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船の舳先に一人の男が立っている。
細目にして遠くを見ている横顔は野性味溢れていながら涼しげで、男にも女にも好かれる風貌である。
髪は縮れており、無理やり後ろで縛ってはいるが、収まり切れない情熱を体現するかのように所々逆立っていた。
「お頭、見えてきましたぜ」
お頭と呼ばれたこの男、名は馬龍といった。
天陽南方に古くから住んでいる才族という民族で、陸地にいるより水の上にいるのが長く、天陽の心無い人からは魚人等と揶揄されている一族の出身だ。
前方に中型の船が見える。
旗を見る限り国が運営している貿易船だ。
情報通りである。
「獲物は中型船だ。いつも通り速さで撹乱してやったらいい」
馬龍は顎にある無精髭を撫でながら言った。
馬龍は才族のみで構成された水賊、覇龍の頭領だった。
河賊、湖賊、海賊ではなく水賊である。
水のある所は全て覇龍の仕事場所だった。
才族は天陽が国として出来上がって以来、南の果てへと追いやられた貧しい民族だった。
外見はそれほど天陽の者達と大差が無いので、街に入り込んで物を購ったりは出来るが、金が無かった。
せいぜい売れる物と言えば魚の干物くらいだが、わざわざ才族に金を払ってやる奇特な商人などほとんどいなかった。
馬龍の前の頭領が水賊を始め、馬龍達の村は少しだけ潤った。
基本的に死者を出さない様に気を付けてはいるが、それでも死人は出る。
相手であれ味方であれだ。
水上で生まれ、水上で死ぬと言われた才族は、船の扱いが巧みだった。
天陽の船の様な大型船は作れなかったが、その分速度が出る中型船や小型船をよく使った。
才族から見ると図体ばかり大きい天陽の船は止まっているようなものだった。
何より見ていると船上の水夫の動きがまるで違っていた。
覇龍の者ならば天陽の船の半分でも人がいれば同じ規模の船を動かすことが出来る。
「中赤、撹乱は任せる。葉武は気付かれぬように近付き隙を見て乗り移れ」
中赤は馬龍よりやや年下で、才族でも特に勇敢だと誰しもが認めている男だった。
若い者には慕われ、老いたものには誰よりも礼儀正しく優しかった。
腕っぷしもさることながら、頭の回転が速く、頭領になった時に最初にした仕事が中赤の副頭領への指名だったのだ。
小型の船の中でも特に早い物を選んで編成された部隊を、副頭領である中赤が率いて行く。
おそらく向こうの船が気付く頃には中赤は目と鼻の先に近づいているだろう。
そのまま敵の目をそらし、気付かれない様に葉武の乗り移り専門の部隊が近づく。
通称突船隊と呼ばれる部隊だった。
葉武は幼い頃から馬龍の弟分で、共に水賊の仕事に携わってきた。
昔から勇敢な男で、馬龍が頭領になると真っ先に突船隊に志願した。
「突船隊が乗り移ったな。中赤の部隊は包囲するように合図を。俺達もそろそろ行こうか」
馬龍の乗る中型船がゆっくりと近づいていく。
天陽の船から人が飛び降りているのが見える。
河に落ちても大丈夫なように、なるべく岸の近くに中赤が誘導してから乗り移り始めている。
運が良ければ十分に生き延びられるはずだった。
運が悪い奴までは面倒を見切れない。
近付くにつれ、葉武が暴れまわているのが見えた。
上半身裸になり、両腕には手甲を付けている。
両手にはやや短い剣、突剣を握りしめて振り回している。
突船隊共通の装備で、他船の乗り移る際に邪魔にならない様に計算された最低限の装備だった。
「頭領」
こちらに気付いた葉武が嬉しそうに叫んだ。
馬龍の船から綱が投げられ、突船隊の者達が天陽の船と結んでいく。
「出来るだけ殺すな、逃げ出す者にも構うな」
馬龍は大きな声で叫んだ。
これが聞こえた敵は大体水に飛び込む。
抵抗しなければ殺されないからだ。
中赤が乗り移った頃、船上にはすでに敵の姿は無かった。
葉武が船内に入り、残った人がいないかをすべて見回っている。
「衣類や布、米に銀が積んであります」
葉武の手下が船倉から出てきて嬉しそうに叫んだ。
米はいいとして、衣類や布はありがたかった。
才族の村で生産できる量には限りがあるし、元々漁を生業としているため、綿等の生産を出来る者は少ないからだ。
銀は天陽で物資に変えられる。
今日は大漁だった。
「よし、船は使える物だけ持っていき、残りは焼いてしまうぞ」
数刻もしないうちに、馬龍の後ろに火の手が上がった。
下手に拿捕して持ち帰っても、正直天陽の船に利用価値などなかった。
村へ帰ると桟橋にたくさんの人々が出迎えに来ているのが見えた。
皆それぞれに喜んでいるが、そんな人々をなだめている一人の男が見える。
山市である。
山市は馬龍の幼馴染で遠縁でもある男だった。
幼い頃から頭が良く、神童等と呼ばれていた。
事実次期頭領には山市がなるだろうと予想していた者も少なくなかったはずだ。
しかも剣も強く、理にかなかった戦い方を好んでいた。
「山市さんは相変わらず固すぎる」
天真爛漫で自由な葉武等は多少苦手に見ている所があるらしい。
確かに歳を重ねるにつれて少しずつ理屈っぽい所も出てきたが、それでもそんな山市が嫌いに離れなかった。
幼い頃などは村の暴れん坊に泣かされた馬龍をよく庇ってくれたのが山市と葉武だったからだ。
それに馬龍が頭領に決まった後も、嫌な顔一つせずに下に付いてくれたことにも感謝していた。
「おう、山市さん。今日も大漁だったぞ」
「仲間は死ななかったのか。死傷者が出ていればそこまで喜ぶ事も出来んぞ」
真面目な顔をして山市は答えた。
才族としては珍しく、色が白い男で、立派な顎が男ぶりを上げている。
もし天陽の生まれだったら立派な文官が似合いそうな容姿である。
「多少怪我人はいるが、敵味方とも死者は出ていないはずだ。喜んでくれ」
その言葉を聞いて、ようやく山市は少しだけ表情を崩した。
元来大口を開けて笑うのが苦手な性格なのだ。
しかしそんな表情が涼しげだと村の女達からの人気も高かった。
「そう言えば頭領、帰って早々で申し訳ないのだが麟翁が呼んでいたぞ」
「ふむ、では急いで向かわないとな」
麟翁とは覇龍初代頭領であり、馬龍の前頭領である。
頭領の座を馬龍にゆずり、早々に隠居してしまったが、歳はまだ五十になっていない。
隠居した後も若い者中心の覇龍にあれこれと助言してくれるありがたい存在だった。
以前は村の中心に住んでいたが、隠居後は村からやや離れた小高い丘の上に居を移していた。
庭からは村全体が見回せる良い所だが、上っていくのが少々面倒だった。
かつての頭領が住んでいるとは思えないほどの質素な屋敷。
庭には鶏が飼われていて、小さい畑が見える。
その畑の脇で背を丸めて草取りをしているいささか貧相な男に、馬龍は近づいていった。
「馬龍、ただいま戻りました」
「おう、帰ったかい」
大きく伸びをしながら、男は立ち上がり振り返った。
貧しい村でどこにでもいそうなこの男が覇龍前頭領、麟翁だった。
「今回の収穫はどうだったい」
「はい、大漁でした。死者も出ませんでしたので」
「それはなにより。じゃあ上がっていきな」
膝のあたりを手ではたきながら、麟翁は家の中へと馬龍を誘った。
「天都は大分乱れ始めているみたいだねぇ」
紫煙を燻らせながら、いつもの口調で麟翁が話し始める。
「どうやら皇帝が死んだらしくて、国内でも辺境でも反乱が起こりつつあるようだ」
皇帝が死んだという話は、馬龍の方でも掴んでいた情報だったが、反乱の事までは知らなかった。
隠居したとはいえ、水賊や商売で培った情報網はまだまだ衰えてはいないらしい。
「反乱ですか」
「ああ、反乱だよ。特に辺境では賊徒や我々の様な少数民族が小規模ながら暴れまわっているらしい」
才族以外にもこの国には多くの少数民族が住んでいる。
当然ながら天陽国内で生きていくのに苦しんでいた。
国が乱れると暴れまわるのも当然と言えた。
北方の騎馬民族、東方には山岳民族や元宗教国家の属国。
西方には一応属国の立場をとりながら隙を見せると牙を剥いてくる異民族国家があった。
そして天陽から見ると、南の問題は我々覇龍というわけだ。
「さて、この先どうなるかねぇ」
遠い目をしながら、麟翁は庭を見た。
「さて、どうなりますかね。なる様にしかならないとは思いますが」
馬龍の言葉を聞き、麟翁ははじけたように笑い始めた。
「そりゃそうだろうねぇ。しかし、先の先を見て行かないと、我等の村が火の海になりかねんな」
急に深刻な顔の戻り、麟翁はまっすぐ馬龍を見つめた。
優しくも威厳があって、思わず圧倒されそうな気になる視線だった。
「まぁ、今すぐどうこうってことはあるまいよ。じっくり腰を据えていこうや」
いつもの笑顔に戻った。
「さて、酒にしようかね。今夜は泊まっていけ馬龍」
麟翁は奥から大きな瓶を持ってきた。
麟翁は酒が好きで、いくらでも飲めた。
馬龍も酒好きで強い方ではあったが、麟翁と飲むといつも良い潰されていた。
「そう言うと思いまして、山市と葉武も誘っておきました」
三人相手であれば何とか誤魔化しがきく。
二人ともそれほど強い方ではないが、まぁ付き合ってもらおう。
「よし、今夜は寝ずに飲もうじゃないか」
まったく、この人には敵わない。
翌朝、馬龍は誰よりも早く目を覚まし、船着き場へと向かった。
この村の船着き場は海と川の境目にある。
やや潮の香りもする、気持ちの良い場所だった。
馬龍は幼少時から泳ぎが美味く、麟翁からもそれだけは良く褒められた。
水練を教わる日に大雨が降った日があり、山市や葉武は水練の稽古は無しだと思って船着き場へ来なかった。
幼い馬龍は一人で船着き場へと向かっていくと、正面から麟翁が歩いてきた。
「馬龍、今日は雨だから水練の稽古は辞めにしようや」
「水練の稽古でもどうせ濡れるのです。私は泳いできますよ」
正直呆れ半分で麟翁は見送った事だろう。
しかし、その日から麟翁は馬龍に特に目をかけてくれた。
それに応えるように、馬龍は努力を惜しむことなく様々な鍛錬に打ち込んでいった。
何時の頃からか、自分等足元にも及ばないと思っていた武術の腕も、山市や葉武を越えていたのだった。
海からの風が気持ちいい。
夜明けの頃の海を見るのは馬龍にとって最高の瞬間だったのだ。
するすると手早く船の穂先へと昇っていく。
海面がきらきらと輝いて見えた。
村はまだ目を覚ましておらず、辺りは静かなものだった。
まるでこの世に海と馬龍しかないかと思えるような一時。
自然と馬龍は微笑んでいた。
水賊の頭領となり、海や河で天陽の船を襲う事が多くなってはいたが、本来馬龍はこんな静かな海が好きだった。
そして、毎朝海を眺めているこの時、馬龍は幼い頃の母との思い出が甦っていた。
馬龍はこの村から少し離れた漁村に生まれた。
父は漁師ではあったが村のまとめ役で、天陽の金持ちとは比べられないまでも馬龍は幼い時から金に不自由するような生活はしてこなかった。
年の離れた兄と、姉が二人。
そして病弱な母が最期に産んだのが馬龍だった。
産後母の体調は芳しくなく、馬龍の記憶の中では家の中で寝込んでいる姿ばかり覚えている。
父は仕事柄あまり家族に接する時間が無く、父を手伝っていた兄も夜以外家では見た事がなかった。
最も年の近い姉が、馬龍の父代わりであり母代わりであった。
泣き虫だった馬龍は泣きながら家に帰る度に、姉に組打ちの訓練をされた。
他にも剣術や棒術、槍術等なんでも教えてくれるこの姉が、馬龍は怖いながらも大好きだった。
文字の読み書きは上の姉が教えてくれていた。
厳しさとは無縁の非常に優しい姉だった。
学問が苦手で、十になっても文字の読み書きが一向に上達しない馬龍に根気強く学問を教えてくれた。
おかげで今では頻繁に手紙を出して近況を伝えている。
そしてそんな馬龍を、いつも寝室から優しい眼差しで見守ってくれていたのが母だった。
「あなたは海の様に広い心を持っているから、いずれ大物になりますよ」
これが母の口癖だった。
体調がたまたま良かったある日、二人の姉と母と四人で浜辺へと遊びに行ったことがあった。
馬龍は母との初めての外出でうかれていた。
姉達もとても楽しそうだった。
「おう馬龍、今日はやけにたのしそうじゃねぇか」
浜辺へと向かう道すがら、葉武にそう声をかけられたのを今でも覚えている。
家から持ってきた弁当を、皆で浜辺に座り込んで食べた。
姉達と三人で貝殻を拾って母へあげた。
母もとても楽しそうに笑っていた。
そして昼過ぎに家に帰ると、母は体調を崩して倒れた。
数日後に母は没してしまった。
死の間際、馬龍は母の枕元へと呼ばれた。
「あの海は美しかったでしょう。あなたはあの大海を舞う龍になれるの。母はあの海の様にいつまでもあなたを包み込むように見守っているからね」
泣きじゃくる馬龍にはその時の言葉の意味はわからなかったが、必死に頷いていた。
その日から、毎朝馬龍は海へと出かける様になった。
俺は大海を舞う龍。
そしてその海は俺にとって母と同じだ。
そう、海は母を感じられる場所だった。
「馬龍、麟翁様が呼んでおられるぞ。早く降りてこい」
山市が船着き場で叫んでいる。
飲み過ぎて大分具合が悪そうだったが、横で海に向かって吐いている葉武よりはまだましなようだった。
「わかったわかった、今降りる」
そう言い終わる前に馬龍は海へと飛び込んでいた。
大きな水しぶきが船着き場で立っていた山市にかかる。
馬龍と葉武は大声でそれを見て笑ったが、山市は青白い顔に引っ付いた太い眉がわずかに動いただけだった。
南は既に温かいが、水温が春を感じさせた。