3 月夜と猫と電話の向こうの貴方
『愛花』は乙女ゲームとしては結構王道的な展開のストーリーや設定だったように思う。攻略対象者は四人いて、それぞれ東西南北の漢字が苗字に入っている。キャラ設定も、愛に飢えた大企業の御曹司や、初恋をこじらせた女好き先輩、実は家が極道であることを隠す子犬系後輩、元幼馴染みで初恋相手の新任教師と、乙女が好きそうなキャラ設定になっている。ちなみに教師が一番攻略しやすくなっている。それってどうなんだ。そして全員攻略したら攻略できるもう一人は違う高校に通うヒロインの実兄だ。それもどうなんだ。……『彼女』は実兄ルートのストーリーを一番気に入っていたけれども。
何が言いたいかというと、真鍋くんは攻略対象者ではないということだ。それどころか『愛花』には一切出てこない。高校生レベルとはとても思えないほどの手品の腕前で、性格は温厚で、容姿だって大きな黒縁メガネで分かりずらいが、よく見れば美形だと言って差し支えないし、その上実は天下の鷹林家の親戚にして養子入りが決まっている。はっきり言って、攻略対象者ではないのが不思議になるレベルの設定の盛り込まれ具合だと思う。これでモブだなんて、これがゲームとリアルの違いというやつなのだろうか。
そんな真鍋くんと、悪役令嬢たる園崎蝶子が婚約だなんて、完全にイレギュラーだ。成立すれば確かに私の悪役回避の大きな一歩になるけれど、なんだかうますぎる話だと思う。
『園崎蝶子』は幼いころから東条蓮が好きだった。なのに、当の私は記憶を思い出す前から東条のことはクラスメイト以上には思っていなくて、好意的に思っていた真鍋くんには不安に押しつぶされそうになっていたタイミングで告白されて、代わりに婚約するのに申し分ない家柄だった、なんて。話がうますぎる。私に都合が良すぎる。何か裏があるんじゃないだろうか。なんて思ってしまうのは、けして前世からの通算30年ちょっとの人生で初めて彼氏(婚約者)ができたことに照れてるからじゃない。…からじゃないったらない。
……そういえばうちはいいとして、鷹林の方は園崎との婚約はいいんだろうか。いや、たしか東条家にも娘はいなかったように記憶しているから、これ以上に釣り合いのとれる家はないのだけれど。向こうの都合とか思惑とか色々あるだろう。勝手に決めて、養子になる真鍋くんの立場が悪くなったりとかしないだろうか…。
家に帰ってからずっと、ぐるぐるぐるぐる昼間の真鍋くんとのやりとりを考えていたけれど、「とりあえず叔父さんに頼んで話は園崎家に通してもらうね」と軽い調子で言っていた彼の言葉通り、実に簡単に、拍子抜けするほどあっさりと私達の婚約は成立した。というか父がものすごく喜んでいた。
園崎蝶子をそのまま男にして年を取ったような見た目をした父が、珍しく残業も会食もしないで帰って来たかと思えば、これまたものすごく珍しい上機嫌で私を書斎に呼んだ。私とどっこいな死に絶えた表情筋でも分かるくらい機嫌良い父は、言ってはなんだがとても不気味……怖かった。普段おっとりぼんやりしている母や腹黒な兄が書斎から出て来た私を心配して寄ってきたほどだ。
婚約は、各所への正式なお披露目は高校卒業後、それまでは両家間のみの内定という形になる。これはきっと真鍋くんの配慮だろう。私が彼を好きになるまでは形だけでいいと言っていたから、万が一私の気持ちが向かなかったときに、退路を確保してくれているのだろう。だが、父には「何が何でもあちらの気を引き留めておくんだぞ」と厳命された。今回の話をきっかけに何やら大きなプロジェクトも持ち上がっているらしい。
何はともあれノリノリな父を見るに、これで完全に東条との婚約の話はないだろう。無事にゲーム展開のフラグを、成立する前に木っ端みじんに出来たのだ。
これで一つ悩みが解消した。
けれど、私も自分自身で馬鹿だと思うけど、今回のことでもう一つ悩みが出来てしまったのだ。
「……真鍋くんに、明日どんな顔して会ったらいいと思う? ギーさん」
我ながらおめでたい頭だ。乙女ゲームがなんだ、婚約破棄で断罪フラグがとうんうん頭を悩ませていたかと思えば、それがすべて解決したわけでもないのに、目先のことが一つ解決しただけで、次に悩むのが、こんなことだなんて。…思うけれど、今この瞬間の私にとっては、とてもとても大事なことなんだ。
広い自室の、そのまた広いベランダで、私はネグリジェの上にカーディガンを着込んで月を見上げていた。目の前には一匹の猫。全体的に黒いのにところどころ白い毛が混じっていて、ドスンとした大きな体は貫禄がある。ビー玉みたいな緑色の瞳が、月の光しかない暗い夜の闇の中でぼんやり光っている。いちいち動作がゆっくりで穏やかな空気を感じる所から、なんとなく結構な歳なんだろうなと思うけど、実際のところ野良猫の正式な年齢なんてわからない。時々思い出したように私のベランダに餌をねだりにやってくるその猫を、私はギーさんと呼んでいた。鳴き声が「ぎにゃあ」だからだ。濁声である。
「ぎにゃあ」
「明日からは、一応、婚約者ってことになるんだもん。それに、学校ではお付き合いしてるってことに、なるわけで…真鍋くんが、彼氏……」
彼氏……考えると、頬に熱が灯る。だから、彼氏なんて初めてなんだってば。私も、『彼女』も。どうしたらいいの? どんな顔して会えばいいの? 私のことを好きな人に。
誰かに相談したい。でも誰もいない、家族にこんな話恥ずかしくて出来ないし、友達だって、そもそもいない。たまにやってくる野良猫に、赤い顔で恋愛相談する私は、さぞや滑稽なことだろう。でもいいんだ。だって笑う人なんてここにはいないもの。
ぼふり、と小さな衝撃が私の膝に当たる。外を出歩く野良猫の肉球は固いって聞いたことあるけど、ギーさんの肉球はちょっとしっとり感が少ないだけで十分柔らかかった。そのまま一回だけでなく、何回も私の膝をぽふぽふ叩くギーさん。
「…ギーさん……!」
「ぎにゃあ」
「ギーさん…!」
「ぎにゃあ」
「ギーさん…っ」
「ぎにゃあ」
「………ギーさんもしかしてご飯の催促してる?」
「ぎにゃあ!」
そうだね、そうだよね、食べるものに苦労してる野良猫なギーさんは、いつもここに餌をもらいに来てるんだもんね。ほーらまぐろのお刺身(晩御飯の残り)ですよーたんとお食べー…。
とりあえず、婚約してくれたことのお礼を言わないと、だ。それから、真鍋くんとたくさんお話しして、彼のことをたくさん知っていきたい。何が好きかとか、何が嫌いかとか。そういえば誕生日も知らないんだ。うん、話題はたくさんある、はずだ。
その時、部屋の中から音楽がなった。いきなりだったからものすごくびっくりして、思わず肩が跳ね上がってしまったけど、この音はアレだ、携帯の着信音だ。何だろう、こんな時間に。大体私が登録している番号なんて家族くらいなのに……と思って画面を見てみれば、そこに映っていたのは先ほどから思考を埋めている、『真鍋くん』の文字……――そ、そっか、そういえば番号交換したんだった。昼間のあの話の後。だから知ってるのは当然で、掛けてくることがあったっておかしくないのだ。
だから落ち着け、私。
「……は、はい。もしもし…」
『あ、園崎さん。今大丈夫?』
「う、…ええ。いいわよ。どうしたの?」
『あ、ごめんね。特別な用事があったわけじゃないんだ。ただ、声が聞きたくなって』
「………」
……この会話きいたことある。
そう少女漫画だ。嬉し恥ずかし恋人同士になったばかりの主人公とヒーローが、こんな会話するんだ。リアルでも本当にするんだ、こんな会話。すごく彼氏彼女っぽい。
どうしよう、頬が熱くなる。
まだ夜風が涼しい時期で良かった。冷たさを孕んだ風でほてりそうな頬を落ち着かせて、でも気分の高揚は風じゃ一向に収まらない。あまりにも落ち着かないから、まぐろのお刺身に夢中なギーさんの頭をなでなですることにした。猫とか犬とかって、食べてる最中に邪魔するのは良くないって聞くけど、ギーさんは好奇心で触っても怒ったりはしない。邪魔ではあると思うけど、どこ吹く風で食べ続けてそれどころかもっと撫でろというように頭を手に押し付けてくる。和む。アニマルセラピー最高、おちつくなー。
『今、何してたの?』
「ね、ねこと話してたの。よく野良猫が餌をねだりにベランダに来るの。真鍋くんは猫好き?」
『うーん。まあ好きかな。……でもちょっとうらやましいな』
「猫カワイイモノネ!」
『ううん。園崎さんと一緒にいる猫が、うらやましいなって』
「…………!」
カモン、アニマルセラピー!
私はギーさんの身体全体を撫で続けた。わしゃわしゃわしゃわしゃ。あ、ごめん、ギーさん、そんな嫌そうな顔しないで、逃げないで私の精神安定剤!
なんか甘くない? 真鍋くん。こんな人だったの。それとも仮とはいえ彼氏彼女…いや一足飛びで婚約者だけど…になったからなの。やめて耐性ないんだってば。もっとゆっくりでお願いします!
というかね、電話がこんなにどきどきするものだなんて今初めて知った。
耳に直接、声が、吐息が、少し抑えた笑い声が、そのまま届くのだ。まるですぐそこで囁かれているみたいで、どうしようもなく恥ずかしい。スピーカーにでも切り替えればいいんだろうけど、夜だし、外だし、なんだかちょっとだけもったいないような気もするし…。こうやって話すのと、目の前で会話するの、どっちが心臓に負担をかけないんだろう。
「そ、そういえば、婚約の話、お父さまから聞いたわ! 鷹林の人は行動が早いのね! 昼間話が出たばかりなのに、その日のうちに決まるなんて思わなかったわ!」
この早さには本当に驚いた。どちらも大きな家だし、もっとこう話し合いとか色々あると思っていたのに。高校を卒業するまでまだ一年以上あるから、その間にもっと話を詰めるのかもしれないけど、お父さまから話がきたのも「婚約の話が来た」、じゃなくて「婚約が決まった!」だったもん。イメージとしては、本人たちに話す前に両家の顔合わせがあったりとか…は私達が同じ高校のクラスメイトだから省略されたのかな、真鍋くんの叔父さんには多分そのうち正式にご挨拶に行くことになるんだろうけど…。
と思っていたら、真鍋くんが申し訳なさそうに言う声が聞こえた。
『ああ、それはね、……結構強引に話薦めてもらったんだよ。叔父さんには授業が始まる前にこっそりメールで話して。もともと好きな子がいるっていうのは言ってあったから』
真鍋くんにしては珍しく歯切れが悪い。目をそらして、指で頬を掻いている様子が頭に浮かんだ。
『……実は前々から、打診だけはそれとなくしておいてもらってたんだ。東条家からも話は来てたみたいだったから、園崎さんが東条くんを好きなんだったら諦めようと持ってたけど、そうじゃないって今日聞いたからね。横やりが入らないうちにと思ったら、ちょっと焦っちゃって』
きっとお父さまなら、話を聞いて一も二もなく即決したんだろう。だって鷹林だし。娘の嫁ぎ先としてこれ以上はないところだ。
でもそうか、東条家からも話は来てたんだ。……あれ? 私は首を傾げた。でも園崎蝶子と東条蓮の婚約は、完全に園崎蝶子のわがままじゃなかったっけ? 東条の家が落ち目になったタイミングで、資金援助を見返りに婚約者の座についたのだ。それまでは東条蓮は傲慢な園崎蝶子を嫌っていた。とても婚約を申し込むような関係には見えなかったけど…。ああでも、話はあくまで家同士のものだし、今の私はゲームの園崎蝶子のように傲慢でもない――はずだ。いや無表情でボッチなのは変わらないから、もしかしたら周りにはそう思われているのだろうか。だったら泣ける――から、そういう話が来てたって、きっと不思議ではないのだ。
電話中に気づいたら考えこんでいたらしい。それをどう思ったのか、真鍋くんは不意に真剣な声音で訊いてきた。
『――後悔してる?』
「え、なにを…?」
『婚約のこと。未来を回避するため、とはいえ、ちょっと強引に婚約の方向に話を持って行った自覚はあるから』
「後悔してるって言ったら、婚約はやめるの?」
――なんて可愛げのないことを言うの。だから今まで彼氏の一人も出来なかったんだ!
心の中で自分を罵倒するけれど、一度口から出てしまった言葉は戻せない。でもなんでか分からないけど、なんだかちょっとだけもやっとしたのだ。なんでそんなこと言うの? なんでそんなに申し訳なさそうに言うの? …それじゃまるで、この婚約が真鍋くんの我儘でしかないみたいだ。私は無理矢理押し切られたわけじゃない。不安なときに手を差し伸べてくれた彼の提案に乗ったのは、……まあ若干流された感がないわけじゃないけど、でも本当に嫌だったら、私はちゃんと嫌だって言えるもの。
………っていうことを、ちゃんとお口で言えばいいんですね分かります。分かりますけど言えないんだもん。思ったことを口に出すってすごく勇気いる!
婚約は嫌じゃないよって、後悔なんてしてないよって、どう言ったら伝わるんだろう。
「あ」とか「う…」とか、もはや言葉ではない音しか口から出せずにまごまごしていたら、電話口から小さく笑うような呼気が伝わって来た。
『まさか。頑張るだけだよ。言ったよね、好きになってもらえる様に、本気で頑張るって』
きっと電話口の向こうでは、いつものように笑ってるんだろう。穏やかで優しい声だった。不意に、私はこの穏やかな調子で話す時の真鍋くんの声が、すごく好きだなと思って、…思ったら、どうしようもない恥ずかしさが、急激に戻って来た。
どうしたらいいのか、どう返事をしたらいいのか、全然分からない。こんな時にはアニマルセラピー! とさっきからずっと逃げられないように膝の上に捕獲していたギーさんを撫でようと、手を伸ばしたら、その緑色の瞳がじっとこちらを見上げていることに気づいた。
じっと見上げてくる丸い目が、目が合った瞬間に三日月みたいになった。なんて思ったのは気のせい? でも確かににやにやしてるように見える。猫ってこんなふうに笑うものなの? 分からないけど、でも。
『そうだ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、なまえ……』
「わ、わ、私! もう寝るわ!」
『え? ああ、うんそうだね結構時間たってたんだね。ごめんね長い間付き合わせて』
「ぜ、全然、全然よ! 私も真鍋くんと話せてうれ…うれしかったもの! だ、だから、…えと…っ ……また、明日ね!」
『うん、また明日。――おやすみ』
「お、おやすみなさい……」
何か言いかけてた真鍋くんの言葉を遮ったことさえ気づかないまま、慌ただしく話を切り上げようとした私は、おやすみって言い合うなんてすごく恋人っぽい! とまた頬の熱が上がってしまって。にやにや見上げてくるギーさんの頭と言わず体全体をわしゃわしゃわしゃわしゃ、嫌がって逃げられるまで撫で続けた。
ああ、今日ちゃんと寝られるだろうか……。
お読みいただきありがとうございました。