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獣の海 (Mare bestiarum) 6


「仕事中にすまない。いきなり顔を出して、君を驚かせたくなかった」


 オロチが気の毒な表情で言うと、店主は遮るように首をふった。


「気にしないで。ここもあなたの家なのだから」


「……ありがとう、エレナ」


 エレナと呼ばれた女性は扉の前の看板をひっくり返し、店じまいを街に告げた。オロチが止めようとしたが、頑なにエレナは断った。


「次、いつ帰ってくるかもわからないでしょう。それとも今回は長く居られるのですか?」


「いや、長くはないな」


「それなら、これで良いのです」


 エレナは店の鍵を閉めると、裏へ回った。無言でオロチは、その後へ付き従っていった。このパン屋は家屋に隣接している。


 家には、エレナのほかに老婦人が暮らしていた。かなり老けて見えるが、彼女の実母だった。本来ならば五十そこそこの齢だったはずだが、ここ数年の間に一気に老け込んでしまった。地獄のような世相が、老化現象を加速させたのだ。


「ただいま、お母さん。父さんが帰ってきたわよ」


 エレナの母はキッチンにいた。古く、錆びついた鍋で何かを作っている。


「あら、あなた。おかえりなさい。遅かったのね。お食事はまだですか。ちょうどサルマーレが出来上がったところですよ」


「これはおいしそうだ。ありがとう」


 オロチは老婦人へ慈しむ目を向けた。


「ああ、そういえばこれを──」


 手にした紙袋を老婦人に渡す。


「出張でキューバに行っていたんだ。これはお土産だよ」


「まあ、ありがとう。遠くへ行ってきたのね。お話が楽しみだわ」


「よかったわね、母さん。ねえ、少しリビングで休んだら。ここは見ておくから。あとで一緒にお話を聞きましょう」


「ええ、ええ、そうしましょう」


 老婦人は子供のように目を輝かせると、エレナに付き添われてリビングの方へ行ってしまった。まもなくエレナは戻ってくると、鍋を外へ運び出し、慎重に中身の水を庭先に流した。鍋底にはぼろぼろになった積み木だけが残された。彼女が幼い時に、本当の父親に買ってもらったものだ。ままごとの玩具で、木製の包丁が付属している。


 キッチンに戻ると、エレナは鍋をコンロに戻した。すぐそばにはぼろぼろになった木製の包丁が置いてあった。


 一連の所作を無言でオロチは見守っていたが、おもむろに口を開いた。


「お母様は変わりない様子に見えたが、どうだろうか」


「ええ、その、落ち着いています」


 気丈に答えたつもりらしいが、声は少し震えていた。


「そうかい」


「本当に大丈夫です。ここ最近は夜中に叫びだすこともなくなったし、勝手に外へ出ていくこともなくなりました。村の人とも簡単なお話も出来ますから」


「わかった……」


 エレナの母は、精神的に不可逆な傷を負っていた。彼女の一家はドイツ国内の極めて特殊な収容施設で過ごしていた。そこでは多くの親族と同胞が命を落とし、母親は正気を失った。


「ああ、そういえば君にも土産ある」


 オロチは話題を変えることにした。わざとらしく見えるかもしれないが、それでもかまわない。不幸の記憶は呼び起こすだけで、心を腐らせていく。そんなものに人生を費やせるほど、余裕はないはずだ。


「これは?」


 エレナの手に置かれたのは真珠の髪飾りだった。


「出張先で買ったものだ。そう高いものではないのだが……」


「いいえ、うれしい。うれしいです」


 エレナは囁くように言った。


「ありがとう。大切にします」


「ああ」


 オロチは安堵した顔で肯いた。


 自室で荷物へ下ろすと、窓から仕事終わりの人々の群れが見えた。性別と年齢に一貫性はなく、文字通り老若男女だ。恐らく近くのベアリングの工場に駆り出されているのだろう。


 ふと制服姿の兵士が視界に入り、オロチは目を細めた。警察大隊のユニフォームだった。短機関銃を肩からかつぎ、村の端々に目を配っている。よく見れば、いたるところに同様の兵士がたむろしていた。


──資源の無駄だ。


 それ以上の感想をオロチは覚えなかった。これから先、東方生存圏全域で似たような光景が見られるようになるのだろうか。


 着替えた後でリビングへ戻るとエレナがお茶の用意をしていた。自家製のハーブディーだった。欠けたティーカップへひびの入ったティーポットから注がれていく。


「ねえ、あなた、このところ物騒なのよ。ご近所の窓ガラスが次々と割られて、火事になったのの。それなのに消防もきてくれなくて──」


 エレナの母がまくしたてるように言った。


「母さん、その話はまた今度……せっかく父さんが帰ってきたのだから、もっと楽しい話をしましょうよ」


 エレナが元気づけるように言うと、我に返った顔で母親は肯いた


「それも、そうね。ねえ、あなたキューバはどうでした? ニューヨークにも行ったのかしら? ああ、そうだ。ご近所の牧師(ラビ)さんがいつの間にか引っ越しちゃって……」


 エレナの母は止めどもなく話をつづけた。彼女は過去と現在を行ったり来たりしていた。やがて、娘に諭されて薬を飲むと長椅子に横たわって寝息を立て始めた。


「ウラさんに会えて、よほどうれしかったんだと思います。たぶん天国の父さんも喜んでいると思います」


「そうか。そうであることを願っているよ」


 オロチは複雑な顔で応じた。


 エレナの父は、オロチにとって命の恩人だった。


◇========◇

次回2月28日(月)に投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。


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