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「さて、こんなところでのんびり話していても仕方がありません。私としてもずっとこの世界にいるのはいろいろと問題があります。これでも邪神ですし」
「………………異世界に送るってこと?」
「はい。そういうことです」
ふわっ、と邪神を名乗る女性は指を振る。人差し指と中指を合わせ、簡単な剣か刀のような形にし、公也の足元に向けてすいっと切るように。
「っ!?」
邪神を名乗る女性がこの部屋に現れた時に驚くことのなかった彼であるが、さすがに自分の足元が無くなり床の感覚が消えれば驚くようだ。まあ、自分が落下していく感覚をいきなり自分の家で感じさせられれば驚かざるを得ない。女性が現れた時も異常でありえないことだが、それ以上にありえないこの世界の常識では起こり得ないことだ。
そして開いた穴は黒く、黒く、黒く、何よりも黒く暗く、何も見えない黒の穴。そこに落ちる彼は反射的に部屋の床に手を伸ばそうとして……そして届かない。穴の大きさは彼が入る程度で別にそれほど大きくはないというのに、彼は自分の体を黒い穴となっていない床へと向けることができないでいる。それは黒い穴の役割、彼を異世界に運ぶという役目を持った力によるもの。異世界に送る存在を問題なく異世界に送るため、きちんと穴の中を普通に通るように、黒い穴が自発的に彼にそのような作用を起こしているのである。
そうして彼は異世界へと送られることとなった。
「では、己の満足する人生を。あなたの欲、あなたの願い、あなたの想いの叶う生き方を。頑張ってくださいね暴食者」
その邪神の言葉を最後に、彼はこの世界においての最後の意識を喪失した。
「………………」
森の中、公也は寝転がっていた。つい先ほど彼は自分の意識を覚醒したばかりである。木々の隙間から見える青い空が眩しい。彼がいた部屋の中ではないことは明白であり、背中に感じる地面の感触が、周りに見える森の景色が、鼻に感じる植物たちの匂いが、明らかに彼がいた自分の部屋でないことを告げている。彼はいつの間にかこのような見知らぬ景色の場所に移動していた。
もちろん理由はわかっている。彼の部屋に現れた邪神を名乗る女性、その存在が行ったということを。別に部屋の中にいたことの記憶しかないわけではなく、女性が話したことやしたことに関しても彼は記憶している。だから彼はこのように横になっている。
やる気がしない、いきなりこんなところに送られてどうしろというのか、ここは何処だ、いろいろな思考が彼の中を逡巡し、活動する意気を減じさせている。いくらなんでも一番最初が森の中はどうなのだろう、と思うところだ。しかしいきなり街の中に送られた場合街中に突如出現した人間ということで話題になるかもしれない、もしかしたら怪しまれ投獄され拷問や処刑されるかもしれない、奴隷商人に捕まり奴隷として売られるかもしれない、怪しい何者かにいきなり殺されるかもしれない、いろいろなことが考えられる。そういう意味では森の中はまだそういった危険がないと言える。
もっとも、森の中には生物がいる。邪神は言った、魔物がいると。であれば森の中には獣に加え魔物もいて、確実に危険であるということがわかるだろう。そんな場所に何も持たされることなく着の身着のままで落とされればどうやって生きていけばいいのか。
「………………」
生きる事に関しては彼は特に問題ないと本能で感じている。食に関しても、魔物などに襲われた場合でも。それは本能的なもの、己の中に自覚する暴食者としての本能と力である。ただ、その力に関して彼は未だに正確な認識をしていない。なんとなく、本能的に察しているだけだ。
体を動かせることと同じ、息をすることと同じ、自然と瞬きをするように、自然に歩いたり握ったり跳ねたりできるように、その力を振るうのは彼が自然にできることである。ただ、それを実際に使っていない、まだそれに関して実際に見ていない。ゆえに正確な認識はできていないわけである。
「お前はこんなところで何をしている?」
「………………」
面倒くさそうに公也は声の主に視線を向ける。そこにいたのは結構な美人の女性だ。赤い髪の長髪で、肌は白い感じの外国風……公也から見れば外国風に感じられる人物だ。ただ、その奇異さは頭にかぶっているとんがり帽子、あるいは三角帽子、絵図で見かける魔女がつけているような帽子に、木を削って作ったらしい杖に、黒いローブ姿。彼女の姿を見たならば彼と同じ世界の人間ならば多くが彼女のことを魔女だという、そんな姿をしている。
「もう一度聞くぞ。お前はこんなところで何をしている? 答えないとどうなっても知らんぞ」
そう言って女性は杖を彼に向けてきた。流石にこのまま彼女が攻撃をして来るようでは困る、ということで公也は現在の事情について話し始める。その内容はこの世界の魔法が存在する住人にとっても少々荒唐無稽のような、異様で常識外の話だ。もっとも女性はその話に関して、いくつかの要因で信じることにした。まず公也の服装。彼の服装はこの世界にないものであり、その素材もまた見たことのないものだろう。縫製もそうだし、ついている品質表示を見ればそこに書かれている字を見ることができる。そうでなくとも服には何かの印のように字が縫われているのだから十分異様であることがわかる。公也の見た目に関してはこの世界では別に有り得ない見た目というわけではないが、それにしても珍しく、そもそも公也を見て推定できる実力の人間が明らかに森にいるにはおかしい。どう考えても戦えるようには見えないのだから。ゆえに信じるに値する、と女性は感じたわけだ。
「なるほど。それでお前はどうするつもりだ?」
「………………知らない」
「そうか。あちらに街がある。お前に生きるつもりがあるのならばそちらに行くがいい」
女性は公也から話を聞いたが、単に彼を怪しんだから詳しい事情を聞いたにすぎない。彼女は別に公也に関わるつもりはない。ゆえに彼に対して近くにある街の方角だけを教えて去るつもりだった。仮に彼女が彼を助けていれば、もう少し何かあったかもしれない。しかし残念ながら女性はこれ以上公也に関わるつもりはなかった。それはある意味で正しい行動だろう。人を救わなければいけないという法はなく、個人の良心と都合に任せられるのだから。
もっとも……それが彼女の運命を決める。
「そうか」
彼女の行動に対し、公也はたった一言そう呟いた。
次の瞬間、女性の上半分が消えていた。特に何かが起きた様子は見えないが、あえて称するならば、何かにばくんと上半身を食べられたかのように消えたのである。そして次の瞬間には下半身もばくんと食われるように消える。食われるように、と言ってもほぼ一瞬でよく見ている人間でも何が起きたかはわからない。物理的に口が現れたわけでも、食べる音がしたわけでもない。ただ消えたのである。
「…………糧にする。魔法使いっぽかったし、魔力を得ることができるのならありがたかった。知識も十分役に立つものだろうし。うん、おかげでこの世界のことがよくわかる……流石に全部を知っているわけじゃないみたいだけど」
公也は女性を食らった。その知を、その力を、その肉を、その命を。それは彼の糧に、それは彼の力に、それは彼の知に、それは彼の命に。
「悪いことしたかな? でも、生きるためだから。ごめんね」
女性を食らう、それはすなわち殺すということ。それに対し多少悪いとは思っている公也であるが、特別罪悪感は抱かない。もしかしたら、彼が元の世界でやっていたかもしれない事柄だからだろう。いずれやるなら今やろうとも構わない、いつかやるならいちいち罪悪感を抱いても仕方ない。それゆえに、彼は特に何も思わず、そうただ謝罪を告げるのみだった。
※はじめてのひとごろし。本人はこの時点では一切それに対する躊躇、罪悪感はない。しかし、この事柄に関しては後々に祟る。食事直後は全く影響しないのに胃とか腸とかに到達して初めて害になるような食物のように。