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「崩御されただと」
屋敷の最も奥にある一室で、張儀は卓を挟んで弟の張覚と向かい合って座っていた。
張儀の後ろには伍衛と祖信が座っている。
「ええ、つい昨日の事ですが」
弟から信じられないような事を聞かされていた。
張儀の部隊が天都に戻る前日、皇帝陛下が崩御されたというのだ。
「兄上が出立後、俄かに病を発症されて、昨日崩御されたと聞かされましたが」
「が、何なのだ」
「どうやらそれは表向きの話らしいのです」
「表向きというと」
「実は暗殺されたという噂があります」
何という事だ。
皇帝陛下が暗殺されるなどという事があっていいはずがない。
「一体誰に、そんな事を考える人間がこの天陽にいるというのか」
しばしの沈黙の後、弟の覚はゆっくりと顔を上げて張儀を見つめた。
「誰なのかは今はまだわかっていません。宰相様も色々と手を尽くしてはいるようなのですが」
今まで静かだった伍衛がゆっくりと立ち上がった。
「しかし、今の世で皇帝陛下を暗殺する理由などあるのか」
確かにその通りだった。
遥か昔、この国がまだ統一されておらず、いくつかの国や勢力が乱立していた時代ならばまだ可能性はあるだろう。
しかし、今の皇帝陛下が暗殺されたとしても、皇太子殿下が跡を継ぐだけの話だった。
穏やかではないだろうが、国が覆るほどの大事に繋がるとも思えない。
ならば何故わざわざ暗殺などしたのか。
「とにかく今は何もわかりません。新しい事がありましたら、また知らせに参りますので」
覚はそう言うと、ゆっくりとした動作で腰を上げた。
「頼む」
軍の中で育ってきた張儀には、城内の政治向きの話などは解らなかった。
弟が文官としての道を志すと言い出した時には、父と凄まじい口論になったものだったが、今はそれがありがたかった。
屋敷の入り口まで伍衛と祖信が送っていき、張儀は部屋に一人になった。
「誰に何の得があるというのだ」
思わず口から独り言が出ていた。
「しかし、大変なことになりましたな」
祖信が扉を開けながらそう言って入ってきた。
「天陽数百年の歴史の中で、皇帝陛下の暗殺など起こったことは皆無でしたのに」
伍衛も唸るように話している。
「いや、遥か昔にはあったらいいぞ伍衛。次の皇帝の座を争って兄弟や皇后等がそれこそ血みどろの争いをした事があったはずだ」
「そこよ祖信。今の皇帝陛下は早い時期に皇太子殿下を次期皇帝へと決められてしまっている。内輪の争い等起こるはずがないのだ」
「二人とも、今は何もわかっていないのだ。無責任な発言は以後禁ずる」
言われた伍衛と祖信は、まだ何か言いたそうだったがとりあえず話を止めた。
我等が何かと話していることが他に知れるのはあまり良くなかった。
おそらく崩御の話すらほとんどの者が知らないだろう。
「明日からはまた調練だ。羅流将軍に負けないほどの部隊を作り上げるために、さらに厳しくいくぞ」
二人は力強い返事をして、自室へと引き上げていった。
張儀もその日は早く休みたかった。
戦の事。
民の事。
皇太子殿下のお気持ち。
そして先ほど聞かされた皇帝陛下崩御。
あまりに色々な事が起こり過ぎていた。
ここの所張儀の頭の中は破裂せんばかりに次々と考え事が放り込まれてきているのだった。
考える事ばかり山ほどあるのに、答えは一切ないのだ。
とにかく休もう、寝てしまおうと思い、張儀は寝床へ入った。
数日は何事もなく過ぎた。
皇帝陛下の崩御の話等嘘かと思うほど、天都の人々の噂話にすら上らなかった。
以前のように張儀は部下達と共に調練に汗を流し、部隊の動かし方を学んでいた。
部下の兵達は前の戦以降、見違えるようになった。
調練に対する甘さがあった新兵達は皆目つきが鋭くなっている。
友を亡くした者もいた。
その悲しさや口惜しさが、彼等を変えたのだと思った。
戦場で死なぬための調練、そう思えるようになったのだろう。
おそらくそれは張儀も同じだった。
槍や剣の稽古や、軍略の講義などもまったく苦にならなくなった。
自分が成長することで部隊が強くなれると身をもって認識できたのだ。
ここ数日で張儀は祖信に何度か打ち勝っていた。
今までは体力で勝ることはあっても、短時間での勝負では必ず負けてきていた。
戦場での経験の差が、あと一歩踏み込みを浅くさせていたのかもしれない。
しかし、前の戦で何かが変わった。
以前は後ろに綱で括られているかのような感じがした身体が、今は驚くほど軽いのだ。
大きく踏み込み、素早く下がる事が出来るようになっていたのだ。
「若、ますます腕を上げられましたな」
祖信が肩で息をしながら地面に座っている。
額から汗が流れ落ち、あごの先端から地面に落ちて黒い染みを作っていた。
「情けないぞ祖信。次は私が相手をする」
いつもの練兵所の風景だった。
伍衛は稽古用の棒をぶんぶんと振り回しながら張儀殿間合いを計っている。
どちらかというとまず相手の攻撃を受けてから対処する祖信と違い、伍衛は次々と攻撃をしてきて手を緩めない戦い方を好んでいた。
二人の性格の違いかもしれない。
五度六度と立ち合いを繰り返すと若く体力のある張儀が後半は有利なのだが、前半ではまだ勝ったことが無かった。
そして、真剣での勝負に前半や後半は無い。
張儀は初手から出ばなをくじくため、いきなり大きく踏み込んで棒を持つ腕を狙って打った。
しかし、伍衛はそれをはじくとすぐさま張儀の胴を突いてくる。
払いながら後ろに大きく飛び退る。
すると伍衛は張儀と同じ速さで間合いを詰めてきていた。
気が付くと鼻先に伍衛が構える棒が見える。
「それまで」
祖信が止める。
「まだまだ若には負けませんぞ」
伍衛が笑っている。
「何、今一度だ伍衛」
そうしてまたお互い距離をとる。
幾度も打ち合い、体力が尽きるまでやり合うのが最近の調練になっていた。
夕暮れ前に調練を終え、屋敷へと戻ると弟が来ていた。
「おう覚、とにかく入ってくれ」
弟を屋敷に招き入れ、張儀は裏の井戸の前へ行った。
伍衛と祖信が手ぬぐいと替えの衣類を持ってきてくれている。
汗を流し、新しい着物に着替えてから弟が待っている部屋へと向かった。
「兄上、本日来たのはこの前話した件についてだ」
「皇帝陛下の事か。しかし、天都では噂すら聞かぬな」
「当然でしょう。事後の事が決まるまで、完全に伏せられているのですから」
「なるほどな、それで今日は」
伍衛と祖信が入ってくる。
「実は、暗殺の首謀者等まだわかっていないのですが、別の計画の噂を聞いたのです」
「別の計画とは」
「皇太子殿下の暗殺計画があるらしいのです」
三人は一斉に立ち上がった。
「落ち着いてください兄上、これから話しますから」
「しかし、先日は皇帝陛下、今度は皇太子殿下とは」
「おそらく、皇帝陛下の外戚等の計画なのではないかと宰相様は睨んでいます」
外戚。
皇帝陛下の寵姫の兄弟は皆、この国の要職についていた。
まったく戦にも出ないばかりか、武芸すら知らぬ者ですらいきなり将軍となることも珍しくはない。
たいていはお飾りで贅沢な日々を過ごすことばかりに執着するのだが、かつては骨肉の争いを繰り広げた歴史もあるのだ。
「そやつ等が何故皇太子殿下を」
「それが、先日崩御された皇帝陛下には皇太子殿下以外にも何人か男子がおります」
その母親の仕業だろうか。
自分の子を皇帝に着けるために腹違いとはいえ皇太子殿下の暗殺を企むなど、言語道断だった。
「皇太子殿下を除かれると他のお子達はまだ幼く、外戚の誰かが後見にたちます。それを狙っての事ではないかと宰相様は考えておられます」
「なるほど、そう考えると皇帝陛下の暗殺も辻褄が合うな」
「そこでです兄上、ここからが本題なのですが」
「何だ覚」
「暗殺が行われるとすれば明日の晩が濃厚なのです」
「明日だと」
「ええ、明日は満月。夜中でも通りは明るく、しかも皇帝陛下崩御の後で城の中はまだごたついています。警備も完全とは言えません。おそらくそこをついてくるものと宰相様は言っておられました」
「それで」
「明日の晩、この屋敷に部隊を集めておいてください。有事の際にはすぐに動けるように準備しておいてほしいのです」
「わかった。皇太子殿下のためとあらば、命がけで働かせてもらうぞ」
伍衛と祖信も大きくうなずいていた。
「ありがたく存じます。何かあればこちらから使いの者を出します」
「それでよい、よく知らせてくれた」
弟はやや青ざめていた。
これほどの計画に備えるのだ。
心痛察して余りある。
「お前も今日はよく休め。部隊はしっかりと集めておくからな」
お辞儀をして、弟は帰って行った。
伍衛と祖信は腕を組んで難しい顔をしている。
「すぐに部隊の者達に知らせを出そうと思う。ただし口外無用と付け加えてな」
「そのほうがよろしいでしょうな。此度の事、話がいささか大きすぎる」
二人はすぐに出て行った。
張儀は自らの武具の点検のために、剣や具足を置いてある部屋へと急いだ。
前の戦からまだ日が浅く、鎧は傷んでいる所が多かった。
職人とまではいかなくとも、戦場での補修くらいなら張儀は依然伍衛から学んでいた。
大分荒い補修になるが、戦場で使う物だ。
別に新品同様にする必要はない。
そんな事を考えながら作業していると、ふいに羅流将軍の部隊を思い出した。
彼等は誰一人として新品の鎧等着てはいなかった。
傷んでは直し、直してはまた傷んでいた。
戦場に常にいる部隊とはそういうものなのだろう。
戦に出たからか、張儀は新品の鎧で着飾っただけで、戦場にも出ない天都の将軍たちより、羅流将軍の部隊の者達の方に魅力を感じていた。
漢として美しい生き様に見えたのだ。
自分の部隊も彼等と遜色ない様にしたい。
そして自分も羅流将軍のようになりたかった。
鎧の修復が終わると、今度は剣を研ぎ始める。
張儀の身分ではそこまでの名刀を購う事等出来はしない。
しかし、軍に入ると同時に父親から貰った剣だった。
渡された時、剣が名を高めるのではなく、自身の戦歴が剣を有名にすると教わった。
武人とは、己の名や名馬名刀等を持ってはいるが、全て使い手があっての物だと。
今でもその事は心に刻み込んでいた。
剣を研ぎ終えると、今度は槍だ。
柄は大分痛んでいたので、天都へ戻るとすぐに変えた。
握っていると鬼王の顔が鮮明によみがえってくる。
穂先を丁寧に研いでいく。
「手配終わりましたぞ」
祖信が額をぬぐいながら入ってきていた。
「若、此度の件・・・」
「どうした」
祖信は何か迷っているような顔をしていた。
「いえ、何でもありません。さて、儂も武具の手入れをして参ります」
何か不安そうに、祖信は出て行ってしまった。
あまりにも大事のため、緊張でもしているのかもしれない。
伍衛は自分の部屋に入り、その日は一切出てこなかった。
祖信は武具の手入れが終わると屋敷から出ていき、翌朝まで戻ってはこなかった。
張儀はほとんど眠れず、翌日を迎えたのだった。
昼間の調練は普段よりも軽いものにした。
普段の準備運動程度しかやらず、それぞれを家に帰した。
皆それぞれ緊張した顔をしていた。
不安で青ざめている者もいた。
この天都で暮らす者達の中で、皇太子殿下暗殺等と聞いて平気でいられる者などいるはずもなかった。
皇帝陛下が暗殺されたとなればなおさらだ。
誰も普段より無口で、それでいて張りつめた空気が痛々しかった。
日が傾く前に張儀達は屋敷へと戻った。
伍衛は屋敷に出入りしている使用人に暇をだし、天都から出した。
祖信も同じく家族を城外へと避難させていた。
もし事が大きくなった時の事を考えたのである。
夕刻になり、一人また一人と部隊の者が屋敷へと到着し始めた。
張儀は父が将軍だった事もあり、屋敷は十二分に広かった。
庭を含めれば、おそらく三百人は入れるだろう。
別に寝泊りするわけではないのだ。
立っていられる場所があれば十分だった。
辺りは大分暗くなってきている。
「それぞれに、自らの装備を点検しろ」
伍衛が兵の間を歩き回っていた。
普段ならよく通る大声で叫んでいる所だが、今日ばかりは小声で皆に伝え歩いている。
内密に集まっているため、篝火もたかない。
すでに夜になっている。
遠くの街の賑わいがまだ聞こえている。
おそらくこんな時刻に事には及ばないだろう。
祖信が屋敷内にある厩から馬を引いてきた。
今回騎乗するのは張儀と伍衛、祖信の三名だけだ。
馬の嘶きを防ぐため、杯を銜えさせた。
祖信は落ち着かずに辺りをうろついている。
「祖信、少しは落ち着け」
伍衛がそう声をかけると、すまぬと言ってからしばらくその場に立つ。
しかし少しするとまたうろうろと歩き始めるのだ。
いつも大らかな祖信からすると珍しい。
張儀は二人のそんなやり取りを見ていると不思議に気持ちが落ち着いてきた。
「失礼いたす」
屋敷の門が叩かれ、外からそう声をかけられた。
伍衛が素早く門に近づいていく。
警戒しているのだろう。
手が剣の柄にかかっていた。
「どなかた」
伍衛が聞くと、しばしの沈黙の後声が返ってきた。
「荀孝様の使いの者です」