喪失第一号(Lost No. 1) 9
室内から「入りたまえ」の後で、エリーゼが扉を開けた。
もともと城主の部屋だったようで、豪奢な装飾が室内の一面に施され、ロココ調のマイセン磁器がいたるところに飾られていた。
「やあ、待っていたよ」
諸手を広げた城の主はSS少将の制服を身に着けていた。クラウスは既視感を覚え、その正体に気が付いた。おそらくエリーゼの父親なのだろう。
それくらい二人の顔立ちは似ていて、父親の方は絵に描いたようなゲルマン民族の風体だった。髪は白髪に近い金髪で鼻筋が通り、虹彩異色症が特徴的だ。右の瞳が赤みががかったブラウン、そして左がアイスブルーだった。
クラウスが斜め上に手を上げると、相手も同様のポーズをとる。まるで鏡の前にいるかのように、お互いに同時に手を下げた。
「長旅で疲れただろう。ゆっくりしていきたまえ」
「ありがとうございます、ヴェッティン伯」
ヴォルフガング・フォン・ヴェッティン、伯爵号を持つ希少な親衛隊員だ。もともとマイセンを治めていた辺境伯の傍系で、今はアルブレヒト城の実質的な主だ。
ここに来る前、クラウスは親衛隊の本部でヴェッティン伯の来歴を聞かされていた。
かつては地主貴族の一人として、広大な土地を治めていたらしい。しかし第一次大戦の敗北で大半を失っている。その後は貿易業で成功し、外務大臣リッベントロップの仲介でナチス党へ入党していた。
ヴェッティン伯はナチスへ入った後、多額の寄付金と共に親衛隊長官のヒムラーへ接近していた。それ自体は珍しくもない行動だ。政権を牛耳る重鎮と仲を深める手段として、ライヒスマルクは極めて有効だった。
しかしクラウスは解せなかった。対価としてヴェッティン伯が得たものが見えなかったのだ。彼は政府やナチスから利権を誘導されたこともなければ、要職に抜擢された経歴もない。それどころか継続的に献身的なほど、彼は私財と労力を党の運営に捧げている。党内でいくつかの役職を渡り歩いていたが、到底つり合いがとれるようなものではなかった。
はじめは熱心なナチスの支持者で、忠誠心ゆえの献身かと思っていた。財界人や名士の中でも珍しくはない。
だが、ここに来て自分の仮説に対してクラウスは自信が持てなくなっていた。
──計れない。
ヴェッティン伯に抱いた印象は簡潔で、謎だった。
彼の瞳には、ナチスの熱狂的な支持者特有の純朴さが宿っていなかった。自身の抱く世界観に全く疑問を抱かない、あの幼児性にも似た瞳の光がない。対照的に底の見えない深い色を宿していた。
外見から人間性と意図が読めない。思えばエリーゼに対しても同様の印象を抱いていた。この二人は人型をしている何かが人間を演じているようで、レールネの方がよほど人間臭く思えた。
「大尉、さっそくだが彼女を紹介してもらえるだろうか」
ヴェッティン伯は傍らにいるレールネを見た。
「失礼しました。レールネ、さあ伯爵に挨拶を」
レールネは不機嫌そうに目を細めると一言で終わらせた。
「レールネよ」
期待はしていなかったが、あまりにも不愛想で無礼な態度だった。
「申し訳ありません。こちらの世界の儀礼に、彼女は明るくないのです」
クラウスがフォローするも、ヴェッティン伯の耳には入っていないようだった。伯爵はレールネを見つめたまま、停止している。
そこで伯爵の瞳にようやく感情の色が灯った。値踏みするかのようにヴェッティン伯はレールネの全身を視線で撫でていた。
クラウスは眉間による皺を意識して伸ばさなければいけなかった。
「こんにちわ、月鬼の娘さん。私は──」
「おなかすいたわ」
ヴェッティン伯の身体が足首を残して無くなった。状況を飲み込むまで数秒の時が必要で、クラウスはまず大きくため息をつくところから始めた。
瞬きをする間にレールネはヴェッティン伯を平らげ、吸収してしまったのだ。
「レールネ……」
静かに怒りを湛えながらクラウスは言った。
「朝ごはんがまだだったの。しかたないわ」
淡々と言うとレールネは部屋を出ようとした。唐突に乾いた笑いが室内に響き渡り、一斉に声の元へ視線が集中した。
エリーゼだった。狂気じみた笑い声を上げながら拍手をしている。あまりにも常軌を逸した出来事に気がふれたのかと思えた。
「フロイライン・エリーゼ?」
クラウスが確かめるように尋ねると、エリーゼだった者は笑いを堪えた。
「失礼。どうやら誤解があったようだ」
声こそエリーゼだが態度は激変していた。
「はじめまして、私がヴェッティン伯だ」
エリーゼの口元が三日月に変わった。
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月一で不定期連載中。
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弐進座
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