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「いや、いきなり殴ってくれと言われても……」
かなり困る話である。女性を甚振る趣味は公也にはない。いや、あったとしても想う相手にその手のことをするのはまた少し違うような気もする。サディスティックな気質でもあればまだしも基本的に公也は一般的な性癖である。色々と知識の面で言えば手を付けているところは多しい公也の性質上経験の知識を得たいという気持ちもないではないが、基本的に想う相手に意味もなく手を出すつもりもない。
いや、そもそもアリルフィーラの方から殴ってくれ、と言うのはどうなのか。
「思いっきり、顔を」
「場所の問題でなく。そもそもなぜそういう話になる……」
「…………キミヤ様なら『私』を受け入れてくれると思ったのですが」
「………………」
普段のアリルフィーラもアリルフィーラらしい部分である。しかしアリルフィーラの本質的な部分、本来の部分はまた少し一般的な観点からは外れている。それは今までずっと公也も見ていたものであり、普段から少しいろいろな場面で露出させているものでもある。公也がアリルフィーラに惹かれた……好意に至る前の興味を持つという部分において、一番のきっかけであるアリルフィーラの見せた表情。それの大本である物。
「…………俺は理由もなくリルフィを殴るつもりはない。なぜそうしてほしいのか、理由を言って欲しい」
「……私がそうしてほしいから、ではだめですか?」
「なぜそうしてほしいのか、理由はあるはずだろう?」
「そう、ですね…………」
自分を殴ってほしいなどという人間はかなり歪んだ性質を持っていることだろう。誰だって自分から傷つきたい、傷つくことを望む人間はそうはいないだろう。アリルフィーラはそういう点では管理ゆがんでいる。いうなればマゾヒスティックな性質を有している……少なくとも本人の言葉を聞くだけならばそう考えるべきだろう。しかしアリルフィーラの持つそれは少しそういったものとはまた違う。ある意味では間違っていないのかもしれないが厳密な言い方をすれば違うものだろう。
「…………キミヤ様は私のことを好きだと言ってくれました。私もキミヤ様のことが好きです。ですが今は私たちは立場の問題も当て一緒になることはできません。一緒にいられますけど、それだけです」
「まあそれは仕方ないこと……だと思うが」
「はい。だからこそ…………私はキミヤ様に刻んでほしいのです。私はキミヤ様のものであると。その証を」
「……………」
殴ること、傷つけること。確かに相手が自分のものであると証明するために刻み付けるという点で相手を傷つけるのはあり得ないことではないだろう。しかしそれを望むのは間違っている。しかも顔を殴りつけるのは常識的におかしい。それこそそういった方面は男女ならば……まあそういう方面になるはずだが、なぜそうではなく顔を殴ることなのか。まだそちらの方面であれば隠すこともできなくはない。もちろん立場上の問題で貞操はかなり重要なものだが、そのあたりは言い訳はなんとでもできるものではある。しかし顔を殴るというのははっきり見てわかるものであり、それこそ本当にアリルフィーラの立場を奪うものである。皇女としての立場は血筋も重要なものだが見た目が大きく変化する……それも醜くなるというのは問題は多いのではないか。
そもそも公也も見た目に関してはいいほうが好ましい。わざわざ殴って見た目を変えることを望むものではない。ただアリルフィーラとしては公也に思いっきり殴ってほしいと思っている。それは単純に公也に自分のものであるという証を刻んでほしいというだけではない。それこそ殴って醜くなるということにも彼女にとっては意味がある。価値がある。
いや、価値を失わせることにこそ意味がある。
「そして、私の価値を失くして下さい。私は皇女などと呼べない、呼ばれない、そんな価値の存在しないものにしてください」
それは今までも見たことのあるアリルフィーラの表情だった。普段は見ない、しかし見せることのある特殊な表情。特殊な事態にしか見せない表情。
「…………それがリルフィの望みか? 価値が存在しないものにしてほしい……それが」
「…………はい」
極めて歪んだ願い、性癖、想い。自分の価値を失うこと、自分の価値が失われること。自分の立場が高い位置から低い位置に落とされること。それがアリルフィーラにとって強い特殊な想いとして持ち得る者、一種の性癖として成立する物。
アリルフィーラの持つその性癖は一種のマゾヒスティックの気質に近い。しかし痛いことが気持ちいいわけではない。彼女のそれは壊されることが重要なもの。ただそれは人間として、というわけではなく性の部分でというわけでもなく。その立場、その価値、己が高いところにある、貴いものであること、それが低いところに落ちる、破壊され卑しいものになること、それが最も重要なものである。
おそらくそれはアリルフィーラが皇族として生まれたからこそ抱いたものだろう。一般市民だったとしても抱く可能性はあったかもしれないがそれを明確に認識することはなかったと思われる。他よりも高い位置にあるからこそ明確に自分の立場を認識し、だからこそそれが落ちること、下がること、低い位置に行くことを理解し受け入れることができる。
アリルフィーラが今までしてきた行いはその性癖が最大の理由にある。皇族として施しを行っていたのはただ人々に救いを与えたい、という理由ではない。それこそ彼女にとって民が救われること、そういうことを望んで行っていたわけではない。アリルフィーラが民に触れ合うことで皇族という高貴な立場から民に等しいところにまで落ちること、それが目的としてあった。ある意味でフォルグレイスの言っていたことは正しかったともいえる。アリルフィーラは自身の皇族としての立場、価値を下げることがその目的にあった。それが原因で暗殺されかけたのはある意味では仕方のないことかもしれない。
とはいえ、その暗殺ですら……最後に殺されるというときですら、彼女にとってはその自身の価値が落ちるという事柄に関しての最大のもの、自身の死によるこの世界からの自身の価値の喪失という大きなものがあったのだから。相当に歪んだ性癖である。
その性癖の名は破滅願望。とはいえ極端で周囲に迷惑をかける可能性の高いものではなく、自分がとことん落ちるところにまで落ちる、それを目的としたものである。ある意味では公也に嫁ぐということもまたアリルフィーラにとっては皇族からその立場が低いところに落ちる破滅願望の一種であるのかもしれない。まあ公也に対する想いは嘘ではない。
もっとも彼女の想いは結局のところそれに由来するところもある。公也の性質、暴食、それはどんな物事でも受け入れる性質が強いもの。自分のそんなところもまた公也は受け入れてくれるのだと彼女は共に過ごす間に感じたのだろう。あるいは普段から自分のすることや言うことを受け入れてくれたからこそか。まあ彼女が本当の意味で公也に想いを抱いたのはどのタイミングでなのかは不明だ。多少の想いは最初に助けられた時点で抱いていたかもしれないし、それこそ皇国で助けてもらったことが影響しているのかもしれない。
まあそんな話は今更だ。アリルフィーラは公也に想いを伝え、そして自分の持つ性癖もまた公也に対し公に見せた。まあそれを性癖として理解したかは怪しいところではあるが。
※傷物にされれば貰うしかないよね、と言う理由。
※本質的にはアリルフィーラのそれは破滅願望。自分の価値を貶め高い場所から低い場所に落ちる……そこに暗い悦びを覚える性質。でも別に何でもいいというわけでも、誰とでもいいというわけではない。まあ所々で少々表に出していたりもしたが。




