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天陽大乱  作者: 一夢庵豊玉
第一章 全ての始まり
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 響き渡る掛け声と地を踏みならす兵士たちの足音。夏の終わりとはいえ、訓練場はまだまだ暑かった。そこここに兵士たちが流した汗が水たまりになっている。

張儀は訓練場の真ん中で、一人の兵士と訓練用の棒で対峙していた。

「交代いたします。さすがにこの歳になると若の稽古の相手も一人ではやや疲れますな」

やや年嵩の兵士が軽く息をあげながら手拭いで顔を拭いた。

「なさけないぞ祖信、この程度の稽古で若よりも先に音を上げるなど」

「昨日は先にお前が音をあげたのだぞ伍衛、もう忘れたのか」

この二人の会話を聞いていると、稽古で疲れていても思わず笑いがこみあげてくる。


張儀の父は天陽国首都、天都に駐屯している皇帝陛下付きの将軍だった。今の皇帝陛下になってから大きな遠征は無かったものの、先代の皇帝の頃から仕えていた父は、陛下からの信頼も厚く、厳格な性格も好まれて首都防衛の禁軍の将軍を任されていたのだった。

しかし三年前に急に病を得て、一月もたずに亡くなってしまった。当時十八歳だった張儀は父の家督を継ぎ、父の部隊の一部である二百名を率いる事となってしまった。

実践の経験は無く、さすがに年齢が若すぎる事もありいきなり将軍職を継ぐことは無かったが、それでも父を慕っていた部下を預かる重責を急に任されたことで、張儀は当時かなり困惑していた。

父が亡くなった一年後に後を追うように母も無くなり、親類は文官を目指していた弟一人となった。家族が減ったことで広かった屋敷が更に広く感じられた。やることは山積みなのに何から手を付けてよいかわからなかった時、懐かしい顔ぶれが屋敷を訪ねてきてくれた。伍衛と祖信である。

この二人は新兵の頃に父の部隊に配属され、その後常に寝食を共にしながら仕えてくれていたのだ。父が禁軍の将軍に昇格した時に二人揃って副官になり、父を支え続けてくれていた。おもらく父が携わっていた軍務に関して、この二人以上に理解している者はいなかっただろう。

「亡き父上への恩返しのため参上致しました。父上の頃と同じく若を支えたく思います」

二人がそう言ってくれた時、張儀は心の底から救われた気がした。そのまま二人は張儀の屋敷へと住む事になった。

二人とも古株の武人で、父の部隊でもよく下の者から慕われていた。

伍衛はやや口うるさいところがあるが、細かい所によく気が付き、兵站管理から部隊の補給品の発注まであってくれていた。忙しい忙しいと呟きながらうろつくのが日課となっている。以前は妻がいたが流行り病で無くなり、子供がいなかったのもあって再び妻を貰おうとは考えていない様子だった。

一方祖信はおおらかで気のいいおやじといった雰囲気で、部下の悩みやら故郷の話やらをよく聞いていた。飯を作るのが上手く、郊外での野外訓練の時などは、若い兵たちに交じって一緒に食事を作ったりしていた。伍衛と違って妻帯しており、子沢山だった。男女合わせて子が七人。屋敷に移り住んできたときには一気に家族が増えて、しばし唖然とした程だったが、屋敷内が賑やかになるのは大歓迎だった。張儀にとっても部隊にとっても、伍衛が父、祖衛が母の様な存在になっていた。


 幼いころからある程度の武術を習ってはいたが、部隊を率いるのがこれほど早くなるとは思っていなかった。大きな戦は少ないが、部下の命を預かる以上、他の誰よりも強くなる必要があった。父以外に師と呼べる存在がいなかったため、伍衛と祖信から剣や槍、弓に馬術、戦術に至るまで教えてもらっていた。


 天陽国には武官試験である武科と文官試験である文科があり、一兵卒から始まる軍務も、武科を通ると下級将校から開始する事が出来る。現在将軍職に就いている者達も、一部例外を除けばほとんどは武科を通過した者たちであり、この国で武を生業として生きる者たちの憧れでもあり、登竜門的存在でもあった。

中には役人の息子等が金にものをいわせて裏口で試験に挑む事もあると噂されていたが、それでも実力が伴っていないと落ちる人間もいる程の高い壁だった。運よく受かったとしても、生え抜きの軍人達からは白い目で見られるらしい。己が力や技を磨いて武科を受かった軍人にとって、裏口で合格する役人の小倅など面白いわけがない。

張儀は昨年二十歳になった直後に武科に合格していた。

武科に合格した者は、国に仕えている武術師範から直々に武術や軍略を教わる事が許されている。張儀も師範からの講義や訓練を受けながら、部下の訓練に顔を出して伍衛と祖信の稽古に汗を流していた。

「また腕を上げられましたな。やはりお父上の血を受け継いでおられる。背丈なんぞは私をとっくに追い越しましたし、今ではお父上よりも大きくなられましたな」

かるく息をきらしながら、伍衛がうれしそうに笑った。

「いつまでも伍衛や祖信に頼りっぱなしというわけにもいかんからな。それに部隊を率いているのだ。部下にただ護られるだけの大将にはなりたくはない。父があの世から出てきてどやしつけられるのもぞっとしないしな」

どっと笑い声が起きる。

「これ、皆訓練に集中できてないぞ」

伍衛がしかると皆また各々の訓練へと戻って行った。


 天都の中央に位置する天都宮、さすがに皇帝陛下が居住され、重鎮の方々が政務を行う場だけあって広大だった。

正面にある正門の白門をくぐり、皇帝陛下直々に行う遠征の時の閲兵を行う広場を抜けると巨大な黄宮が見えてくる。

腰に佩いた剣を預け、衣類を調べられる。一度髪もほどかれ、服も剥ぎ取られた。皇帝陛下に直にお会いする場合、専用の服に着替えさせられる事になる為、一時全ての身に付けた物を預ける必要があるのだ。


数日前に皇帝陛下からの使いが張儀屋敷を訪れ、急用のために召し出された。陛下に呼び出されるなど名誉なことだと、伍衛などは鼻息も荒く言っていた。

大広間に通されると、左右に数百はいるであろう護衛の兵士の中を歩かされ、中央で止められた。奥は透けた布で仕切られ、その後ろにかろうじて玉座があるのが見えた。数人の重鎮であろう役人が左右に控えている。さすがにこの雰囲気には緊張させられる。皇帝陛下に直に会うなど、張儀は初めての経験だった。

やや待って、宰相らしき風体の老人が玉座のわきから現れ、並みいる重鎮の最前列へと歩を進めた。

「皇帝陛下のおなりである」

張儀はその場で跪き、頭を下げて待った。

かすかな衣擦れ音が聞こえ、ゆっくりとした足音が正面にまでいたったのち、玉座へとお座りになる気配が感じられた。

「先代禁軍大将軍が子息、張儀。面をあげい」

宰相の声を合図に、張儀はゆっくりと頭を上げる。目は伏せたままなので、目の前には大広間の豪華な敷物が広がっている。

「本日お主を召し出したのは、お主の部隊に援軍のため東陽東部へ赴いてもらうためである」

「はっ」

きちんと規則通りに返事をし、張儀は次の言葉を待った。

「最近、東陽東部の辺境の地にて、賊徒が群れをなしているとの情報が入った。恐れ多くも帝に弓弾く不逞の輩である。羅流将軍は討伐に当たるが、お主にはその援軍として東方へ出征して欲しいのだ」

「身に余る光栄でございます」

「詳しい事情と今後の事についてはお主の邸宅に使いの者を走らせる故、よくよく話を聞き準備するがよい」

「御意」

しばしの沈黙の後、宰相の後方より、細い声が聞こえてきた。

「励め」

「ははっ」

陛下が退出される気配があり、しばし後に重鎮の面々も退出していった。

再び黄宮の入口に戻り、身に付けた物を元の物と取り換える。その後脇にある小さな待合室に通された。そのまま帰宅できると思っていた張儀は再びやや緊張した。陛下の御前にて何か粗相でもしたのかと心配になってしまった。

それほど待つわけでもなく、若い男が執務室に入ってきた。

「先代禁軍大将軍の御子息、張儀殿ですね」

「はい、その張儀ですが」

若いが聡明そうな文官だった。目には優しい雰囲気が漂っている。

「実は、皇太子殿下が張儀殿にお会いしたいと申されております」

張儀は自身の緊張が緩んでいくのがわかった。

現皇帝陛下の御長男である皇太子殿下とは、以前何度かお会いしたことがあるのだ。父に連れられ、初めて天都宮を訪れた時、六歳年下の皇太子殿下に紹介された。お互い子供で、なんとなく気があったので、すぐに庭で一緒に遊んだ。今から思うと恐れ多い事だが、子供の頃には歳の離れた弟ぐらいに思っていた。皇太子殿下も張儀を兄さん兄さんと呼んでくっついてきていたものだった。当時父からするとハラハラの連続だっただろう。

「父が亡くなり、部隊を引き継いでから忙しさにかまけて御機嫌をお伺いする事もありませんでした。申し訳ありません。喜んでお会いいたしますよ」

「では、こちらへ」

若い文官の案内された場所は、以前よく二人で遊んだ天都宮内の大きな庭だった。懐かしさが込み上げてくる。二人でよく、この庭を走り回っていた。奥に大きな桃の木があり、張儀が木に登ると皇太子殿下も真似して登ろうとした。

側近に危のうございますと言われ、しぶしぶ諦めた皇太子殿下を見ながら得意になっていた。帰宅後えらい剣幕で父に叱られたものだった。皇太子殿下が真似をして怪我でもしたらどうするのだ、我々の首が飛んでしまうのだぞと言っていた気がする。


 その桃の木の根元に、一人の若者が立っていた。後ろ姿に気品が感じられ、同時に懐かしい面影が残っている。

「久しいな、兄上。父上の葬儀に参加できず、申し訳なく思う」

張儀は跪こうと腰をかがめた。

「何をしている。お互い兄弟の様にここで遊んだ仲ではないか。そう仰々しくしないでもらいたいが」

皇太子殿下の顔が少し寂しそうに見え、張儀はあわてて立ち上がった。

「そう、それでよい。あまり礼を尽くされると他人の様で悲しくなってしまう」

皇太子殿下の笑顔は、昔と変わらず爽やかだった。先ほどの文官に促され、庭の中央池にある亭へと入った。

「この度、東への出兵を命じられたそうだな」

「はい、先ほど帝より命じられました」

父に伴われて戦場へ赴いた事はある。初陣も十六で済ませていた。しかし、部隊を預かっての戦は初の経験だった。

「今日来てもらったのは兄上に頼みたい事があるからだ。聞いてもらえるかな」

ゆっくりとした所作で茶を飲みつつ、皇太子殿下は話し始めた。

「当たり前かもしれないが、私はこの天都を出た事がない」

「そうでしょうな。軽々しく外出などして、皇太子殿下にもしもの事でもあれば、それこそ一大事。私などは殿下の御前にて木登りをしただけで、父にえらく叱られたものです」

「そんな事もあったな。懐かしいが、つい昨日の事だったような気もする」

静かな庭に二人の笑い声が響いていた。

「私は民の声が聞きたいのだ。どのような暮らしをし、何を考えておるのかを」

殿下は少し遠い目をされていた。

「臣下にそれを聞くと、いつも同じ答えしか返ってこぬ。民は父である皇帝陛下に日々の幸せを感謝し、健やかに暮らしておりますと」

なるほど、さすがは聡明なる皇太子殿下だった。日々宮殿の中での豪勢な生活に身を浸すだけではなく、しっかりと民の事を気遣い、悩んでいたのだ。

「私にはそうは思えん。皆が父へ感謝しているのであれば、何故賊徒などが出没するのだ。毎日が幸せであれば、賊徒になる者などいるはずがあるまい」

確かに皇太子殿下の言われる通りだった。皇太子殿下程でないにしても、張儀にも民の実情は解りきれていない。

「確かに殿下の言われる通り、実際は日々の幸せなどないのかもしれません。しかし、いずれ全ての民の上に立つであろう殿下に、小事を知らせまいとする臣下の気遣いやもしれません」

言っては見たものの、張儀は自分自身が発した言葉に対して懐疑的だっだ。正直口だけの役人など、天都に腐るほどいる。この国全体となれば、それはもうすごい数になるだろう。耳触りのいい言葉だけ帝や皇太子殿下へ吹き込んでいる連中がいるのは解りきっている。

「民の上に立つのであれば、むしろ小事ではないであろう。父や私がいての国ではなく、民がいてこその国だ。しかし、私はそれを知る術を持たないのだ」

なんというお人だろう。この方は民草を知りたいと考えておられる。帝となって上から全てを見下ろすのではなく、民の目線になって苦しみを分かち合おうとなされているのだ。

共に遊んでいるときはまだまだ子供で、このようなしっかりとした考えなどなく、無邪気なだけの日々を送られていたはずなのに。

この方に忠誠を尽くそう。かつてこの国の歴代の皇帝の中で、こんな事を考えた方がいただろうか。この方をお支えしたい。生涯をかけて尽くしても本望な慈愛に満ちた心を、この方は今の時点から持っておられる。

「頼みたいのは、兄上に私の目と耳になって欲しいのだ。民の声を聞き、民の暮らしを見てきて欲しい」

「殿下の、目と耳ですか」

「そうだ。頼めるか」

「援軍に参る東陽東部は、この国の中でも特に賊徒や野党、山賊が多い地域です。途中で立ち寄る村で出来るだけ情報を集めて、帰還時にご報告にあがります」

そう言うと、先ほどまで力のこもっていた皇太子殿下の表情に、昔の様な無邪気な笑顔が戻ってきた。

「そうか、感謝するぞ兄上」

「ですが殿下、一つお願いがございます」

「願い、何だ。出来る事なら何でも聞こう」

一度深く息を吸い、深く息を吐いてから張儀は言った。

「兄上というのは御勘弁願いたいのです。さすがにこの歳になると恐れ多い」

しばしの沈黙の後、再び庭に笑い声があがった。


 天都宮から出た後一度邸宅へ戻って着替えた後、何気なく張儀は天都の街を歩いていた。

伍衛が見たら、供も連れず何をされておいでです等とまたお説教が始まるだろうが、張儀はいつもは見慣れている街を、改めて見直したくなったのだ。

皇太子殿下から頼まれた事を改めて思い出してみると、自分は知ろうとすらしていなかった事に気がついたからだ。

当たり前の様に街には活気があり、民は笑い、泣き、怒り、争い、結ばれ、子を成し、死んでいく。

その事を気にかけようとすらした事がない自分は、皇太子殿下に比べて何と無神経、無関心な人間なのか。

天陽国首都天都、市には物が溢れている。飯屋や飲み屋は空が明るくなりかかるまで開いている店も少なくない。天都の城壁までは上流階級の家屋や大きな商家が大半を占めている。城壁から外には中流階級の家屋や宿屋が軒を連ね、さらにもう一枚の城壁が街を囲んでいた。内城壁と外城壁と呼ばれていて、外城壁から外には兵卒の家や安宿、何ヵ所かの市場が広がっていた。

張儀は普段めったに行くことがない、外城壁の外へ向かった。将軍だった父の屋敷は内城壁の中にあり、子供の頃から遊びに行くのも買い物に行くのも内城壁の中だった。極稀に内城壁から出る事はあっても、外城壁に近付いた事などほとんど無かったのだ。

外城壁の門は内城壁のそれよりも大きく、武骨で頑丈な作りだった。装飾などはほとんどなく、質素だが頑強、城壁は普通こんなものなのだろう。衛兵の数は内城壁より少ないが、多くの者達が入城のための検査を受けていた張儀は衛兵に身分を告げ、外城壁から外へゆっくりと歩き始めた。

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