薔薇猫の自室にて。
装飾寝台の天蓋から垂れている紗、その甘美な薄絹から透かされるモノは、淡い。
蔓草の縁飾りは、ベランダの硝子扉を美しく枠造つており、またグロースシュタットのモダン・ビルディングを借景として、さながら芸術的風景画である。
寝台横の小卓は、可愛らしく佇んでおり、卓上にはムーン・ウォッチが煌々と灯つていた。
日付は、西暦 七百七十七年 七月六日 22:00、であつた。
硝子扉から吹込む風は、天蓋の紗をふわりと孕ませて、そして、猫肌を撫でた。
覚醒よりも微睡が、想像力を掻きたてるように、『善と悪』どちらも表象のキャンバスのなかで彩られた。
瞳の景色は、遠退いゆくように感ぜられた。
…意識はほろろに、されど視点はゆるぎなく、有るか無きかの夢の海面に浮かんできたのは、禿鷲と白兎と大猿だつた。
かれらは、薔薇猫と狛犬をムーン・ホスピタルに派遣し、そのまま化学実験棟に臨場。原子力発電の燃料を『U元素』から『T元素』へ転換した。
エコ・モードだつた発電体制は、通常運転をはじめ、しかしそれは一歩遅く、サイバー・エクスタシー欠乏の禁断症状による、ヒューマノイドの暴走阻止までには至らなかつた。
総数一万をこえるヒューマノイドは、さまざまな自殺を遂げた。
「天国への階段は彼方に!」と詩文を繰りかえすヒューマノイドは、そのままムーン・クロック・タワーの最上階から飛びおり、地面に叩きつけられていた。血は歩道の敷石に染みこんで、いまなお狂乱の一事件を仄めかしている。
真夜中のディストピアはこれのみにあらず、遊楽街のカジノ・ホテルでも起こつた。
表舞台では決して華々しくない財政界の連中が、自身の『腹』や『恥部』や『心』の欲望をみたすために、とあるカジノ・バーに集つていた。しかし、サイバー・エクスタシー機能停止により、ヒューマノイドたちは混乱。菊紋章を黒背広の胸部にみせつけている、傲慢な弁護士は、フルハウスの役柄がそろつた。そして五枚のトランプ・カードを、ポーカー・テーブルに提示すると同時に、護身銃で、ディーラーが弁護士のおでこを撃ちつらぬいた。テーブルのグリーンフェルト上は、血飛沫で染まり、隣席していたプレイヤーは叫んだ!
しかし、このようなヒューマノイドの狂乱も、自殺という終焉で幕閉じた。
サイバー・エクスタシーを供給されないヒューマノイドは、もはや不快を埋める快楽を手にできないと分かると、快楽体感者である自身を、終わらせるようとする。
終幕のグロースシュタットの惨状は、見るに耐えられない。
どこを見渡しても血の海。血、血、血。転落死、自刃、絞殺。さまざまな死が、回型歩道に、マンションの一室に、汚濁する。
薔薇猫の記憶から、グロテスクなイメージが引きだされようとするやいなや、鉄扉が閉じられた…
意識は、邸宅の寝室に戻つてきた。邸宅外には夏虫たちの囁きが暑さにからまつて、気怠いエロスが蜂蜜のようであつた。背中は汗粒がおびただしく、ホワイト・シーツは、軀を象つていた。しばらくは乾きそうにない。
寝返ると、背中に冷ややかさを感じた。おぞましいイメージの予感は、襖の先の首吊り人のような暗澹たる恐怖をあおる。
薔薇猫はふたたび瞼を閉じた。明日の『地球人拉致事件』の最高裁判にそなえて。
しかし寝付けなかつた。涙はしとどに零れて、大罪を背おう父親を想うとやりきれなかつた。
…麻酔弾によつて昏睡状態におちいつた白虎大統領は、隆々たる筋肉の狛犬に担がれて、父親ながら哀れであつた。かたわらで見ていた薔薇猫は、狛犬が父を何処に連行しようとしているのか分からなかつた。しかし狛犬の行動力と不気味さが、質問を留めせしめた。
エレベーターの冷気は、薔薇猫の脳内でこだまする白虎の怒声、その熱気を鎮火していた。それはエレベーターの優しさのようにおもえた。
十階の療養層に到着し、狛犬はそのまま廊下を『すたすた』と歩きはじめた。
回廊沿つて嵌めこまれているガラス・フェンスター上の水流の縞模様、それをフィルターとしてナース・ステーションの天井灯が仄暗い。
療養室に犬足を入れて、白虎を寝台に臥せた。
「す…まな…い」という寝言を薔薇猫は聞いた。哀切な微かな声が猫胸をしめつけた。
白兎と禿鷲たちはT原子力発電を再起動させると、任務達成を祝して、禿鷲が、白兎と大猿に缶珈琲をおごつたらしい。化学実験棟の玄関前で飲むと、大猿は至福のゲップを漏らした。その下品なふるまいが、白兎の生理感覚を逆撫でた。電話越しの罵詈雑言に、薔薇猫は癒された。
それからしばらくして、行政機関の頭脳であるサイバー・プログラマーのポストが公募された。三万匹の月光市民が、百席のポストに坐ろうと応募してきた。
これは無理ないことで、ムーン・インターネット・システムが完全でないことを体験した月光市民は、将来にも同じような事件が惹起せしめられる可能性に恐々としていた。この恐怖の種は、すべての月光市民の未来展望のうちにおいて、忌々しい華を咲かせてしまつてゐる。
百席のサイバー・プログラマーのポストは、数十分と経たないうちに埋まつた。
そして、ヒューマノイド暴走事件は、「地球人拉致事件を不当判断し、サイバー・エクスタシー分配機能の停止命令によつて、現象した必然的事故」であると見做され、新入席したサイバー・プログラマーは「地球人拉致事件は不当であるが、それすなわちムーン・インターネット・システムの停止命令するべきでなく、その事件を最高裁判の審判を仰ぐことによつて、適切な事後処理を為すべきである」と決定した。
この行政的判断により、サイバー・エクスタシー分配機能は正常になり、ムーン・インターネット・システムは再始動した。
飛降り自殺をとげたヒューマノイド、吹きぬけ階段の欄干にロープを括りつけて首吊り自殺をとげたヒューマノイド、それら惨死体は、すぐさまサイバー・プログラマーの処理指令によつて、幻想大陸の最終処分場へと運ばれていつた。
日を経るごとにムーン・ウォッチから流れるニュースは、惨死体の様相や、破壊されていたビルディングの様相などから、事件原因である『地球人拉致事件』の調査報告が占めるようになつた。薔薇猫はそれを化学実験棟の研究室や、通勤の折のクルマのなかでぼんやりと聞いていた…
薔薇猫は、ふたたび目をひらいた。
ムーン・ウォッチがデジタル・スクリプトで指示する時刻は、22:48、だつた。
約三十分が過ぎていたことを、薔薇猫はみとめた。流水のごとき無常である。
白虎邸宅がそびえる小さな孤島は、浅い沖のさざなみを、その基盤の岩石に吸いこんで、寂としている。ベランダを漉す小々波は、臥している薔薇猫の耳元に囁くようであつた。
母はすでに亡くなり、父は犯罪者として捕まつた。だれも居ない自宅。砂漠のような自宅。
瞳の景色は、微熱の泪でゆがんでいつた。
寝室の扉前の廊下を、『すたすた』と過ぎてゆくメイド・ヒューマノイド以外は居なかつた。
喉奥から嗚咽がこみあげてきた。寂しさは極致した。
薔薇猫は小声で唄いはじめた。
「どうして、だれもいないの?白い毛、やさしい瞳、白い雲々に消えていつた。わたしとママの唇には、交わした吐息で、朱く染まる。忘形見の口紅は、あなたの声を思いだす。苦しみ、憎しみ、喜び、楽しみ、すべては、『ことば』に変わる。永遠の『ことば』となつて、『わたし』も、『あなた』も、『かれ』も、『かの女』も、接吻する。たつたひとつの鼻と、たつたひとつの口。無臭の『ことば』を吸いこんで、色香の『ことば』を交わしてく。忘れがたきは、ママの声。忘れがたきは、ママのくちづけ。」
口遊む唄をおぼろに聞く薔薇猫は、就寝の折に、白猫が語つてくれた七夕神話をおもいだした。
「七月七日、それは乙姫が月面から消滅した日。彦星が永遠の再会をねがい葉桜へと転生した日。太陽は、地球と月と自身を、『一なる光』のもとに溶かしこんだ。」
難解極まる神話の金言は、薔薇猫が愛おしく繰りかえしてきた唄だつた。
初代・MSGの『地球人拉致事件』の最終審判を前にして、懐古はひとときの慰みであつた。
傍聴席で囁かれる罵詈雑言が、胃袋を裁縫針で刺すようだろう。
ムーン・ウォッチが、23:15、を告げていた。
意識の結晶が、睡魔によって、とろりと溶かされていつた。