薔薇猫居城の遊戯室にて
嗅ぎなれた海水が匂う。
石造りの連絡橋や、邸宅の華美な玄関、そして遊戯室が、意識のなかへ戻つてきた。
瞼をひらこうと、はつきりと意志した。間隙から覗きみえたのは、いまだに撞球遊びをつづけている禿鷲と白兎であつた。
薔薇猫は、後ろをふり向いた。
遊戯室のベランダ。その硝子扉に滴りおちる雨粒が、グロースシュタットと薔薇猫邸宅をむすびつなげる石橋、その『存在の輪郭』をおぼろげに滲ませている。
『カコン』と高鳴る音が、遊戯室にひびいた。
ビリヤード・テーブルのうえを滑らかにころがる白球と、ぶつかつた『9』という数字がぬられた縞模様の球を、白兎の紅玉はたどつていた。
白兎は、(最先端科学集団:(英)Most advanced Scientific Group:(略称)MSG)MSGのメンバーであり、また薔薇猫もその一匹である。
MSGは三匹で構成されており、もう一匹が、白兎とおなじく、今、『9』ボールの軌跡を凝視している禿鷲である。
白球はビリヤード・テーブルのグリーン・フェルト中心に止まり、そして『9』ボールは、テーブル・ホールへ、『ゴトン!』と落ちていつた。
其処から管の中を、『ゴロゴロ』と転がる『9』ボールは、『カチン』と音をたてて、ビリヤード・テーブルの回収ポケットにたどりついた。
「これでわたしが三勝したので、禿鷲くんにはわたしの願いを叶えてもらいます!」
そう勝ちほこつた白兎。
禿鷲はめんどくさそうに嘴をうごかし溜息づいた。かれは、唐草模様に飾られた金色の椅子にすわる。
ぐつたりと力抜かれたように天井を見上げて黙つたままだつた。だから返答のない不自然な沈黙が、白兎を不機嫌にさせた。
「ちょっと!聞いてました!?いまさら賭けごとはなかった!なんて言わないよね!だいたい、言いだしっぺ、禿鷲でしょ!意気揚々と、『9』ボール・ゲームで勝負しよう、オマエが勝つたらオマエの願いを叶える、しかし俺が勝つたら俺の願いを叶える、どうだ?なんて挑発してくるから、挑んだだけです!」
「ああ、分かつてる!分かつてるよ!そんなカリカリすんなよ!で、なんなんだよ、オマエの望みは?」
「実験データの整理です。あまりにも膨大なので、その処理をおねがいします」
白兎は、桜柄の眼鏡を、白い綿のようなふわふわの『兎の手』で押しあげると、薔薇猫はその仕草を可愛らしいと胸迫るおもいでみていた。
どこか垢ぬけない童女風な雰囲気が、薔薇猫のなかで漠然たるノスタルジーを匂わせた。それは甘くて、酸つぱくて、青春の果実のようでもあつた。
「で、実験データって、なんだ?茶を濁したように言うなよ!はっきりと言えよ、はっきりと!」
「T分子衝突実験データを、グラフ化する作業です。」
これまで、『月内部世界』の電力生産燃料は、U元素であつた。しかしこのU元素は大問題を孕んでいた。それは有害放射線についてである。
グロースシュタットの電力需要を満たすために、さまざまなエネルギー・イノベーションが試みられてきた。
例えば今、薔薇猫、白兎、禿鷲が楽しんでいる遊戯室から、とおく海の沖合のほうへ目をむけると、まるで波を阻もうとするように、水力発電施設が臥している。この錆びれた雰囲気を醸している発電所は、U原子力発電が普及する前の発電体制であり、しかし電力産出量がわずかであるために、今となつては、廃棄された旧施設でもある。
グロースシュタットの成長戦略によつて、電力の莫大供給を可能ならしめた発電体制は、大統領である白虎から開発要請されたものであつた。MSGの研究努力もあつて、U原子力発電が開発された。
その結果、期待を超える電量を産みだすことができた。そしてグロースシュタットは供給電量に比して、しだいに優れたサイエンス・ツールを備えるようになり、月光市民の生活水準は高まつた。
しかしこのU原子力発電は有害放射線という危険性をはらんでいるために、恒常的なエネルギー・システムとして維持されるべきでなく、故に、新しいエネルギー・システムが、月光市民のあいだで期待されてきた。
そして、薔薇猫、禿鷲、白兎で構成される二代目のMSGによつて、『有害放射線を放つことなく』且つ『U原子力発電と同電量産出できる』、T原子力発電が開発されたのだ。
翌日、四月二日が、そのT原子力発電にかんする科学会見がひらかれるのであつた。
『コンコン』と音がひびく。
遊戯室の廊下扉から、一体のヒューマノイドがワインとグラスを携えて入つてきた。このヒューマノイドも、U原子力発電の成果によつて、開発されたサイエンス・ツールのひとつであるらしい。
「ワインを呑み足りない方はいらっしゃいませんか、こちらにまだありますが」
というと、ビリヤード・テーブル上にワインとグラスを置いた。飴色瓶に滴つていた微かな水粒が、グリーン・フェルトに沁みこんで、そこが濃緑色になつた。
「いや、もう大丈夫だ。俺はいらないよ」
禿鷲がそのように返答すると、ヒューマノイドは薔薇猫と白兎の貌をうかがつた。
薔薇猫の毛髪が、ベランダの硝子扉から吹きこむ風で、ふわりと舞いそよぐ。かの女は微笑んで、ゆつくり首を横に振つた。その振舞いから、ヒューマノイドは「薔薇猫さまはワインを呑み欲しない」と認知した。
口角が上がり『微笑んでいる』のだろうが、どこか冷たい印象をあたえるヒューマノイドの顔が、白兎にむけられた。
白兎は、貌をすこし歪ませて、両手を振つた。ヒューマノイドは「白兎さまはワインを呑み欲しない」と認知した。
ワインとグラスをビリヤード・テーブル上から取りあげて、一匹一匹に一礼すると、そそくさと彫刻扉を閉めて、遊戯室から廊下へと退いた。
白兎は「で、どうなの、願いは叶えてくれるの?」というふうに禿鷲を睨みつけた。
「分かつた!データをよこせよ!」
壁に立掛けられているビリヤード・ステッキの一列に、使用したステッキを片づけて、『ひょこひょこ』と白兎は禿鷲に近づいた。
白兎は目を『ハッ!』とさせてまじまじと禿鷲をみた。
「やっぱり、すこし禿げてるわね」
馬鹿にしているわけでなく、あらためて確認したような声色は、禿鷲を苛立たせた。
「早くデータよこせ!」
白兎は苦い貌をして、手首に巻かれたムーン・ウォッチに触れた。
3D・ウィンドウがひらいて、そこから『T分子衝突実験データ』というファイル・ネーム(英:file name)を抓まむ。
禿鷲も、手首に巻かれているムーン・ウォッチをみた。
さきほどまでシルバー・フレームに嵌めこまれた、トランプカードほどの液晶画面は暗かつた。が、禿鷲の視線を感知して、液晶画面は白光する。
777年 4月1日 19:00
日付と時刻を、ムーン・ウォッチは告げた。デジタル・スクリプトの色彩は、サイバー・ブルーだつた。
白兎は、禿鷲のファインダーに、『T分子衝突実験データ』を抓みおいた。
データ送信が了して、双方の3D・ウィンドウは、ムーン・ウォッチへと吸いこまれていつた。
「ああ、めんどくせぇ、こんなものすぐにでも片づけてやるよ!」
と言いつつも、ふたたびファインダーをひらいて『T分子衝突実験データ』を確認してみた。
鉤爪でウィンドウをスクロースしてみる。
すると一万回のデータ・テーブルのうち、九千回目までのグラフ化を終えていてた。溜息をもらした禿鷲。
『ニヤニヤ』と怪しく微笑んでいる白兎。
薔薇猫はそんな二匹をみて、明日のT原子力発電の科学会見を、やすらかに挑んでゆけると信じた。
『月光市民』の未来的生存をかけた発表。それはMSGにとつて、精神的重荷にちがいない。けれども白兎と禿鷲は、いつもどおりだつた。かれらは平常を演じているようにはみえなかつた。だから確信する。わたしたちMSGならば絶対に成功すると。
ふと薔薇猫はグロースシュタットの街景色をみた。
薔薇猫邸宅から、まるで下流しているような細長い石橋は、銀河のようなグロースシュタットへ架かつている。
『月光市民』の建築法によつて、すべてのモダン・ビルディングに発光塗料を混ぜるよう義務づけられていた。だから夕空が熟れてゆくにつれて、ビルディングの外壁が『きらきら』と輝くようになる。というのも、省電力という白虎のエコロジーに基づいていた。
夕焼け空のひかりが弱まり、あらゆるモノは紫めく。
ひとつの夜が完熟する頃だつた。それはとある恋仲が、プラザ・ホテルの一室で、尻尾を愛撫する頃であるし、またそれは、とあるヒューマノイドが、風化してきたモダン・ビルディングを、ひつそりと修復する頃でもあつた。
涼風で孕んだカーテンが、ゆらりと猫肌を撫でて、かの女は遊戯室からベランダへ出た。
欄干の石の冷たさは、春の憂鬱を、吸いこんでいるようにおもえた。
薔薇猫は頬杖をつき、遠くグロースシュタットのモダン・ビルディングスをながめた。
今頃、ビルディングの屋上からアイアン・ロープで、何体かのヒューマノイドが、吊るし降りているにちがいない。ここベランダから、修復作業しているヒューマノイドを見捉えることはできないが、たとえ見つけたとしても、それは限りなく小さな点としてみえるものであり、そんなものはもはやヒューマノイドではなく、遠景が織りなすひとつの幻にすぎないだろう。
グロースシュタットの景色は、ひとつの銀世界だつた。
「しかし、俺たちは運がいいよな」
薔薇猫はとなりをみた。いつの間にか、そこには禿鷲がいた。
野暮な口調のわりには似つかわしくない、透きとおるような緑の眼が、象嵌されていた。夕焼け空のグラデーションから掬いこんだようなグリーン・カラー、禿鷲の双眼はそんな神々しい色をたたえていた。
「ん?という貌をしているな。だつて考えてもみろよ。もしもT鉱物を発見できていなかつたら、オレたちの生活は成りたたない。『幻想大陸』の鉱山から、あと十年分のU鉱物しか採掘できない。だからオレたち、いや『月光市民』の生きる術は、新しいエネルギー・イノベーションしかなかつた。こんな状況のなかで、まるで神の手が差伸ばされたかのように、オレたちはT鉱物をみつけだした。月面で。ふしぎなことだろ?」
『ハタハタ』となびくイエロー・ネクタイが、禿鷲の語口をすこし滑稽にみせていた。けれど、薔薇猫もふしぎなことだと思つていた。
「そうね、あなたの言うとおりだわ。月面巡回のとき、たまたま『涙の湖』の土壌をしらべた。そしたら未発見の化学構造をした鉱物をみつけた。どうして調べようとしたのかは、ふりかえつても分からないわ。ただなんとなく気になつた。そしたらみつけた。ただそれだけ。そういう不思議な因果つて、多いものよね」
「偶然じゃなくて必然だつたりして…」
ほんのりとした蔑みを目にただよわせた禿鷲。それは薔薇猫や禿鷲自身への軽蔑ではなく、非科学的思考に対するひとつの軽蔑だつた。
「MSGらしくないわ」
そう言うと、ふたりは『ふふっ』と笑つた。薔薇猫は禿鷲のやさしい蔑みと混ざりあつた。
遊戯室の硝子扉が、ベランダに佇む薔薇猫と禿鷲を、枠付けていた。まるで写真の画角のように。
「おもしろいことでもあつたのですか?」
兎毛に、静電気が一因で、硝子扉に掛かるロング・カーテンがぴたりと貼りついていた。薔薇猫と禿鷲はそのさまを滑稽とおもい、微笑んだ。
白兎は気づいていない。
「なんですか?ふたりして変な笑いを」
嘴をクイクイと動かして、とぼける禿鷲。
「べつになんてこたぁねぇよ。放射線のでない新エネルギーが開発できそうだなぁ、なんて話をローズとしていただけさ。」
薔薇猫は禿鷲のことばを裏打ちするように話重ねる。
「そうです。これまでのU原子力発電だと、ふたつの問題があった。ひとつは発電するときの放射線。これは月光市民の肉体分子構造を壊す危険な波動。だから幻想大陸の地下深く、つまりは月の中心核から30キロメートル圏内に使用済み核燃料を処分してきた。しかしこれも、いつまでもこの方法をとるわけにはいかない。分かるでしょ?」
頭を傾けて、たずね訊くような仕草だつた。だから白兎は、
「はい、メタル・パッケージから放射線は漏れ、いづれは生活空間に辿りつきます。そうなるとわたしたちの滅亡は決定的でしょう。」
ベランダにつづく硝子扉の傍、そこに小さな木卓がある。その上には精巧な水瓶とグラスがおかれていた。
薔薇猫が、水瓶の硝子蓋をとると、『カラン』と玲瓏な音色が、遊戯室内に波紋した。
『ぷるるん』とやわらかい唇が、グラスに貼りついて官能的である。
一杯の水を呑みほすと、薔薇猫は白兎をみた。
妖艶な金色のまなざしが、白兎を惑わせた。
「そうね。ひとつは、あなたが言つたような問題。もうひとつの問題は、現在の原子力発電の燃料、つまりU鉱物ね。鉱山からの総採掘量が、あと十年分しかないの。これがどういうことを指しているのか、分かるわね?」
薔薇猫は白兎にしゃべりながら、遊戯室に嵌めこまれている大型液晶画面に、ムーン・ウォッチを向けて、オペレーション・ボタンに触れた。
すると遊戯室に隠されていたミュージック・スピーカーから、歌曲がながれはじめた。
「After the sunset, i'll be find nobody in this city today.
(日が暮れて、今日もこの街には誰もみあたらない。)
sometimes i feel, i walk lonely through, though i see him.
(ときどき、わたしは思うの。たとえ、かれを見ていても、ひとりで歩いている気がする。)
somebody, tell me, why did my heart be broken?
(だれか教えて!どうしてわたしのこころは壊れたの?)
somebody, tell me, how warm your skin is?
(だれか教えて、あなたの肌はどんなふうに温かいの?)
though all hate me, i stare you.
(たとえみんながわたしを嫌つても、わたしはあなたを見つめているわ)
though all hate me, i fall in you.
(たとえみんながわたしを嫌つても、わたしはあなたに恋してる)
if you have no soul and no spirit, it's no matter to me
(もしもあなたに魂が宿つていなくても、そんなことわたしには関係ない)
if you are a fiction and a dream, it's no matter to my heart
(もしもあなたが偽りの存在でも、そんなことわたしには関係ない)
cause i love you.
(だつて、あなたを愛しているんですから」
切ないメロディーが、こころに冷水をそそいでゆく。
ぼんやりと流れるこのポピュラー・ソングは、とある一匹の『月光市民』そしてヒューマノイドとの恋歌である。
ヒューマノイドに恋している『どうぶつ』は、周囲の『どうぶつ』に奇異な目をむけられながらも、おさえられない素直な恋を歌つている。この歌は、月光市民の生活空間に、はり巡らされているムーン・インターネット上で、人気を博していた。
この歌のおかげで、どれほど多くの『月光市民』が、ヒューマノイドへの告白を免ぜられてきたのか?そう薔薇猫はおもつた。
薔薇猫のアンニュイな雰囲気と、ながれる歌曲が合わさつて、ひとつのエロスが薄暗がりのなか結晶する。
忘れていた薔薇猫からの問いをおもいだした白兎は答える。
「えつと、U鉱物が十年分しか採掘できないから、『月光市民』は十年間しか生きられないことになります」
薔薇猫はグラスに水注いで、ごくりと呑んだ。そして一息吐いて、
「そう、わたしたち月光市民の寿命は、あと十年だつた。T鉱物を発見するまでは。」
薄明かりのなか浮かびあがつてくる小悪魔のように、薔薇猫は微笑んだ。こうした彼女の笑みが、近付きがたい印象をあたえる一因であつた。白兎はこの笑いをみるたびに、諌めたいと欲したが、どうぶつの個のこのような生理的仕草は、自己の意志ではもはや直すことができないだろう。であるのならば、黙つておくことが最善であつた。
薔薇猫は、ふたたびグラスに水注いで、こんどは自身が呑むのではなく、白兎に手わたした。
受取つたときにふれた猫手の感触は、まだ白兎のこころを惹きつけていた。
「放射線をださないT鉱物。月面にねむつているT鉱床はエネルギー換算すると約二百年分はある。『月光市民』の命は、さらに二百年間、なんとか生きられるようになつた。」
白兎の喉を、冷水がとおりすぎる。薔薇猫の悪魔的笑みは、もはや確かな印象をとどめることなく、忘却の流水に拐われていつた。
「たつた二百年だと侮つてはいけないわ。その二百年のうちに次世代のMSGが、より低燃料で高産出量のエネルギー・イノベーションを推進してくれるはずよ。とりあえず今世代MSGは使命を果たしたといえるわ。」
猫背は一直線に伸びていた。重荷から解放されて、朗らかにみえた。天井を見上げる仕草から、それを読みとれた。
スチーム・シガレットを吸終えると、禿鷲はベランダから遊戯室にもどる。
遊戯室の天井に吊下げられているシャンデリアが、蝋燭のように灯つた。
「明日、14:00。T分子衝突の科学会見がとりおこなわれる。それまでに、グラフは完成しているはずだ。各自、為すべきことを済ませて、明日に備えてほしい。オレはこのあたりで帰る。じゃあ、またな。」
と薔薇猫と白兎に告げて、スーツ・ジャケットを着直しながら、彫刻扉から遊戯室をあとにした。
『バタン』と閉まる扉の音が、寂しくひびきわたる。
「シロちゃん」
薔薇猫は白兎を慕つて『シロちゃん』と呼ぶ。
「無理しないようにね」
と、につこりと薔薇猫は笑い、すぐ背後のグロースシュタットの銀河のような夜景とかさなる。それは美しい絵画のモチーフだつた。