5 お昼ご飯と空飛ぶにゃんこ
昼休みになった。
重い瞼を必死で持ち上げて、黒板とノートに書き込む手と耳に全神経を集中させていた苦しい時間がやっと一段落ついた。まだ午後の授業が残っているが、一時的にでも解放された清々しさは凄まじい。一気に気が抜けて机の上に倒れこんでしまいそうだ。
そんな姿を周りに晒すわけにはいかないので、午前の授業が終わった途端、私はノート類を流し込むように鞄に戻し、お弁当の包みを掴むと動きの鈍い体を叱咤して中庭へと急いだ。
辛かった。たった3時間と少しほどだったが、眠気に耐えて机にかじりつくのは苦行だった。体育の授業がなかったのは救いだが、数学がつらかった。私は数学が苦手だ。単純な計算問題ならまだしも、文章題とか方程式とかグラフとか……ほんと苦手。ちなみに勉学に関して言うと『彼女』の恩恵はあまりない。『彼女』も勉強は得意ではなくて、良くてもこういうことやったことがあるような気がする、程度である。……本気で役に立たない。ゲームでの園崎蝶子は勉強も運動神経もヒロインの前に立ちふさがる悪役令嬢らしく非常にハイスペックだったので、私もきっと地頭は悪くないはずなのだけれど、元が『彼女』だからなのか。ちょっとでも授業内容を聞き逃したり、予習復習を怠ったら一気に落ちこぼれる自信があるから、毎日必死だ。ノートを取り逃しても、見せてもらえるような友達もいないし……。
……だめだだめだ。
考えたらちょっと悲しくなってきた。ぶんぶん頭を振って、残り少なくなったお弁当を口に運んだ。まだ中庭に来て少ししかたってないけどすぐに食べ終わる。早食いなわけではなくて、蝶子が小食でお弁当が小さいせいだ。基準は『彼女』だけれど、毎日よくこの量で持つなと自分の身体ながら思う。園崎家の料理人のお手製だから、栄養バランスはものすごくいいけれど。
今日はこのお弁当を食べ終えたら寝てしまおうかな。食べた直後の転寝は良くないけど、これだけ眠いんじゃ仕方ない。ということにしておこう。お弁当のふたを閉めて、大きな欠伸をひとつ。欠伸をかみ殺さなくていいってこんなに楽なことなんだ…。
なんて思っていたら小さく葉を揺らす音がした。
足元に現れたのは黒色の――、
「ぎにゃあ~」
「え、ギーさん?」
白いものの混じった黒い毛皮の大きな猫。昨日もお世話になった私の癒しのギーさんだ。私は目を丸くした。
中庭で会ったのは初めてだ。というか、自室のベランダ以外で会ったこと自体が初。いや、野良猫なギーさんがどこに現れたった不思議じゃないかもしれないけど。私の家と学校って歩くと一時間くらいかかるんだけど、猫の行動範囲ってそんなに広いの?
「ほんとにギーさんだよね。すごいね、猫ってこんなところまで歩けちゃうんだ。体力あるんだね」
「ぎにゃあにゃあ」
「お腹すいてるの? ごめんね、今ちょうどお弁当食べ終えたところで、あげられるものないんだ…」
近寄ってきたギーさんを膝に乗せてやる。頭や喉を撫でてやると、ゴロゴロ鳴らしていつもよりすり寄ってくる。あ、この甘え方はお腹すいてる時によくやるやつだ。普段あんまり自分からすり寄ってこないギーさんは、ご飯をねだるときだけこうやって全開で甘えてくる。どうしよう。お弁当はないし、お菓子も持ってない。でもこのままお腹すかせているのを無視するのも、可哀想だし…。……購買で何か買ってくる?
「ギーさん、ちょっとだけ待っててくれる? 今から何か……」
「あ、やっぱりここにいたんだね」
ギーさんを膝から降ろして立ち上がろうとしたら、また草木が揺れる音がした。
茶色い猫っ毛がなんだかデジャビュ。いや昨日見た光景だ。ほっと息をついた真鍋くんが昨日と同じようにそこにいた。
「探したよ、蝶子ちゃん」
え? なにか探されるようなことしたっけ? 私。思い当たる節がなくて軽く首をかしげると、困ったように眉を下げた真鍋くんが同じ方向に首を傾げた。あ、ちょっとかわいい。
「用事というか…、一緒にお昼ご飯食べたくて探してたんだ。休み時間もあまり話せなかったから」
あ。
あ、そっか。うん。
なんで私思いつかなかったんだろう。お昼ご飯。うん。全てのカップルがってわけじゃないけど、お昼ご飯を一緒に食べるのは少女漫画とかでよく見るやつだ。
「ご、ごめんなさい。お昼はいつも一人だったからつい……」
なんで気づかなかったの私。いくら眠すぎて早くひとりになりたかったからって。しかも真鍋くんは同じクラス。同じ教室内にいたのに、早々に一人でここに向かってしまった。そういえば授業の合間の10分休みも眠気を我慢するためにトイレに逃げ込んでいたんだ。誰とも話さない(話しかけられない)のがいつものことすぎて気が付かなかった。(真鍋くんは逆に朝のことを質問責めにされ過ぎて私に話しかけに行けなかったらしいけど、それはそれで申し訳ない)これはない。いくら経験がなくたって、恋愛ごとのソースが『彼女』が嗜んでいた少女漫画か乙女ゲームしかないからって。仮にもお付き合いしてるのに。
「しかももう食べ終わってしまったわ…」
「あ、ううん。いいんだよ。約束してたわけじゃないし。僕が蝶子ちゃんとご飯食べたいなって思っただけだから」
自分の恋愛レベルの低さにずーんと落ち込んでいると、真鍋くんは膝立ちのままの私の隣に腰を下ろした。
「今日はこのまま隣にいていいかな? あ、眠かったら寝ててもいいよ。昼休みが終わったら起こすから」
「ううん、ううん! 起きてるわ。それで明日は絶対一緒に食べるわ!」
「うん。蝶子ちゃんが嫌じゃなければ」
嫌なわけない。ひとりで食べるご飯より誰かと一緒の方が絶対においしいもの。嬉しそうに笑った真鍋くんを見て尚更そう思った。
「ぎにゃあ」
まるで自分を忘れるなと言うようにギーさんが濁声で鳴いた。そうだ、ギーさんのご飯!
どうしよう。ほんのちょっとだけ席をはずす?
「え。朔造じいちゃん?」
「え?」
「何してるの、じいちゃん」
「え? 真鍋くんギーさんを知ってるの?」
「ギーさん?」
真鍋くんは私の足元にいたギーさんをひょいと持ち上げた。私みたいに両手でじゃなくて、片手で首の後ろを掴んで持ち上げている。ギーさんって結構重いのに。力持ち。…じゃなくて。
「もしかしてギーさんって真鍋くんちの猫だったの?」
そういえば妙に人懐こいとは思ってたんだ。媚びて餌を獲得する野良猫の処世術だと思ってたけど、家猫だとしても納得。
「うん、まあそうかな。僕が生まれる前からうちの家族やってるよ。蝶子ちゃんはどうして知ってるの? もしかして学校によく来てたりする?」
「ううん。学校で会うのは初めてよ。でも私の家によく来るの。昨日電話で話してたのもその子よ」
現在高校二年生の真鍋くんが生まれる前からってことは、猫でいうとかなり高齢なんじゃないだろうか、ギーさん。いや朔造じいちゃんだっけ。その割にはすごく元気だけど。
「ああ、それで…。最近じいちゃんが太ってきて母さんが心配してたけど、蝶子ちゃんちでいいご飯食べてたからだったんだね」
「あ、ご、ごめんなさい」
「蝶子ちゃんは悪くないよ。むしろ悪いのは、食い意地張ってるじいちゃんだから。母さんが心配してるの分かってて黙ってたんだから」
「……それは猫だからしょうがないんじゃ…」
持ち上げられたギーさんは至近距離で睨まれて、まるで言い訳するようにしきりに濁声で鳴いている。なんだか一瞬、孫に怒られているおじいちゃんの図に見えたけど、いやいやそんな馬鹿な。
ガラス玉みたいな緑色の瞳がこっちを見た。助けを求められてるみたいな気がして、まあまあと宥めながら猫を奪った。
「あまりギーさ…、えっと、朔造を責めないであげて。私が野良猫だと思って餌付けしてしまったのがいけないの」
改めて抱えるとやっぱりちょっと重い。このくらい普通だと思ってたけど、どうやら私が太らせてしまったようだ。申し訳ない。人様のペットを勝手に餌付けはやっぱり駄目なことだよね。ごめんね朔造、真鍋くん。
不安定だったのか、一声鳴いた朔造が胸にすり寄って来たので、ぎゅっと胸に抱え直すと真鍋くんがぽつりとつぶやいた。
「反省してないな」
「え?」
「――タネも仕掛けもございません!」
苛立ったような声と共にぱちんと指が鳴らされた。と同時に腕の中がぽんと煙に包まれて…。次いで上から聞こえた濁声に驚いて顔を上げたら。
たくさんの風船と、括り付けられた大きめの籠。それが、猫を乗せてぷかぷか頭上に浮かんでいた。
「もう。ちゃんとご飯は家で食べるんだよ。母さんには連絡しておくからね」
「ぎにゃあ~」
「え、え、あれも手品なの!? あれ大丈夫なの、真鍋くん!?」
飼い主と会話(?)しながらも徐々に高度を上げて風に乗って離れていく籠入り猫。動揺する様子の一切ない一人と一匹を交互に見ると、真鍋くんは何でもないように頷いた。
「大丈夫。朔造じいちゃん、あれ慣れてるから。嫌だったら途中で手頃な木に降りるだろうし、むしろ自分の足で歩かずに帰れてラッキー、くらいに思ってるよ」
「え、そうなの…?」
そうなのかな…? 確かに見た感じ、全然慌ててない、…どころかくつろいでいたように見えたし、真鍋くんは猫に酷いことするような人じゃないし…なら大丈夫、なの?
「僕の家はここからそんなに離れてないから心配ないよ。それよりご飯食べるね。お腹すいちゃった」
朔造のことはちょっと気になったけど、真鍋くんがお弁当包みを開いて食べ始めたので、私もとりあえず脇に置いておくことにした。
寝てていいよ、と言われたけれど、起きてると決めた私に、真鍋くんは眠気覚ましになるかは分からないけどと言いながら、ぽつりぽつりと食べる合間に自分の話をしてくれた。
彼には弟と妹がいること。最近妹がキャラ弁をねだるのでお母さんが張り切って毎朝作っていること。それだけならいいが、そのキャラ弁の失敗作を自分や弟に持たせてくるので困っていること。確かに今食べているお弁当は、高二男子のものにしては妙に可愛らしい。デフォルメされた猫型のおにぎりが入っている。今日はまだましと言いながら、肉球型の人参を食べる姿に吹き出してしまった。
真鍋くんと話すのは本当に楽しい。楽しいのだけれど…。
――…まだ眠い。
眠い眠い言い過ぎた。いい加減起きろ私! と頭をぶんぶん振ってみる。でも駄目だ。この時間がつまらないとかじゃないのに。一対一でお話してるのに失礼過ぎる。たった一晩眠れなかっただけなのに、情けないぞ私! ぶんぶんぶんぶん首を振る。
「蝶子ちゃん」
「な、なあに真鍋くん」
「……ちょっとごめんね」
真鍋くんの、お箸を持ってない方の手が伸びて来た。
「え、え…!?」
「やっぱりちょっと寝ておきなよ。大丈夫、ちゃんと支えとくから」
この体勢は、逆に眠気が覚める…!
具体的に言うと、半身が真鍋くんの肩にもたれかかっている。右頬が真鍋くんの肩に触れていて、制服のシャツ越しに自分とは違う匂いや少し低い体温が感じられて、音を立てて体が固まったような気がした。
これ駄目なやつだよ。心臓がもたないやつ。
恥ずかしすぎて思わず目をぎゅっと瞑ったら、寝ることにしたと思ったのか、手を置いたままの頭を二度ほど撫でられた。眠れないやつだってば! というかなんて真鍋くんは平気なの!? 手をつないだ時も今も、何でもないような様子に見える。
「ま、真鍋くん食べづらいんじゃない? これ」
「大丈夫だよ。慣れてるから」
「慣れてるの!?」
「妹が眠い時によくこうやってくっついてくるんだよ。僕なら部屋まで運んでくれるからって」
「……仲良しなのね」
……妹さん、って、さっきまだ6歳だって言ってなかったっけ…。6歳児と同じ扱い。
……うん、もういいや。緊張するけど。恥ずかしいけど。眠気も一時的に吹っ飛んだけど。嫌じゃないから、ちょっとの間だけこのままでいいや。
「真鍋くんの妹さんが羨ましいわ。優しい、仲良しなお兄さんで」
「……蝶子ちゃんの家族は、今は仲良しなの?」
「うちは…」
父と母と兄の顔を思い出してみる。
ふふっ、と思わず笑みがこぼれた。
「うちも、仲良しよ」
父はどんなに忙しくても家族が眠る前には帰ってきて、家で母と一緒に眠る。母は最近レース編みにはまっていて、一緒に家用のショールを編んだりする。兄は普段はそっけないけど、休みの日は忙しい中勉強を教えてくれて、今朝だって心配してくれた。少なくとも人並みには仲がいい家族だと思う。
でもそれは、いつからだったっけ。
もう記憶が朧げな、はるか昔。家族はバラバラだったような気がする。
仕事ばかりで家に帰ってこない父、他所の奥様とのお茶会での見栄の張り合いに夢中な母、まるで私なんていないように無視をする兄。外でも家でもひとりぼっちで、泣いていたことがあるような。それを誰かに、相談したことがあったような。
「よかったね。蝶子ちゃん」
――蝶子ちゃん、って、前にも誰かに呼ばれてたような……
――誰に…?
―――キーンコーンカーンコーン…!
「あ、予鈴だ」
思考を遮るけたたましい音を聞いて我に返った。あれ、私いま何考えてた?
「……大丈夫? やっぱり保健室行く?」
「ううん…。大丈夫。大丈夫よ」
ゆるく首を振った。眠気は飛んでしまったから、とりあえず大丈夫。大丈夫だ。
お互いにお弁当包みを片手に持って、開いてる手が自然に繋がれたことに気づかぬまま、私は真鍋くんと教室に帰った。
本当に私いま、何考えてたんだっけ……?
実際書いてみると風船で飛ばすって酷いかなって思って、ボツにするか迷ったんですが、ギーさん改め朔造じいちゃんは気にしてないし普通の猫でもないのでそのままにしてみました。
普通の猫には風船を括り付けて飛ばしてはいけません(念のため)
お読みいただきありがとうございました。