生活をして暮らしている女の子は大学生から20代前半の女の子に多いという。


私が大学生だった頃は、学校に行きながら3つものアルバイトを掛け持ちしていた。

学校が終わったらアルバイト先に急いで向かうのだ。

1分でも1秒でも長く働いて、お金に換算したいから。

それでも1つのアルバイトだけでは思うような給料が得られず、

土日には昼と夜とで違うバイトをかけもち、毎日朝から晩まで働いた。

それでも得る給料は「パパ活」をしている女の子の収入に比べたら、

到底追いつける額ではない。


汗水働いてせっせとお金を稼いでいた数年後には、

何もしないでもお金を得ている女の子が

そこら中にありふれる時代になっていた。

もちろん、この時代を生きる女の子全員が、と言っているわけではない。

そういう女の子が当たり前にいる時代になったということを伝えたいのだ。


しかし、そういった女の子は楽に稼げる方法を知ってしまっているから、

社会に出て、一企業に勤めたとき、普通の精神状態で働けるとは思えない。

前述の通り、働いた成果の全てが給料に換算されるわけではないからだ。

媚を売ることは覚えても、社会の荒波から脱出できる術は知らないだろう。

会社に勤めると、想定もしない出来事が目まぐるしく襲ってくる。

急な出張や異動、無理難題な打ち合わせから

バカらしくてやっていられないとさえ思えてしまう雑務。

上司の圧力に耐え、お局からの嫌がらせも受けるかもしれない。

膨大な仕事を抱え、残業をしなければいけない時も当然あるだろう。

してはいけないミスを犯し、責め立てられることだってあるかもしれない。

売り上げや業績などのノルマを抱え、

常に数字に追われる毎日を過ごすことになるかもしれない。

同期の嫉妬に背を向けたくなるときだってあるかもしれない。

そうやって想定できないことがいつ自分の元に降りかかり、

渦中の人物になっていようとは、考えもしないだろう。

そういう壁にぶつかった時に、働くことの、

お金を稼ぐということの大変さを初めて身に染みるのだ。


楽に稼げる方法を知っているからこそ、

大変な状況下に置かれた時に柔軟に対応できるわけもなく、

頑張ろうと意気込むこともなく、失敗したと嘆いたり悔やんだり、

それをバネにして次に生かそうと、誰が思えるのだろうか。


人が稼いだお金で自由に遊べるほど楽なことはない。

だが、そうして得たお金は心の隙間を埋めてくれるのだろうか。

素直に、心から嬉しいとか喜べるのだろうか。

後ろめたさは少しもないのだろうか。


そんな腐った心を持つ人間にだけはなりたくない。

羨ましいと微塵も思わないのは、自分がそうした経験がないが故の

妬みでもなんでもない。

ただ、まともな考えができる人間とは思えないからだ。


第三者の立場になって考えてほしい。


楽して得て使っているお金は、

誰かが汗水垂らして一生懸命に働いて稼いだお金なのだ。

後ろめたいと思えないような荒んだ心の人間にだけは

なりたくない、なってほしくはないのだ。




平成が終わろうとしている今、次に気になることは言葉遣いだ。

といっても正しい日本語という観点においては筆者も自信がないので、

もし間違った日本語があったとしても、ここでは広い心を持って

暖かく見守っていてほしい。


造語が次々に生まれるようになり、

流行り言葉を使うようになる。


そうして出来上げがった言葉での会話は30歳の私からしても

まるで宇宙人と話している気分になる。


どういう意味?といちいち聞くのも言葉を遮るようで

なんだか申し訳ないので、とりあえず最後まで

会話してみたものの、結局何を言っているのか

わからなかった、ということは稀ではない。


そして、造語だけがまるで切り取られたかのように、

その言葉だけが目立って聞こえてくるようになった。

もちろんその間、私の頭の周りには「?」が浮かんでいる。


造語で会話をすることが多い平成の若者は

正しい言葉を知らないから、

上司にですら、普通に使ってしまうのだ。

まるで友達と話すかのように会社で話す。


近くでその言葉遣いにヒヤッとする人間の存在になど

気づきやしないだろう。


「ら」抜き言葉は当たり前だ。

そもそもの、基本的な挨拶ですらできない時には

ただただ呆れた。


言葉を知らないからこそ、誤った書き方や

誤った読み方を当たり前と思ってしまっている

若者がいる。


例えば、

「はじめまして。」という言葉があったとしよう。


言葉を知らない人間は、それを

「始めまして」と書いたのだ。


次に、

「こんにちは」という言葉があったとしよう。


それを「こんにちわ」と書いたのだ。


まるで子どもの作文を読んでいるかのような気分だった。


もし自分が誤ってそう書いてしまったとしたならば、

恥ずかしくて、穴があったら入りたい

以上の気持ちになる。


常識を知らないということは

恥につながる。


あるひとは言うであろう。


間違っているのであれば、教えてあげればいいではないか。

確かにその通りである。


だが、その人は生まれたばかりの

赤ちゃんではあるましい、

まだまだ言葉を知らない小学生ではない。


義務教育を経て、社会人として企業で働いている

大人である。


なんでもかんでも教えていたとしよう。


その人は「考える」ということを

おそらくしなくなるであろう。


何が正しくて、何が間違っていたのか

知ろうとしない。

考えようとしない。


いや、知らなくていいのだ。

自分で考えなくていいのだ。


だって

間違っていたのなら

誰かが必ず教えてくれるから。


そういう誤った考え方をする人間に

ならないだろうか?


なんでもかんでも教えればよいというわけではない。

教えるのであれば、

何が正しくて、何が間違っているのか

自分で考えて答えを出す

ということを教えてあげるべきではないか。


少なくとも筆者はそう思う。


わからないことをなんでも教えたら

自分で調べるということをしなくなる。


誰かが教えてくれたことが

もし間違っていることだとしたら

その人はまた間違ったことを間違ったまま

覚えて大人になる。


それでいいのだろうか。


自分で調べたり、考えたりすることは

非常に大切なことだと思う。


前述のお金の話ではないが、

楽して得た知識より

苦労して得た知識のがはるかに身につくであろう。


知らないことを知ることの喜びや

知ろうとする気持ちの芽生えは人の成長に大いに関わると思ったのだ。


なんでもそうだが、楽なことが=良いことに

結びつかないのではなかろうか。


苦労をするからこそ、大変さを知る。

大変さを知るからこそ、頑張ろうと努力をする。


努力をするからこそ、成果に結びつく。

なんでも直結はしない。

結果の前には、必ず過程があるのだ。


苦労をすることを推薦しているわけではない。

ただ、楽して得た何かに対する喜びは

非常に浅はかだと感じる。


苦労を重ねて乗り越えたからこそ

大切にしたい何かができて、

素直な喜びを感じることができるであろう。


苦労の話が出たので、もう少しこの話題で

掘り下げたいと思う。


楽をする人

苦労をする人


どちらにも成功者と失敗者はいるだろう。


だが、人間の感情を考えた時に思うのは、

「心」のあり方だ。


これは偏見かもしれないが、

泣いた分だけ強くなれる、という言葉があるように、

苦労した分だけ相手を思いやれる気持ちが

大きくなると思うのは、筆者の気のせいだろうか。


苦労したことがない人間は、

人の痛みに鈍感だ。


そう強く思ったことが

何度かあったのだ。


人の痛みをわからない人間は、非常に冷酷で、

凍りついた人形のように思える。


苦労をしたことがない人間に、

何がわかるんだ、

何もわからないだろうし、わかってほしくもない、

と正直何度も思った。













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