月面基地の中枢統制室にて
『月内部世界』では、完全監視社会であるために、すべての生活空間において、なんらかの『目』が存在する。
『化学実験棟』の廊下、実験室、研究室などにも、もちろん小型カメラが螺子付けられており、またグロースシュタットの歩道や公園林道にも、ヒューマノイドやプテラノドンのカメラ・アイズ(英:Camera Eyes)によつて、月内部世界全域の俯瞰的画像が、ムーン・インターネットに流出している。
そしてこれは陸地と大空だけではない、『月の海』においても同じである。
幻想大陸、グロースシュタットを囲うようにして波打つ『月の海』でも、機械魚たちが海域状況を見守つている。
機械魚。薔薇猫にとつて、それは苦いエピソードと氷結されていた。
『白猫』の身体衰弱の兆しが診断される前、それは子猫時代に遡る。
薔薇猫は、石橋下で、釣りをするのが好きだつた。白虎がしばしば男性のような趣味に興じる娘を心配していたが、父親のそうした『常識の横目』が憎らしかつた。かの女は、周囲の子たちと同じように、異性との恋愛や、異性の秘密、異性の感情を談笑することに、そのような妄想的惑溺に浸れなかつた。それよりも、銀色腹がまぶしい鮪や、海底にゆらめく藻草を、釣針から外して、石床上で眺めることのほうが、自然の陶酔に浸れた。
或る日、釣針をいつものように沈下していると、手応えのある感触が釣竿から火花いだ。
力一杯引揚げると、釣れたのは一匹の機械魚だつた。魚眼にカメラが組込まれており、埋立地であるグロースシュタットの土盤を、つねに監視するためのサイエンス・ロボットだつた。
『ジッ』と機械魚のカメラ・アイズを凝視すると、『カッシャーン』と撮影音が鳴る。
翌日、ムーン・インターネット上で、ブラック・パンティーがちらとみえる薔薇猫の画像が出回つた。彼女は釣りという趣味を捨てた。
月内部世界の陸海空すべての空間において、薔薇猫の心休まる場所は無いように感ぜられた。
けれど月面基地はちがう。
MSGが最大限のパフォーマンスを発揮できるように、プライベート・スペースがひろく設けられている。自室にはもちろんカメラはない。だから薔薇猫はこの愛する同僚と、ひさしく抱擁することができていたのだ。
白兎のくちびるは、『涙の湖』の砂浜をふちどり咲く、桜木の花びらのように雪白だつた。
接吻のとき走つた、微弱の電流は、唇を起点として腋下をとおりすぎて局部にいたる。
愛撫のエクスタシーから醒めると、一抹の汚穢感がこころを濁す。まるで天使のごとき白兎にふれるのは、じぶんが醜悪的肉体たらしめられる気がした。白兎に触れると、どうしてもこの罪悪感をぬぐうことができないでいた。
でも、それでもよかった。暗室のなかで、『わたし』と『あなた』以外のだれかの『目』を気にすることはなく、互いの躰を骨の髄まで味わうことができるのだから。
月面基地。それは薔薇猫にとつて、たんなる職場ではない。
『白兎』と抱きあう『愛の巣窟』でもある。それだけがMSGという過酷な職務を背おう、薔薇猫の唯一の癒しだつたのだ。
しかし!兎足に、猫足を絡ませていた時、月面基地全体がブラック・アウトしたのである!
瑣末な電線網のトラブルだと軽んじていた、が、前方で誘導しているサーバント・ヒューマノイドが、白兎の部屋をおとずれたのだ。
「重大事故のようです。問題解決のため、月面基地中枢統制室へと同伴願います」と乞われ、白兎からは「暖房も機能していないだろうし、寒いので、どうですか?」と、クローゼットからシルバー・ジャケットをてわたされた。
薔薇猫はそれを服して、地下一階から最下層五十階まで降りてきたわけである。
「シルバー・ジャケットを羽織つて、正解でしたね!」
背後から、喋りかけてくる白兎の声は、緊急事態だというのに、ピクニックにでかける野兎のように燥いでいた。
「ほんと、そのとおり…」
けれども薔薇猫は、この月面基地のブラック・アウトを恨んでいた。閨での触れあいは、最高の快楽だつたから。
「チン!」と、エレベーター・シグナルが高鳴ると、サーバント・ヒューマノイドが「月面基地五十階です」と告げた。それは肉声でありながらも、情炎に焦がされた恋の痛みを知らない機械音であつた。
エレベーターの重厚扉がひらく。『L』字型のオフィス風廊下がひろがつた。
平手をさしだしたサーバント・ヒューマノイドは、月面基地の統制室へみちびいているようだつた。
『サイバー・エクスタシー』と『ムーン・インターネット・システム』を管理している中枢的統制室は、あらゆる状況にかかわりなく、いつでも機能できるようになつている。だから、この階層だけは蛍光灯があかるい。
月面基地。ドーナツ型長方体の超高層ビルディングが、月面に埋めこまれている。吹きぬけの空洞は、宇宙船の離着陸用巨大昇降機が機能しており、そのダイアモンド製支柱が、上階層の暗闇のなかで煌めいていた。
廊下の硝子張りに沿うようにして、『ひまわり』の花壇がもうけられている。大停電の暗闇のなかでも煌々とかがやいていた『ひまわり』は、白猫が愛でていた花々であつた。かの女の精神的象徴ともいえる、月面基地に、『ひまわりの花壇』をもうけているのは、娘の母親恋慕に依るところだつた。
サーバント・ヒューマノイド、白兎、薔薇猫が列なして歩いて、統制室に近づくと、白兎はふりむいて『ニヤリ』と笑つた。
嫌な予感が閃いた。
そして、それは現実となつた。
オートマティック・ドアから透けて見えたのは、喫煙している大猿だつた。
サイバー・エクスタシーの統制を目的としたこの部屋は、もちろん精密機器に障りないようにふるまうべきである。にもかかわらず、まるで喫煙室に居るかのような大猿に、激昂しそうであつた。
「おやおや、これはこれは薔薇猫さま。一足遅れていらつしゃる。いけませんなぁ、MSGともあろう御方が、このような緊急事態に、こうも出遅れては」
と大猿の卑しい口元に、皺が波打つており、叩倒したい憎悪に狩りたてられたが、薔薇猫はこらえた。
大猿と合視するわけでもなく、傍を通りすぎながら、「役立たず」と呟いて、コントロール・パネルに近寄つた。
タッチ・パネルが、中枢統制室に三台配備されており、そのうちの一台前で、美しい緑眼がまたたいていた。驚愕と疑義が眼内で、渾然一体となつていた。
「この大停電の原因はなに?」
禿鷲は瞠つたまま、
「この大停電は、中枢統制室の故障ではない」
薔薇猫はつづくことばを待つた。
「ムーン・インターネット・システムの行政的命令者であるサイバー・プログラマーたちによる、月光市民の電力供給のシャット・ダウンであることが分かつた。」
「サイバー・プログラマーたちが大停電たらしめた、ってこと?」
「そうだ」
ためらうことなく断言した。疑問の沈黙は言説空間を占めた。
「今、そのサイバー・プログラマーが管理されているムーン・ホスピタルに状況照会している」
「で、どうなの。」
「返答はない。だが、通信できていないわけではない。院長室の状況が、こちらに届いている。」
「コミュニケートはできないの?」
「今のところ、できない。ただ向こうからの情報がこちらにながれてくるだけだ。白虎大統領と黒羊院長の秘話がな。」
「秘話?」
薔薇猫はタッチ・パネルをのぞきこんだ。
電子的砂嵐がじらついて、微かにきこえてくるのは、父親と黒羊院長の声だつた。
黒羊の貌はおだやかだつた、まるで風吹かれた柳の枝垂れのように。かれの沈黙はことばで訴えかけるようではなく、しかし雰囲気が『何か』を伝えんとする。そしてその『何か』が、白虎の心情をゆっくりゆっくり圧迫していた。
白虎は『何か』をつまびらかに切開し、初代・MSGのあいだで通ずる、とある秘密を予見した。しかしその秘密はすべての月光市民に知られべからざるものであり、というのもコミュニケーション根本原則と、凝結せしめられているからであつた。
だから黒羊が語りはじめたとき、白虎は最悪の事態をみぬいた。
「知識を掴まえつづけようとするムーン・インターネット・システムに対して、われわれの秘密を完全隠蔽などできますまい。」
黒羊はこう述べた。しかし発声の震えを、これまで隠蔽してきた苦痛のように、白虎は直感した。
黒羊は、告白をつづけた。
「われわれは、地球人の同意なしに、コミュニケーション能力を有する、いうならばつまり自由化され平等化され『うる』また『されなければならない』地球人を、拉致してはならなかつた。」
しかし白虎はかれの言明を疑つた。なぜなら黒羊は、初代・MSGの密約を破つたからである。そして白虎の予見は、最悪の現実となった。
つまり黒羊による秘密の暴露が、月光市民の生活空間にはり巡つていたほとんどのコミュニケーション・ラインを、切断したということである。
「いや、まつたく君の言うことはそのとおりだ。だれも君の主張を論駁できない。自由な存在としての地球人は、不当に制限されてはならないからね。正義!正義!正義!しかしね、われわれつまり君と僕と妻は、月光市民のためのヒューマノイドを夢想できても、それを実現できなかった。ヒューマノイドのための具体的素材を欠いていたからね。終いには、僕たちは必要素材を発見できまかった。だからヒューマノイドの『製造』をあきらめた。
白虎のことばに、黒羊は与した。
「しかし白猫は、ムーン・インターネットとヒューマノイドという異質要素の統一をあきらめられなかつた。あきらめたくなかつた。そして白猫は『転換』の可能性をみつけた。そう、ヒューマノイドの『製造』は諦めても、それへの『転換』をあきらめることはなかつた。つまり、わたしが明らかにしたいのは、かの女が地球人をヒューマノイドへと転換せしめようと決めたこと。ヒューマノイドへの転換とは何か?それは地球人を拉致し、接続端子としてのイデアライザーを地球人の脳髄にくみこんで、かれらを電子快楽中毒化させること。それによつて地球人を、無反抗の実践的労働者つまりは、月光市民のためのヒューマノイドたらしめる。」
「そうだからこそ!」と強調して、白虎は怒つた。初代・MSGのあいだで痛感されていた問題を、黒羊が正しく認識していたから。
「そうだからこそ!地球人が不当拉致されたことを除いて、かの女のアイデアはパーフェクトだつた。かの女のアイデアを、倫理的正当化するために、初代・MSGは隠蔽工作に合意した。それがヒューマノイド製造の必要材料を、月面採掘したというカバー・ストーリーだ。そして白猫はこの虚構を、ムーン・インターネット上にアップロードした。そう、ムーン・インターネットのコミュニケーション根本原則と本質的妥当するように。しかしそれは、偽証だ。ひとつ罪だ!そう、だから…」
鏡のように、黒羊はこたえる。
「だからこそわたしは、ヒューマノイドとコミュニケーション根本原則が共通するように、カバー・ストーリーの秘密をあきらかにするべきではなかつた。そう言いたいのでしょう?ですが考えてください。生活空間の月内部世界のみならず、研究空間の月面基地にかかわる情報をアップ・ロードするために、コミュニケーション原則はヒューマノイドに命令するにちがいありません。そしてほぼまちがいなく、われわれの秘密は暴かれるのです。もしも暴かれたなら、ムーン・インターネット・システムは停止します。そうなると経済的に損失する。そこでわたしはかんがえました。近い将来のうちでおこる小規模的経済損失と、遠い未来のうちでおこる大規模的経済損失、このふたつの可能性を見比べた結果、わたしは秘密のアップロードを結論した。」
銃口が、黒羊の額にむけられた。白虎は黒羊を脅す。
「アップ・ロードした秘密が、偽りであると証明しろ!」
黒羊は黙りこんでいるだけだつた。時間が止まつているようだつた。
「あなたの要請は不可能だ。この秘密は偽証されえないからだ。ぼくは根拠を提示できない。しかし、われわれの秘密は検証されるだろう。これからいくらかのヒューマノイドが、月面基地の中枢統制室を査察するはずだ。」
そのように言うと同時に、まるで『機械仕掛けの神』が歯車を回したかのごとく、多数のヒューマノイドが入室してきた。
タッチ・パネル前で、一体、二体とヒューマノイドが何かを求めているようだつた。
禿鷲はそれを退去要請であると読みとつた。
禿鷲は退き、ヒューマノイドはタッチ・パネルで前立し、するとふたたび電力復旧した。
一体のヒューマノイドが言う。
「アップ・ロードされた秘密は検証されなければならないため、転換室まで同伴してください。」
ムーン・ホスピタルとのコミュニケーション・ラインが接続していながら、ヒューマノイドたちに導かれる二代目・MSGは、黒羊と白虎の論争がすべての月光市民に流出しているのかどうか、知らなかつた。