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外城壁の外の形式は、内部とはまるで違っていた。家々の壁は白く塗られた物ではなく、まるで土を塗り固めたように茶色で、一軒一軒が離れてもいなかった。屋根は茅葺で、瓦が乗っている家などほとんど無かった。張儀はまるで別世界にでも迷い込んでしまったような気分になった。
店は店内だけでなく店外にも椅子が卓がおかれ、客層も商人や役人などではなく、旅人や仕事を終えた農民が多い様だ。張儀は何軒かある店の中で、客は多いがそれほど綺麗ではなく特徴のない食堂に入ってみた。
奥の調理場で働いているのは店主らしく、汗だくになりながら忙しく鍋を振っている。店主の嫁とおそらく娘らしき女二人が、客への配膳をしていた。
「この店でよく出る料理を一つ、後は酒を一本」
小気味良く返事をし、娘が奥の店主へと注文を伝えに行った。
夕食時という事もあり、店は多くの客で賑わっていた。張儀の様な一人客も少なくは無く、大声で笑いながら飯を食う者、何かを相談している風情の旅人、一人静かに食事を楽しんでいる者など様々だった。
改めて張儀は自分の服装を見て、少し浮いていると感じていた。一番地味な服を選んで着てきたつもりだったが、それでもこの食堂の中では立派すぎる。やや場違いな雰囲気ではあったが、今さらどうする事も出来ないので、大人しく注文した物を待っていた。
「へいお待ち」
店主の嫁が料理と酒を運んできた。煮た豚肉の下に茹でた野菜が敷いてあり、張儀が今までに食べた事のない料理だったが、香りがよく美味しそうだ。箸をつけてみると豚肉は柔らかく、甘辛いタレが茹で野菜の方にもたれていて実に美味い。上等では無いが、酒にもよく合っていた。
張儀はゆっくりと食いながら、周囲の声に耳を傾けてみた。
「やはり天都は違いますなあ。なにより人が多い」
「最近は行商をしとっても野党に襲われた話をよく聞きますなあ」
「野菜の売値が下がってるな。このままじゃ冬の生活が厳しくなっちまう」
それぞれに話声が聞こえてくるので、話がまるでまとまらないが、民はそれなりに日々を暮らしているらしい。国への怨嗟というほどの声も、まるで聞こえてこなかった。酒を一本飲み干すと、なぜか別の酒が卓におかれた。
「お役人様、こちらは店主からの気持ちでございます」
表面上だけの笑顔を張儀に向けながら、店主の嫁が飲み干した酒瓶を片付けていった。
役人・・・、身なりでそう思われたのだろうか。店主が要らぬ気を回す。そうでもしなければ目をつけられて商売がし辛くなるのか。
張儀の勝手な想像ではあるが、当たらずとも遠からずだろう。
そう思ってみると、周囲の客も心なしか張儀を気にしている感じがする。
残った料理を口に放り込み、店主の気持ちとかいう酒で一気に流し込んだ。
「女将、代金はここへ置くぞ」
張儀は料理と酒二本分の金を卓の上にやや乱暴に置き、急いで店を出てきた。
勝手な話だが、張儀は一刻も早く逃げ出したい気持だった。
「何のためにここまで来たのか。これでは何の意味もない」
一人で呟いてみたが、結局民の中で浮いてしまう自分がいけないのだ。天都とはいえ、ここは張儀の知る世界の外側である。一番地味な服を着ていても、自分は浮いてしまう。むしろこのくらいの身なりなら周りに溶け込めると勝手に思っていた自分自身の無知を恥じ入っていた。
周りの客や店の者は、張儀が役人か何かだろうと思っていたのだ。だから当たり障りのない話題に終始していたのだ。下手に国への不満等言おうものなら即拘束されてしまうのだろう。
皇太子殿下が御心を痛められているのに、民の目線に立つ事すらできない。そもそも民の目線などと思っている事自体、上から目線の証拠であった。
民がいてこその国、その御言葉がとんでも無く重く張儀の心に圧し掛かってくる感じがした。その日は落胆したまま、屋敷へと戻り部屋に閉じこもってしまった。
訓練場に張儀が入ると、すでに訓練は始まっていた。駆けている者、素振りをしている者等、各々が訓練に精を出している。
「伍衛、皆を集めてくれ」
言われた伍衛が大きな声で集合を命じる。伍衛の声は大きく、訓練場の隅々にまでよく通った。兵士達がすばやく自分の前に集まってくる。
「先日、帝が我等に御下命された。東陽東部にて賊徒が横行しているという。東陽より、羅流将軍が討伐に出られるが、我等はその援軍に抜擢された」
皆感激の声を上げている。帝直々の御下命など、そうそうある話ではない。
「出立は準備が出来次第という事だが、直々の御下命である。一刻も早く出立しようと思っている。皆よく準備しておくように」
脇に控えていた祖信が一歩前に出た。
「大変な名誉だ。皆命を惜しまず、武功を立てようぞ」
部下一人一人に火がついたように空気が引き締まるのがわかった。
「では、皆訓練に戻れ」
訓練場は、いつにも増して活気づいていた。
「しかし妙ですな、羅流将軍と言えば、東陽付近では敵無し。わざわざ援軍など必要無さそうなものですが」
祖信が首をひねりながら呟いた。
「確かに。だが我等もただ天都にのみ駐留していては実戦も経験出来ない。部隊にとってはむしろ良い事だと思うぞ」
張儀は心配そうな表情の祖信の肩に手を置きながら言った。
「若は初陣こそ経験されていますが部隊の指揮は初めて。しかも羅流将軍と共に戦えるのであれば得るものも大きく、正に一石二鳥ですな」
伍衛は久々の戦にやや興奮気味の様だった。
よくよく考えてみると、確かにこの度の出陣は少々妙なところもあった。
そもそも将軍であった父の軍を引き継いだとはいえ、部隊の大半は若い新兵である。父の代から仕えている部下の二男三男が多く、実戦の経験などまるで無い。
一般的には勝敗が決まった後の戦後処理も兼ねて戦場を見まわったり、討伐軍の輜重隊の護衛などを務めるのが普通だ。
しかし、今回はいきなり賊徒を討伐する東部第一の将軍の援軍なのだ。ありえない話なのである。
「それだけ若が期待されているという事です。部隊の名を汚すような戦は出来ませんぞ」
伍衛は鼻息も荒く、そう息巻いていた。
「それで、出陣はいつに致すつもりですか」
祖信は部隊の食糧や武具の管理を一手に引き受けている。しばらくは大分忙しく走り回らなければいけないだろう。
「皆士気が上がっているからな。このままの状態を維持したい。三日後には出発しようと思う」
祖信は早速準備のための費用や残りの時間などを計算し始めている。
「腕がなりますなあ」
伍衛は両腕をぐるぐる回しながら、若い兵の相手をしに訓練場の真ん中へと歩いて行った。
期待等されているわけがない。張儀は自虐的ながらも確信していた。父が将軍だったとはいえ、初陣の後に何の手柄も立てていない自分の部隊に誰がどんな期待をするというのだ。文官の中には、親の七光りの御坊ちゃん部隊で、何の役にもたたぬ金食い虫だと陰口をたたいている者もいるらしかった。
皇太子殿下が重臣の面々に口をきいてくれたのか。現実的にはそれが一番ありそうな話だった。民の声を聞く耳、民の姿を見る目になって欲しいと頼まれていたのだ。だが、いくら皇太子殿下とはいえ、そんな権限があるはずもなかった。
張儀の部隊に割り当てられている訓練場の脇の執務室でそんな事を考えていると、帳面を広げてぶつぶつと何かを言いながら祖信が入ってきた。
「おお若、何をしておいでです」
「いや、少し考え事をな」
祖信はそれを聞いて少し笑いながら張儀の隣へと座った。
「初めての戦らしい戦ですからな。色々と悩むのは無理もないですが、皆の前では堂々と胸を張っていて下され」
祖信は張儀を心配しているのだろう。
「それほど悩んでいる風には見せていないつもりだが、そう見えるか」
「いえいえ。しかし、指揮官の動揺は部下の兵に伝わりやすいものです。何があっても動じない指揮官の下では、兵も安心して戦に集中出来ますから」
なるほど。さすが部隊の母親代わり。兵たちの心の動静をよく見ている。
「そういえば、羅流将軍とお会いできるのも随分久しぶりですな」
東部最強の羅流将軍と言えば、この国で知らぬ者は居ないほどの大将軍だった。父とは歳も近く、お互い新兵の頃から親しく付き合っていたそうだ。武科を受けず戦場に立ち、幾度も功名をたてて将軍にまで上り詰めた数少ないたたき上げの武人だった。
天陽国には依然大将軍と呼ばれる者が五人いた。張儀の父はその一人で中央の要である天都防衛を任されている禁軍の大将軍だった。その天都を取り囲むように東西南北の大都市、四陽都があった。東陽、西陽、南陽、北陽にはそれぞれに将軍が赴任していた。通称四龍将と呼ばれている国家鎮護の大将軍達だ。羅流将軍はその内の東陽を担当している蒼龍将だった。
東陽東部は天陽国の中でも特に辺境で、中央の目も中々届かず、賊徒が集まりやすい場所だった。四龍将が担当している地域以外にはそれぞれの地を治める役人がおり、地方軍と呼ばれる軍を保持していた。
しかし、噂では地方の内部は腐敗が激しく、役人も賊徒とそれほど大差の無い輩もいるらしい。時々中央の天都から監査の役人などが僻地へ赴いたりもするらしいが、豪華な宴会や賄賂などでうまく丸め込まれる者も多いと聞いた。
「父の葬儀の時にお会いしたのが最後だ。もう三年になるか」
気の良い親爺で、上背はそれほどないものの幾多の戦場で鍛えられたであろう分厚い身体が印象に強く残っていた。
「準備の方はどうだ。三日でいけそうか」
「正直厳しくもあるのですが、そこを何とかするのが私の役目ですので」
祖信は笑いながらそう言うと、また忙しそうに執務室から出て行った。
考えていてもしかたがない。
苦笑しながら、張儀は自分に言い聞かせた。
武術師範からの指導といつも以上に厳しい訓練、その合間で出立の準備と多忙な張儀は、あという間に三日という日にちを消化していった。
祖信の手配に慰労は無く、編成も騎馬五十騎、歩兵百五十人と決まった。騎馬隊以外の騎乗は張儀と祖信、伍衛の三人のみである。東陽までの道のりは七日の予定で、それぞれが兵糧を持ち、足りない分は自分で調達するつもりでいた。
東陽から東については東陽軍から物資を受け取る手はずになっていた。
「いよいよ明日早朝の出発である。私が指揮する部隊としては初戦となるが、皆の命を預かる者として最大限の努力は惜しまぬつもりだ。皆も私に力を貸してほしい」
出発前最終日の訓練の後、張儀は部下二百名を集めて語りかけていた。皆普段にも増して表情が引き締まっている。
「家族が要る者は一時の別れを惜しんでこい。友と語り明かしたい者もいるだろう。だが、明朝遅れてくる事の無いようにな。軍令に照らし合わせて棒打ちを喰らいたいなら別だが、私も戦の前に皆に怪我をさせるのは本意ではないからな」
くすくすと笑っている部下もいるようだ。程よい緊張感と気持ちの余裕。前日の雰囲気としては悪くない。
「では、解散」
部下達はそれぞれの家路に就いた。
「では我々も屋敷へと戻りましょう」
伍衛はやや疲れた様だった。この三日間、普段では考えられないほどの訓練を指揮しながら、若い兵たちと共に駆け続けていたのだ。老練な武人とはいえ、祖信と伍衛も五十間近だった。
「若と伍衛は先に戻っていてくれ。私は天都宮に書類を提出しなければならんのでな」
祖信は天都宮へと向かい、張儀は伍衛と供をつれて屋敷へと向かった。
「若、いよいよ部隊の指揮ですな。何かあった時は私も祖信もおりますゆえ、安心して采配してください」
「そのつもりだ伍衛。一応軍略についても師範から一通りの事は学んだが、いたらぬ事もあると思う。そんな時は遠慮なく叱責してくれよ」
夕暮れの天都、張儀と伍衛の影がやや長く伸びている。
「御心配には及びません。若には亡き御父上の血が流れております。御父上はそれは見事な士気をしたものですぞ」
「もっと共に戦場に立てればよかったがな」
「今はそれを言っても是非も無き事。御父上も無念でしたでしょうが、今の若の姿を見れば、安心されるでしょうな」
父は将軍としての力量が高かった。武技だけで見ればおそらくそれほど大した強さは無かったように思うが、軍略が得意で数万を率いて戦場を縦横無尽に駆け回っていたらしい。
戦は頭でするものだ。だが実際兵は戦場で血を流している。自らの一挙手一投足の重みを決して忘れてはならぬ。
幼い頃、張儀はよく父にそう言われたものだった。
「伍衛に心配はかけられぬ。早く隠居できるように私がしっかりせんとな」
言われた伍衛は嬉しさ半分、驚きが半分のような顔をしていた。
「私が隠居など、まだまだ遠い先の話でございます。それに隠居などしたら、誰が若の夜中の厠に付き添うのですか」
「それは随分昔の話だろう。とうの昔から厠など一人でしかいかんわ」
遠くの夕日に伍衛の笑い声が響いている。
そういえばまだ小さい時、父の屋敷を訪ねて共に食事をしていた伍衛や祖信がそのまま泊っていく事が多々あった。
張儀は夜中に厠に行くのが怖く、かといって父に付いて来てくれとは言えなかったので、よく伍衛に付き合ってもらっていたのだった。
伍衛はいつも嫌な顔一つせず、張儀のそばで時には手を引いてくれた。
思い返してみると、子供の頃から伍衛と祖信には世話になりっぱなしだった。
出来る事なら自身が早く出世をして、二人に楽隠居させてやりたかった。
伍衛は嫌がるかもしれないが、家の事を祖信に任せてしまうと、きっちりしすぎていてやや息が詰まってしまう。伍衛くらいの大雑把さが調度良く、心地が良かった。
「若、本日は酒を共にいたしますかな」
「いや、やめておこう。伍衛に付き合うと私自身が明日の朝棒打ちにされてしまいそうだ。お主もほどほどにしておいた方がよいぞ」
「これは若。一升や二升で酔いつぶれる伍衛ではございませんぞ。若ももっと酒を飲めるようにならないと」
確かに伍衛は酒が強い。まったくの下戸である祖信とは真逆だった。
「古来より強い武人とは、酒豪が多いものにございます。御父上も酒がえらく強かったものです」
父の酒好きは凄まじく、深夜まで飲んでも翌日平気な顔で軍務についていた。下戸な祖信もよく付き合わされていて、記憶が消えるなどしょっちゅうだったようだ。
「手柄をたてるぞ、伍衛」
「はっ、この伍衛全身全霊をもって、こ度の戦にいどみまする」
手柄だけでなく、民の実情をつぶさに見てくる。皇太子殿下との約束を守らねばならん。
出発は明日。沈む夕日が再び昇る頃、張儀は武人として、戦人として、軍人として、そして皇太子殿下の臣下としての人生が始まるのだった。