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身体に鎖でも絡みついたように重い。
呼吸も思うようにままならない。
鬼王が纏っている威圧的な気迫が、張儀の身体に纏わりついたようだった。
「おおおおぉぉぉぉ」
こちらも気迫で押し返す。
そのつもりであらん限りの声を振り絞っていた。
呼吸だけは少しだけ戻ってきた。
しかし、身体は相変わらず重かった。
「若、参りますぞ」
祖信が横で叫んでいる。
しかし、張儀の目は前方から離すことが出来なかった。
黒い獣。
血で濡れている鬼の形相。
どう見てもこの世の者ではなかった。
「伍衛、祖信、行くぞ」
槍を天高く掲げていた。
馬の横腹を蹴ろうと足を挙げた瞬間、視界の端から何かが飛び込んできた。
紺碧の塊とそれに続く騎馬隊。
先頭の塊は通常よりも幅広で、分厚い環刀を頭上に掲げている。
そのまま鬼王に向かい、力強く振り下ろすのが見えた。
金属同士の衝撃音。
そして擦れ合う嫌な音。
二、三合打ち合ってからお互い離れた。
「ほう、蒼龍将か」
鬼王は嬉しそうにつぶやいた。
先頭にいた紺碧の塊は羅流将軍だった。
本陣の兵を率い、右翼へ増援として参戦してきていたのだった。
「最近の賊徒も中々に軍略等使うようだな。左右を入れ替え、そこから崩しにかかるとは」
鬼王はそれを聞いてにやりと笑っていた。
「滅多に会えぬ良い敵、楽しませてもらうぞ」
鬼王がそう叫んだのを合図に将軍に一気に突っ込んでいく。
周りの山賊達も、堰を切ったように将軍とその部隊を取り囲み始めた。
両手で打ちかかってきた鬼王の大刀を、将軍は片手ではじき返した。
「あまり舐めるな」
低く、そして鋭く将軍はそう言い放った。
包囲していた山賊達も、中々包囲しきれずにいる。
将軍についている騎馬隊が精強なためだ。
再び将軍と鬼王の打ち合いが始まった。
それは雷雲から零れ落ちる雷のごとく激しく、舞を舞っているように美しくも見えた。
戦場の真ん中で、二匹の獣が絡み合っている。
将軍の側近の騎馬隊と、包囲をしようとしていた山賊達以外は、誰一人として動けずに、二人の戦いを見守っていた。
「これは美味、貴様面白いぞ」
鬼王は終始笑っている。
対する羅流将軍は、普段とはまるで違う厳しい眼差しだった。
「さて、面白い戦いではあるが、お前にはあまり時間がない様だぞ」
羅流将軍の言葉と同時に、二人の打ち合いは一旦止み、一定の距離をとった。
鬼王が辺りを見回している。
張儀の後方から、鶴翼の陣で右翼を包囲しようとしている部隊があった。
おそらく本陣にいた残りの兵達だろう。
ここで、鬼王は少し考えるそぶりをした。
「まだ、やるかね」
後ろ姿でもわかるほど、羅流将軍の威圧感は凄まじかった。
「つまらん、退くぞ」
そう言うと、鬼王と山賊達は一斉に後退し始めた。
「流石に、悪くない退き際だな」
将軍は鬼王の後姿を見ながら笑っている。
羅流将軍はゆっくりと張儀に馬を寄せてきた。
「将軍、申し訳ございません。押し留まる事が出来ませんでした」
振り絞るような声でようやくそう発した。
「気にするな、お前はまだまだこれからの男なのだ」
将軍の瞳には、いつもの優しさが浮かんでいた。
「我等は本陣へ戻る。鬼王の追撃は無用。右翼はそのまま中央敵主力へと転進しこれを撃破せよ」
良く通る声でそう叫ぶと、羅流将軍は静かに本陣へと後退していった。
男が見ても惚れ惚れとする戦ぶりだった。
「さすが蒼龍将羅流将軍ですな」
伍衛はまるで自らの主君でも見るような目で交代する将軍を眺めている。
「確かに、だが我等の仕事はこれで終わりではないぞ。すぐに敵主力の横腹を突く」
負傷した部下はその場に残し、部隊を迅速にまとめて移動し始めた。
二百名いた部下は百五十程に減っていた。
鬼王を相手にしていた割に、被害は少なかったかもしれない。
それも羅流将軍の援軍があったればこそだった。
みな軽傷を負ってはいたが、むしろ先ほどよりも士気が上がっているのを感じた。
中央主力の賊徒との戦は今の時点でこちらが少し押している様だった。
「突っ込め」
鬼王の後退、予想外の所からの奇襲で、敵主力は浮足立っていた。
主力の賊徒とはいえ、鬼王の部隊に比べれば戦力に雲泥の差があった。
目の前にいる敵を次々に蹴散らしていく。
「若、油断めさるな」
伍衛は後ろでそう叫んでいる。
祖信の方も、近づいてくる賊徒を次々突き殺していっている。
張儀は目の前にいる騎乗の兵とやりあっていた。
槍をはじき返し、こちらが突く。
相手も上手くかわし、お互いの体制を入れ替える。
馬を返した瞬間のわずかな隙を、張儀は見逃さなかった。
気合いのこもった一撃で、馬上から突き落とした。
敵の身体が地面に着く前に、絶命していた。
「さらに押すぞ、ここが攻め時だ」
こうなってしまうと、一方的な戦になってきていた。
右翼の騎馬隊に貫かれ、最初に組んでいた陣などすでに崩壊してしまっている。
敵は潰走目前、武器を放り出して逃げ惑っている賊徒もいる。
気が付くと、張儀のすぐ近くに副将が立っていた。
「ご苦労でした、おかげでこの戦は勝ちのようです」
鋭い目つきのままだが、副将は馬を寄せつつそう言ってきた。
「左翼の方はどうなったのでしょう」
「先ほど伝令が届いて、どうやらほぼ決着はついているようです」
鬼王と入れ替わっていたのだから、左翼は農民の集まりだ。
正規軍の、しかも羅流将軍の強さとは比べるまでにないだろう。
今回の戦はこれでほぼ終わったとみていい。
「しかし、まさか右翼と左翼が入れ替わっているとは思いませんでした。賊徒の中に頭の良い者もいるようです」
将軍が言っていたことをそっくりそのまま口走っていた。
「その事なら、おそらく知恵を出した者はあそこにいる男だろう」
副将は前方にある小高い丘を指さした。
おそらくあの丘からなら戦場全体が見渡せるだろう。
位置が逆なら本陣を置きたくなるような良い丘だった。
その丘の頂上に、一人の男が立っていた。
鎧はおろか、軍袍すら纏っていない。
服装から見て、異民族の様だった。
髪を後ろにまとめ、腕組みをしながら涼やかな目で戦場を見つめている。
「何者です」
「わからんが、何度かあそこから伝令を飛ばしているのが見えた」
副将が言い終わるかどうかの時、男は踵を返して丘の陰へと引き返していった。
「今回はただの反乱とは少し違っていた。賊徒と農民がやけに連携していたのだ。その上鬼王まで参戦していた。普通ではありえない」
確かにその通りだった。
日々に不満を抱き、農民が蜂起することはあっただろうが、それに賊徒が加わるなど聞いたことが無かった。
しかも鬼王とかいう名の知れた山賊まで参戦してきていたのだ。
裏で絵図をかいている者が必ずいる。
それがあの男かもしれないのだ。
「張儀殿はとりあえず本陣へ戻られよ。賊徒の追撃は我等にお任せ下さい」
「お言葉に甘えます」
そう言うと、張儀は部隊をまとめて右翼方面へと向かい、負傷して動けない者を本陣へと運んだ。
祖信が難しい顔をしている。
「死者十二名、重傷者三十一名、軽傷者は残りの全てですな」
やはり死者は出ていた。
この小さな部隊である。
名前も顔も皆知っていた。
死んだのは今回が初陣の新兵ばかりだった。
「死んだ者には運がなかったと、諦めるのも指揮官の務めです」
伍衛が張儀の肩に手を置きながらつぶやいた。
「わかっている、だが私の指揮次第では死者はもっと減らせたと考えるとな」
その可能性は大いにあっただろう。
「ならばさらに精進せよ。今回の事も次への糧にするのだ。そうすれば死んだ部下達もうかばれるであろう、と御父上ならば言われるでしょうな」
伍衛も決して平気なようではなかったが、気丈にそう言ってくれていた。
「若、我等の部隊は今始まったばかりなのです。今日死んだ部下を忘れず、明日を生きましょう」
祖信も頷きながら伍衛の話を聞いていた。
「天都に戻ったらさらに調練を重ねましょう。厳しい調練になるでしょうが、その経験が戦場で兵の命を救います」
その通りだ。
羅流将軍並の調練が必要なのだ。
「もうよい、わかった」
張儀はそう言い、ぎこちない笑顔を二人に向けるのが精一杯だった。
「張儀殿、伍衛殿。祖信殿、羅流将軍がお呼びであります。幕舎へとお越しください」
呼びに来た兵に先導され、三人は幕舎へと入った。
「ご苦労だったな張儀、生きていて何よりだ」
羅流将軍は床几に腰かけ、将校は将軍を囲むように立っていた。
将軍の横には副将も控えている。
「大した働きも出来ず、お恥ずかしい限りです」
張儀達は跪き、そう応えた。
「いや、初陣にしてはよくやっていたと思う。鬼王相手にその場に留まれただけでも中々だった」
鬼王、あの形相は忘れられそうにない。
「鬼王は撤退し、農民たちも散り散りに村へと引き返したようだ。賊徒は追撃で大半を討ち果たしました」
副将がそう報告した。
「鬼王か、中々に手ごわい男だった」
羅流将軍が認めるほど、鬼王は強かった。
おそらく今の張儀の腕では二合と打ち合っていられないだろう。
「将軍、先ほど丘にいた男なのですが」
副将が将軍の方へと身体を向けて、改めて言い直した。
張儀もあの男は気になっていた。
「どうやらあの服装、ラダの者の様です」
「ラダ、東方の辺境ではないか」
ラダ、聞いたことが無かった。
「将軍、ラダとは何です」
「ここよりも遥か東方にある宗教国だ。一応天陽の属国ということになっているが、あまりに離れているためにほとんど交流は無い」
そんな国があることも張儀は知らなかった。
「大僧正が治めるあの国では、軍など持ってはいないはずでしたが」
「軍はいなくとも、賊徒への入れ知恵が出来る頭の良い男がいたのだろう。今回は危うく策に乗りそうになってしまったがな」
「右翼と左翼を入れ替えるですか」
「そうだがそれだけではなかった様だぞ。鬼王を中心として右翼から攻勢をかけ、そのまま本陣へと攻め込む算段だったのだろう。その証拠に左翼の農民達は防戦のみに徹していた様だったのだからな」
確かにあの突進力ならばそれが可能かもしれなかった。
「将軍が本陣から出られて向こうも計算が狂ったようでしたな。攻勢をかけるはずの鬼王が撤退した後、残った農民と賊徒の士気は一気に落ちました」
将校の一人がそう発言した。
おそらく左翼を任されていた将校だろう。
「本陣からはよく見えたのだが、右翼の動きは確実に陽動だった。上手く誘い込んでいるのが今になると解る。後から突っ込んだ騎馬隊と張儀の隊からはそれがわかったのではないかな」
急に話が振られ、張儀は言葉に詰まった。
「突撃した時、やんわりと受け止められたような感触でした。おそらく想定内の突撃だったからでしょう」
「だろうな。思わず私も本陣の兵を伴って戦場に介入してしまっていた」
「しかし、一つ間違えば本陣に敵が雪崩れ込んでいたかもしれん。鬼王の力を見込んだ上での作戦だろう。中々に知恵がある」
副将がうなっていた。
「張儀が一歩も退かずに押し留めていてくれた。おかげで私が間に合ったのだから、大した胆力だ」
将軍は嬉しそうだったが、張儀の心中は複雑だった。
一歩も下がらなかったのではなく、動けなかったという方が正しい。
「動けなかっただけだとでも思っているのだろう」
張儀は顔を上げた。
心を見透かされたと思ったのである。
「怯懦な者は後ろに退いてしまう。しかし、お前は声を上げながらその場から動かずしっかり押さえてくれた。勇無き者には出来ぬことだ。自信を持って良い」
思わず涙が溢れそうになるのを張儀は必死にこらえていた。
「さらにお前は前に出ようとしていたな。私にはそれが見えていたぞ」
副将が一歩前に出た。
「初陣とは思えぬ戦いぶり、見事でした」
「ありがとう存じます」
張儀は頭を下げていた。
伍衛と祖信の鼻をすする音が後ろから聞こえている。
「ラダの者については、今後探らせることとする。明日には陣を払い、東陽へと戻る」
一同の返事でその場は解散となり、張儀は部隊の帰り支度に取り掛かった。
歩けぬ重傷者は輜重に乗せていくとして、死者の埋葬を始めたのだ。
野ざらしにすることもあるが、新兵達を動物の餌にはしたくなかったのだ。
かつての同朋を惜しむ鳴き声も、穴を掘りながら聞こえてくる。
「我等の初陣は勝利で飾れたが、無念な事に死者をだしてしまった。彼等の死を無駄にせぬため、天都に戻ってからはさらに調練に打ち込む。皆、胸を張ってかえろうぞ」
伍衛が大声で皆にそう伝えた。
本来ならば張儀がやるべき事を、伍衛は教えてくれているのだった。
生き残った新兵達は、皆顔つきが変わっていた
男が漢に変わった様だった。
たった一回の戦で、男はこうも生まれ変わる。
いずれ自分も羅流将軍のような威厳を身に着けられるだろうか。
あのようなぶつかり合いを、何度となく経験しているからこそ、あれほどの大きさを感じるのだろう。
戦や、ここに至るまでの道中目にした村々の事など、皇太子殿下に伝えられることは多そうだった。
得たものは少なくない。
張儀はそう思いたかった。