月面基地のストリップ・バーにて
大猿は、ピンク・ライトに照射されたストリップ・ヒューマノイドに、股間が沸騰するようであつた。
地球の黒人女性を模したとおぼしき一体のヒューマノイドは、官能的巨乳で誘惑している。
右足が舞上げられるたびに、バニースーツからちらつく局部のV・ラインが、大猿を勃起させ、手中の炭酸酒をさらにさらに呷らせた。
アルコールが脳内血管の隅々まで流れたのだろう。先程まで、明瞭に線引かれていたバー・テンダーのブラック・ベスト、舞台上で踊るストリップ・ヒューマノイドのバニー・スーツ、それら衣装服の輪郭線がもやめいてゆく。
「呑みすぎですよ。」
猿耳の近くで忠告されたような気がした。
貌向けると、宇宙船服の象徴である橙色のY・シャツを、禿鷲が服していた。
大猿の手中にあつた氷塊が入つたグラスは、すでに禿鷲の左手にある。
「仕事は果たしてますよ…」
「いえ、責めておりません。ただのお節介です。」
と、官能舞台を鑑賞できる長椅子に、禿鷲は腰かけた。それはちょうど、大猿の斜交いの席だつた。
バー・テンダーの雪男が、大和撫子的容貌のウェイター・ヒューマノイドに、「オーダーを…」と要求しているのが、少しばかり離れたバー・カウンターから聞こえた。
「採掘任務、お疲れさまでした。」
と禿鷲に取上げられたジン・フィズを奪還して、大猿は呷つた。
小さな『げっぷ』を吐くと、恨めしそうに禿鷲を一瞥する。
「正直、羨ましいですよ。MSGのみなさんが。任務遂行のプライド、もう美しいですね。目で分かりますよ。」
「マス・コミュニケーションも重要職務ではありませんか。不正権力行使にメディア・パワーだけが唯一対抗できる手段ですから」
中指と親指でおざなりに保たれたグラスのジンフィズは、くるりくるりと回されて、水面は渦巻いている。
「権力者たちへの反抗なんて、現実的じゃないですよ。わたしたちの仕事は、雑務の山を片づけているようなものです。」
大猿はうなだれて長椅子に凭掛かつた。天井を見上げているようだ。
「抽象的な政治的議論なんて、だれが欲しているのだろう。視聴者はエンター・テインメントを求めているのに、現実無視した番組を、構成して指針して放送する、こちらの立場も考えて欲しいですよ。疲れます。命賭けて務めているというのは、だいぶ感傷的かもしれませんが、でも、汗水垂らして、こちとら懸命に仕事しているわけですよ。ほんと徒労感が半端じゃないですね。」
刺刺しい非難は、胃袋の塩酸のような痛々しさだつた。
オーダーを伺いに来たウェイター・ヒューマノイドが、禿鷲のそばに侍る。
「いつものやつで」と注文すると、カノジョは、一礼してカウンターへ戻つた。
会話の雰囲気を一変させるため、大猿に、あたらしい話題を投げた。
「ストリップ・ヒューマノイド、どうです?官能的じゃありませんか?」
大猿は、左手の人差指で、左耳を『ぽりぽり』と掻いている。
「そうね。」
と大猿は眠たそうなふりして舞台上を一瞥すると、
「ストリッパーたちはヒューマノイドなのに、カラダはエロティック。踊りの最中、顔を手で隠すたび、表情が変わる。あれはどういう仕組みで?」
二拍子の激しい演奏曲から三拍子の優雅な其れにかわり、バニー・スーツをきたヒューマノイドたちは、バー・カウンターそばの楽屋室へ退いて、すれ違いざまに、スパンコール・ドレスを纏つたヒューマノイドたちが登場する。
禿鷲は、グラスからテーブルへと滴る水粒を、『白いおしぼり』で拭きあげた。
「ナノ単位の極小LEDが、あのストリッパーたちが被る仮面を構成しているのですが」
と禿鷲は、舞台上のヒューマノイドたちを指さす。
「そこに、地球人の撮影写真を、ストリップ・ヒューマノイドの仮面に投映しているのです。」
「フェイス・チョイスは、禿鷲さんの趣味ですか?」
「いえいえ、そんな横暴なことはしませんよ。幾何学的美の比率に適した『顔』を、自動選択するシステムです。」
三組の踊子たちの内、中央の組が、前方にでて、両手を握りあい、くるくると回転しはじめた。男役のヒューマノイドは、女役のヒューマノイドで隠れ現れるたびに、獨逸的顔面、中国的顔面、印度的顔面へ輪廻してゆき、女役のヒューマノイドも、男役のヒューマノイドで隠れ現れるたびに、日本的顔面、希臘的顔面、羅甸的顔面、へ輪廻していつた。
ジン・フィズの炭酸が、口腔内を刺激する。大猿は、グラスをガラス・テーブルに置いた。『カラン』と澄んだ音がひびいた。
「 Du kannst nicht einen Grund der Menschlichkeit greifen.
Du kannst nicht eine Linie zwischen dich und mich greifen.
denn Ich bin ich und du und sie und er」
聞覚えのある格言は、大猿の口から零れでていた。
禿鷲は好奇心にみちた視線を、大猿に浴びせた。ところが大猿は、いまだ天井を見上げ、『おしぼり』を両目に当てて、そのまま石像のようだつた。
「『ムーン・インターネットとコミュニケーション根本原則』という論文の序文ですよ。人間性の本質を捉えられないし、『あなた』と『わたし』の境界線も捉えられない。なぜなら、『わたし』は『わたし』であり、『あなた』であり、『かの女』であり、『かれ』であるから。という意味らしいです。」
「らしい?」
禿鷲は違和感をおぼえた。
大猿の目元に掛かつていた『おしぼり』が、ぼとりと落ちる。
「ぼくも。この金言の真意はわかりません。ですが、目前の舞踏劇をみていて、ふと思いだしたのです」
嫌いじゃない。そう禿鷲はおもつた。顔に似合わない衒学趣味というものは、薔薇猫は毛嫌うであろうが、俺は好きだ。そう禿鷲はおもつた。
「七夕神話って知つてますか?」
禿鷲は大猿に問いかけた。返事がない。
ただガラス・テーブルには舞台の紫や緑や赤や青などのライトが映え、あたりには宮廷風のピアノ・ソナタが流れているだけだつた。
溶割れた時の氷塊音がちいさく、大猿はおくればせに応えた。
「乙姫と彦星の物語。たしか月光市民の神話でしたつけ?」
と大猿の左目がこちらをみた。
「ええ、乙姫は、最終章で消失したのですけど、一体何処へ消えたのでしょうか?」
大猿は腕組み、考えているようで、考えていないようでもあつた。
「誕生の星々に還つていつたのでしょう。もともと乙姫は、氷の惑星に生まれたのですから」
期待の返答でなかつた為に、禿鷲の応答には、やや間があつた。
「ダルメシアン神父の説法によれば、全体へ還つていつたらしいのです。それだけじゃなくて、『惑星』や『ひまわり』や『あなた』や『わたし』にも戻つた、と。」
「意味分からないですね。」
大猿の目は、砂粒ぐらいの軽蔑を隠していた。
「それにしても珍しいですね。実証的学問である『科学』に仕えていながら、実証不可能な『神話』なぞに興味をもつている。」
理性主義者たちに通ずる一種の微笑を、禿鷲は浮かべた。
「興味ないですか?」
媚びないように質した。
大猿はY・シャツのポケットから、タバコの箱をとりだして、一本のシガレットを咥えた。
「興味ないですね。そんなこと解明したところで、一体何になるのですか?ポテトが食べれるのですか?スーツを買えますか?マンションに住めるのですか?わたしはそのような、おおよそ実利とは関係のないことを考えるのが大嫌いでして、無駄だとおもうのです」
禿鷲は、大猿の冷笑に、ただただ微笑んだ。そうしていると、ポテトとジンジャエールが禿鷲の手元に運ばれた。
「なにか御座いましたら、遠慮なく、お呼びください。」
にこり笑うウェイター・ヒューマノイドの微笑に、禿鷲のこころは癒された。
大猿が吸つたばかりのシガレットを灰皿に置いた。
その瞬間、ストリップ・バー全体が暗闇に包まれた。