幕間(interlude) 3
「ところで、お前が来たってことは俺も店じまいが近いってことか?」
グレイは話を変えようと思った。実際のところ気にはなっていた。オロチが要求したものは彼の主だった任務の成果だった。ギリシャに別れを告げる日も遠くはないのだろう。
彼の予感は的中していた。的中しすぎていた。
「その通り。一週間以内に引き払ってほしい」
「一週間? ずいぶんと急じゃないか」
「ああ、急いでほしい」
オロチはアタッシュケースを閉めながら言った。
「これから先、我々の出番はなくなる。少なくともギリシャで活動は不要かあるいは困難になるだろう」
「やはりか……」
心当たりがあった。最近、ギリシャ政府の高官がやたらと空港に出入りするようになっていた。行先は不明だったが、少なくとも欧州方面ではない。恐らく地中海の対岸へ向けて飛び立っているのだろう。
「先月、アレクサンドリアに大規模な英国船団が入港した。それらは英連邦の兵員と火器を満載していた」
「俺は、その船団とやらは謎の海難事故に遭うって聞いていたんだがな」
「彼らにはオデュッセウスでもいたのだろうさ。とにかく入港した船から下船した将兵はわずかだったらしい。つまり英国軍の目標はアフリカではない」
「トロイアへ行くわけでもなさそうだな。さしずめキプロス。そして……」
グレイがカーテンを開けた。エメラルドグリーンの地中海が道を挟んで広がっていた。
「いい街だったんだがな」
心の底から出た言葉だった。
「ああ、私もそう思う。なるべくなら美しいままで遺ってほしい」
弔辞のようなだグレイは思った。オロチはいつもと同じ、東洋人特有ののっぺりした顔立ちだったが瞳に哀悼の念が現れていた。
妙な胸騒ぎがした。
「オロチ、お前、何を知っているんだ?」
「特に何も。核心は知らないよ。だが、予測はできる。例えば陸軍の主力が東方へシフトしている。加えてバルカン半島には武装SSの師団が配備されつつある」
「パルチザン狩りじゃないな」
バルカン半島におけるドイツの敵はパルチザンでもユダヤ人でもない。BMと魔獣だ。
「だが武装SSが配備されるのなら、それは総統代行の意思がバルカン半島にあるということだ。歓迎される事態ではないだろう」
「ゲッペルスの映画では、花を持った美女や子どもが出迎えてくれるのだがな」
せせら笑いとともにグレイは言った。
「ここはオーストリアではないよ」
オロチは皮肉に対する理解が浅かった。せせら笑いが苦笑に変わる。
「ドイツには前科がある。ギリシャ人にとって忌まわしい罪を背負っている」
「わかっているさ。何しろ五年前まで庁舎にはハーケンクロイツが掲げられていたんだ。連中にとっては二度と見たくない光景だろうさ。だが今の陸軍と武装SSでバルカン山脈を貫けるのか。あそこにはBMがあるはずだろ。魔獣の数だって把握しきれずにいる。下手をしたらバルバロッサの二の舞だ」
「わからない。だから不気味なのだ。軍が意味もなく東方へシフトするとは思えない。もし私が今の戦力でバルカン半島の制圧を考えるとすれば……」
珍しくオロチは躊躇しているようだった。
「どうした?」
「私の母国には言霊という概念がある」
「コトダマ? いきなり何を言い出している?」
「言葉には力がある。口に出したことは何かしらの影響を現実に与える。だから不吉なことはあまり言うべきではないと思う」
「つまり禄でもないことなんだな」
「聞きたいなら話すが?」
「いいや、やめておこう。これから荷造りをするってのに不景気な気分でやりたくないからな」
「そうか。なら私は行くよ」
オロチはそう言うと、グレイはドアを開けるついでに営業開始のプレートを掛けた。
「宿はどこだ?」
「ディオニソスというホテルだ」
「ああ、知っている。いいバーがあるんだ」
「ご婦人方を口説くのにか?」
真顔で尋ねられ、思わずグレイは失笑した
「まあな」
お得意様を見送るようにグレイはドアを開けた。
「ではタジウラさん、アテネを楽しんできてください」
「ありがとう。良い取引ができました」
オロチは深々と頭を下げると、グレッグ商会の事務所を後にした。
閉め切った室内から外へ出たせいか、日差しが眼にきつく刺さる。夏の足音が近くまで聞こえてきていた。
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弐進座
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