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新たな戦影(The shadow of war)6

【パナマ運河】

 1946年2月28日


 昼下がり、<大隅>はパナマ運河を通過している最中だった。もうすぐガトゥン湖に入り、煩雑な手続きを済ませたら、ミラフローレス閘門から至る。明日にはカリブ海の風を受け、一週間後には大西洋の空の下にいるだろう。


 地上を航海しているような気分だった。


 目の前をコンクリートの岸壁が、水平にゆっくりとスライドしていく。壁の先にはまばらに飛び散った森林地帯があり、その間にくたびれた舗装道路が横たわっていた。


 ところどころに焼け焦げた黒い塊が見える。動物の死体のようだが、それらは破壊された対空陣地や装甲車両の跡だった。


──戦争をしているんだ……。


 改めて、戸張小春は現実を認識した。


 彼女は特務輸送船<大隅>の格納庫から、外の光景をぼうっと眺めていた。<大隅>の格納庫は開放式で、風通しがえらく良い。パナマの生ぬるい風が船内を吹き抜けていく。


 背後では整備兵たちが、忙しなく動き回っていた。自分だけ何もせずにいることに、少し後ろめたさを感じていたが、さりとて何かが出来るわけではなかった。


 いつもならば、この時間は船内の会議室の一室で授業を受けているところだった。小春は高等小学に在校しながら、軍属になった。本人と家族の希望で退校ではなく、停学扱いになっていたが、勉学を疎かにするわけにいかなかった。


 幸運なことに、彼女の周りには得難い教師がいた。


 理系の科目は、キールケが教鞭をとってくれた。彼女はドイツという最高クラスの技術国家で研究職についていた。何よりも、この世界で女性が高等教育をうけるうえで越えなければいけない障害を知り尽くしていた。


 文系は専ら本郷が担当していた。朝黒の中隊長は、教職の免許を有していたのだ。軍に入る前は、田舎の尋常小学校に赴任していた。彼の授業のときは、ユナモも机を並べていた。本郷は教職の経験年数こそ少なかったが、教えるのは上手かった。


 図らずも小春は、<大隅>にいる間に英才教育を受けていたのだ。


 しかしながら、今は一時的な休校期間となっていた。片方の教師がいなくなったためだ。


「キールケさん……」


 小春はドイツ人の才女を思い返していた。


 数日前、キールケの安否について儀堂から直接話をされた。最期の詳細は聞かされなかったが、二度と戻らぬ人になったことはわかった。


 儀堂の説明を受ける間、小春は現実から取り残されたような、夢の中にいる感覚になった。これまで知人を戦災で失ったことはあるが、あまりにも今回は突然で身近すぎた。


 儀堂は最後に一言だけ「すまない」と告げたが、その意味はわからなかった。ただ、困ったような、やりきれない顔を浮かべているのが印象に残り、「私は大丈夫」とだけ返した。


 今になって、あのとき私は心が麻痺していたのだと気が付いた。


 信じられなかった。


 儀堂のことではなく、キールケが死んだという事態が現実として認識できなかった。理性ではわかっているのだが、心がついてこなかった。


 あの先生は、死ぬような人には全く見えなかった。


 いつも気丈で、自身に誇りを持ち、そして前を向いて歩いている人だった。不意にいなくなるなど、小春の想定にはなかった。


「これが戦争……」


 昨日まで笑いかけてくれた人が、急にいなくなる日常。


 それが当たり前の日々。


 小春は本当の戦争を思い出しつつあった。彼女とて戦時下の日本で五年近く過ごしてきた。理不尽な思いもしたし、失ったものもある。しかし、今にしてみれば、それらは大したことではなかったのだろう。


 銃後の生活は無数の犠牲の上で成り立つものだった。


 その生活もいつ破られるか分かったものではない。五年前の東京BMのように、突然日常が悲劇に塗りつぶされても、何ら不思議ではなかった。


「よお、ここにたのか」


 不意に背後から話しかけられ、小春は振り向いた。


「兄貴……」


「参っちまうな」


 どかりと小春の横に戸張寛は腰を下ろした。


「こう、だらだらとしていると血が固まっちまいそうな気がする。やってらんねえぜ」


 ほらと横の床を戸張は叩いた。座れという意味だろう。小春は素直に腰をおろした。


 戸張は懐から酒保で手に入れたキャラメルの箱を取り出した。一粒だけ自分の分を取り出すと、箱ごと妹に渡す。


「ありがとう」


 受け取った妹の目は充血している。決して寝不足と言うわけではないだろう。


国産(モリナガ)だ。大事に食えよ。大西洋に出たら、なかなか補給も効かねえだろうし」


「うん……」


 しばらく外の流れる景色を見ていたが、おもむろに戸張は口を開いた。


「キールケさんのことは……残念だったな」


「うん」


「まあ、その、いろいろとあるが、気を落とすな。こういうこともあるんだ」


「……そうだね。あるんだね」


「ああ、そうだぜ」


 再び沈黙が訪れたが、長くは続かった。


「兄貴は。こういうときどうしているの? 今まで……私なんかよりも、たくさんの人がいなくなったんでしょ」


「ああ? 俺か……」


 はて、どうしていたのかと戸張は思った。


 はっきりと言ってしまえば、慣れていたのだ。初めて俺が戦友の死を見送ったのは……ああ、思い出した。真珠湾奇襲の日だ。その後は……ボルネオだったか。


「まあ、俺は生き残ったからな。だから、まあ、あいつらの分までがんばらなきゃなと思った。簡単にくたばってたまるかってな」


「……そうなんだ」


「ああ、だからまあ、お前も……がんばれ。俺の妹だから大丈夫だ。お前がやれることをがんばれ。キールケさんから色々と教えてもらったんだろ」


「うん」


「そいつを無駄にするなよ」


「……わかった」


 妹が微笑んだのを見て、戸張は少し安心した。


「兄貴」


「ああ?」


「兄貴って、えらいんだね」


「お前なあ、今さらか」


「うん……ありがとう」


「おう」


◇========◇

次回8月9日(月)に投稿予定

書籍化に向けて動きます。

まだ確定ではありませんので、

実現のために応援のほどお願いいたします。

(主に作者と作品の寿命が延びます)


詳細につきましては、作者のTwitter(弐進座)

もしくは、活動報告(2021年6月23日)を

ご参照いただけますと幸いです。


ここまで読んでいただき、有り難うございます。

引き続き、よろしくお願いいたします。

弐進座


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― 新着の感想 ―
こういう兄妹の描写、良い。
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