月内部世界から月面へ
ウェディング・ベールのような雲々を見透して、おぼめくは葡萄色の夜景だつた。
楕円型の幻想大陸の沿岸には、海岸道路の街灯がきれいにならべられ、『化学実験棟』や『宇宙船港』、それら屋上のレッド・ライトが点滅している。
薔薇猫の金眼はころがる。
幻想大陸とグロースシュタットを連結するムーン・ブリッジ上を、もはや何事もなかつたかのように、最終運行のムーン・トレインが走行し、グロースシュタットの円型街道には、クルマの黄灯火の群れがゆらいでいた。
『月内部世界』と『月面』の境界殻としての『月外殻』。そこから『ひまわりの樹林』がたれさがり、樹枝からいくえもの『ひまわり』の蔓束が、月内部世界の地上へと咲乱れていた。
『ひまわりの樹皮』には斑らに緑苔が植生している。「生命力がみなぎつている」そう薔薇猫はこころふるえた。一秒一秒と緑苔は、その領域を延ばしながら、その実、一秒一秒と樹幹に吸収されている。
しかも緑苔だけではない。ひかりきらめく『ひまわり』もおなじだ。
さらり強風に拐われたかとおもえば、小一時間経つと、あらたに『ひまわり』が『その樹根』から芽吹く。だからつねに高度一万メートル以上の『月外殻』では、『ひまわり』が花吹雪いている。それは、しなやかな枝垂れからのぞける絶景だつた。
薔薇猫は、この『月外郭』に根づく『ひまわりの森』に佇んでいた。
ゴーグル(英:goggle)のライト・レンズに、禿鷲の貌がたちあがる。
「今なお、『涙の湖』で泳いでいる宇宙鯨は、超音波信号により混乱中。しかし意識水準が正常値にもどるまで時間はない。それまでには宇宙船に帰還してくれ。」
ウィンドウの中心は、禿鷲の頭部から胸部までが電波しており、背景には宇宙船統制室がうかがえた。
「大猿について心配ない。白兎が宇宙船内を説明し廻つているはずだ。」
そのとおりに、統制室に在席しているべき白兎と大猿がいなかつた。ただ薄暗いルーム・ライトが、禿鷲の制服に投影しているだけだつた。
薔薇猫は飛行服のN極ベルトをオフ(英:off)にした。
とある一カ所の白骨の樹皮が、散壊している。
のぞいてみると、S極弾丸が詰まつており、それを回収し、ベルト・ポシェットにしまいこんだ。
ふりかえると、宇宙船の乗降口はすで閉じていた。ぼんやりと『磁石性弾丸の狙撃銃』を、乗降構内の所定位置に戻したか気になつた。
ヒューマノイドが壁掛けていたことを思いだして、安心した。それより、あの大猿である。
父の紹介により、同乗している大猿は、ブラック・スーツにホワイト・Yシャツ、ブラック・ネクタイをまとい、身なりは常識的であるが、いかんせん、言動が非常識だつた。
宇宙船の回廊にタバコを捨てる、くしゃみを猿手で覆わない、統制室の操作機器をいじくる、おもいだすだけで激情しそうであつた。ただ同時に、何かを探つているような不気味な印象もぬぐえなかつた。
「あの大猿、どのようにみえる?報道しに来ただけかしら?」
ゴーグルのレフト・レンズ越しに見えるのは、『ひまわり』が満開する小枝へ樹幹を降りている、じぶんの猫足だつた。禿鷲が眉間に皺よせて、「というと?」と真意を問うた。
「わたしたちを事件の犯行者だつて睨んでいるのだわ。」
「真意はわからないが、あまり邪推しないほうがいい。おれたちはおれたちに与えられた任務を果たすだけだ。それ以外にない。」
「そのとおりね」薔薇猫はそうおもつた。
強風は、軽量のスカイ・ジェット付属のリュック・サックを重荷に感じせしめた。
聖母のごとき『ひまわり』のそよぎは、心励まされるが、しかしなにわともあれ喉が乾いた。
リュック・サックから、500mlのウォーター・ペットボトルを取りだし、呑んだ。強風で呑みずらかつた。ふと科学会見のときの大猿の居眠りが思浮かんだ。
社会的事象を月光市民に報道する、職業的立場にいるにもかかわらず、会見室で『すやすや』と熟睡していた馬鹿な大猿は、大統領の指令によつて、MSGのT鉱物採掘再遠征に同伴している。その事実が、腹立たしかつた。
「奴は、今どこにいるの?」
薔薇猫がたずねると、禿鷲は『ぽりぽり』と顳顬を搔きむしつた。
「ダイニング・ルームに居るみたいだ。映像を共有しよう」
ゴーグルのライト・レンズに、宇宙船内のダイニング・ルームが映された。
大理石床の光沢がうるわしく映えるような、硝子の食卓に大猿は坐り、五指をこまねき、美食の予感によろこんでいるようだつた。
白兎が、オーブン・レンジから、フレンチ・ソースがおしゃれに添えられたロースト・ビーブを配すると、大猿はスーツ・ポケットからホワイト・ハンカチーフをつまみ出し、料理皿の傍に折りたたんで置いた。
大猿はシルバー・フォークで、ロースト・ビーフの一片を刺し、持ちあげた。
あの卑しい丘のような口、そして『ぷるり』とひらかれた口腔内からのぞきみえる人工的差歯。それらに我慢ならず、猫肌に粟がたつた。
「あんな奴のために、高級料理で接待することないわ!シロちゃんは余計なことしなくていい!」
怒声はダイニング・ルームに届いているはずもなく、だから大猿は二口目の高級肉を喰べる。
怒りで赤面する薔薇猫をなだめようとする禿鷲。
「これから二週間ほど、そばにいるわけだから、早めに心の距離をちぢめようと励んでいるのかも…」
「わたしは、そのつもりはないわ」
たなびく幽玄な雲中に、プテラノドンがちらと姿見せる。
薔薇猫は、星々がきらめくように咲誇る『ひまわり』を、小枝から折りとつた。そして、リュック・サックから引出したサンプル・バッグに保存した。
「月面基地の美観用植物は、回収したわ!」
「わかった。そこから脱出してくれ。スカイ・ジェットの性能は優れているはずだ。」
薔薇猫はこくりとうなずき、瞳を閉じた。耳朶につけたイデアライザーに集中する。
背中で機械の冷たさを感じせしめるスカイ・ジェットと、後背神経が接続されようとしていた。
広背筋の『何か』が、背中の皮膚を透過して、スカイジェットに玉結び、一糸の運動神経が芯太くなつた。それを実感した。
円盤型宇宙船のとある輪郭がひかる。宇宙船の乗降口が上下にひらくと、薔薇猫は決意する。
「テイク・オフ!」
スカイ・ジェットの噴出孔が爆ぜる。するとたちまち白煙が視界をみたした。
そのまま薔薇猫は、やわらかい柳の簾をかきわけて爆出する。
『ひまわりの森』の花びらは、翻つてはひるがえるたびに、燦然ときらめいた。
オートマティックに宇宙船へと向かうスカイ・ジェットは、白煙を夜空に線引いた。
宇宙船の乗降口は、深海で泳いでいる魚鱗のように光つていた。
ハム・サンドウィッチを左手に携え、ハンド・タオルを右腕に掛けた白兎が、にこやかに出迎えた。
乗降構内の鉄壁には『磁石性弾丸の狙撃銃』や、翼竜をおつぱらう『フラッシュ・グレネード』や、殺傷能力を有さない『花火球』などが嵌めこまれていた。
スカイ・ジェットの勢いそのままに、乗降構内に薔薇猫は突入し、白兎のとなりで阿呆貌で虚立する大猿に追突した。
吹飛ばされた大猿は、船内につながるオートマティック・ドアから入構してきた禿鷲と衝突した。
口角に舐め忘れた蟹味噌のソースをつけた大猿は、薔薇猫を瞠目した。しかしかの女のほうは、謝罪もせずに、白兎を愛おしく眼ざして、汗吹く躰をふきながら、ハム・サンドウィッチをほおばつた。
「ぼくがみえなかつたのか!?」
と弱男の羽虫のような声をきくと、
「あら、そこにいらしたの?どうしたのですか?倒れこんで?」
と、さも何事も無かつたかのように応えた。