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獣の海 (Mare bestiarum) 5

 タジウラと名乗った日本人は、意外と話の出来る印象を抱かせた。必要以上の言葉は返さなかったが、口調は頑なではない。ロレンツォは話題を変えることにした。どのみち、この男としばらく行動を共にしなければならないのだ。少しでも相手の情報を得るに越したことはない。


「なかなか興味深いが、キャッフェを片手に続けるものではなさそうだ」


「確かに。できれば安物のワインを友としたほうが、ふさわしい話だよ」


 ロレンツォは失笑すると、やや安堵を覚えた。経験上、自ら冗談を嗜む相手に悪い奴はいなかった。


「まあ、ここまで並ならぬ苦労があったとだけ覚えておくよ」


「そして、これから君らに苦労をかけることになる。聞けば、少し前まで別の任務に就いていたたらしいな。部下に休みをやりたかっただろうに、すまないことをした」


「ああ、いや、気にするな」


 ロレンツォは少し顔を曇らせたが、すぐに戻した。確かにウラの言う通りだったが、ロレンツォなりの打算があった。彼は、この特殊任務を引き受ける代わりに、特別手当と長めの休暇を約束されていた。もちろん、部下の分も含めて。


「それにしても、あんた一人だけとはな」


「例にもれず、我々も人手不足なのだ。黄色人種の手も借りたいほどにね」


「は、素直に笑えん冗談だな」


「全く、その通り」


 ウラは肯くと、カップに残ったコーヒーを飲み干した。酸味が控えめで、パンチの効いた苦味が舌苔に残った。確かに本物のコーヒーだった。ドイツでは一部の高級レストランでしか、お目にかかることが出来なくなっているものだった。


 数年前に比べれば、ドイツへの輸入量も増えているはずだが、需要が追いついていないのだ。ドイツが保有する船舶の大半は、戦略物資の輸送に割かれている。とてもではないが、嗜好品の輸送に手を回すことはできなかった。


──やはり地中海は恵まれている。


 地中海はジブラルタルとスエズ運河の二経路が物流の基点になり、大西洋とインド洋に通じている。ドイツ本国の物流は北海もしくはドーバー海峡を経由することになるが、いずれにしろ大西洋にしか通じていない。ドイツにとって、インド洋もしくは太平洋は遠すぎる海だった。


──あるいは優先順位の差か。


 イタリアも決して資源に恵まれていないはずだったが、船舶の大半は民需品の輸出入に回されている。反乱を恐れるムッソリーニの意向も入っているらしいが、真実は別にあった。イタリア軍は大規模な国家統制をできるほどの権限も戦力も持ち合わせていない。


 目の前のイタリア人士官が魔法瓶を差し出してきた。


「二杯目は?」


「ありがとう」


 魔法瓶を傾けられた拍子に、薬指の指輪が見える。ウラの視線に気が付いたのか、ロレンツォを名乗るイタリア人士官が口を開いた。


「気に障ったらすまない。あんた、家族は?」


「いない、少なくとも私はそのように思っている」


「そうか。野暮なことを聞いたな」


「かまわない。あなたのほうは?」


「カミさんと息子が二人いる。ありがたいことに、三人とも五体満足さ」


 イタリア人士官は、写真を取り出して見せた。気の強そうな瞳の女性、加えて父親によく似た少年二人が映し出されていた。


「それは誠に良かった」


 恐らく良き夫なのだろうと思った。それに目先が効く。ウラの挙動を抜け目なく観察していることからわかる。今のところ、指揮官としても問題は感じられない。昨日まで実戦の只中にいたはずだが、疲れを見せていなかった。率いている部下も完全に掌握している。


「ああ、全くだ。俺にとっては、生きる意味そのものだな。こいつらのためなら、地獄(コキュートス)にでも鼻歌交じりで出向いてやるよ」


「なるほど」


「あんたにも生きる意味があるんだろう?」


「わたしか……」


 ウラはすぐに応えることが出来なかった。驚くべきことに、不意を衝かれていたのだ。


 このイタリア人士官に対して、幾分か評価を改める必要を感じた。油断のならない人間だ。同時にウラは同盟国の対応に満足した。


──イタリア軍は黄色人種(わたし)の要求に必要十分に応えてくれたようだ。


 覗き込むように、こちらを見ているロレンツォに対してウラは日本人特有の曖昧な笑顔で応じた。


「ああ、そうなのかもしれない」


 生きる意味、あるいは自分がここにいる理由について、彼の脳裏に浮かんだ情景はただ一つだった。


 数週間前、ドイツ国内の山間部にある、さびれた村に彼はいた。彼はそこでオロチと名乗っていた。



【ドイツ国内 某所】

 1946年4月未明


 オロチが、その村を訪れたのは休暇期間中だった。中米、パナマでの綱渡りのような工作任務を終えた後のことだ。


 彼は宿をとる必要がなかった。幸いなことに、彼を受け入れてくれる家が村にあったのだ。そこは村内でパン屋を営んでおり、一組の母子が住んでいた。


 いつも通り、オロチは無言でパン屋のドアを開けた。備え付けのベルが鳴り、店主が振り向いた。若い黒髪の女性だった。大人しめな印象を覚えるが、瞳に芯の強い光が宿っていた。


 店主は、オロチの姿を見かけるとすぐに顔を輝かせた。


「おかえりなさい」


「ああ」


 オロチは軽く会釈した。あるいは「ただいま」と言うべきなのかもしれなかったが、心のどこかで拒否反応を起こしていた。ここを自身の家だと認めてはならないとオロチは感じていた。


◇========◇

次回2月21日(月)に投稿予定

ここまでご拝読有り難うございます。

弐進座


◇追伸◇

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)

詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。


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