月内部世界の上空にて
宇宙船服をきた薔薇猫は、凸型水晶のような宇宙船の硝子窓から貌そらして、白兎をちらとみた。
未熟な果実をおもわせる腰月は、生々しい完熟を予知させるように、甘くまどろみ深い。化粧品の口紅が似つかわしくないだろう白兎の唇は、まだ『かわいい』だけであつた。薔薇猫の眼前にあるのは雪白の唇、芸術的透明が永遠の一瞬へと融解しようとしているのに、接吻できない口惜しさ。
桃色の愛が、葡萄色の憎悪に変わるように、薔薇猫の胃は、『ズキズキ』と痛みはじめた。
イデアライザーの受信信号が、宇宙船乗降構内にいるすべての『どうぶつ』に示された。
「ムーン・ホスピタルの院長室カメラは、破壊されている。だから黒羊院長の容態はわからない。しかし事件は、急を要するようにおもえる。まずおれたちが『やらねばならない』ことは二つだ。白虎大統領からの指令であつた『T鉱物の採取』、これをおれたちは達成した。ゆえに、ひとつめは、『Tエネルギー・システムの導入』、いや『復旧』と言つていいだろう。それを果たさなければならない。つまり、幻想大陸の化学実験棟へ急行すること。ふたつめは、ムーン・ホスピタルに急行すること。黒羊院長の生死を確かめてきてほしい。」
禿鷲の貌が収められているスモール・ウィンドウが、視界の右上に常在している。
宇宙船乗降構内は閉じられており、乗降口横のグリーン・ライトはめざわりだつた。
宇宙船が下降すると、雲下の風圧を受けて、轟音がすさまじい。白兎の紅玉の瞳は、どこか怯えているようにみえた。そして狛犬は、隣席の薔薇猫を『ジッ』とみていた。
薔薇猫は横目でちらと窺うと、狛犬の目は、憐れんでいるようにみえた。かれの檸檬の酸味のような美徳を、『煩わしい』と薔薇猫はおもつた。
「足の裏、蒸れていませんか?パラシュート・スーツ、身体にぴたりと張詰めて苦しくないですか?」
自身の父親がかつての同僚を殺したかもしれないという、緊迫した状況でありながらも、親交したばかりの狛犬の気持ちを汲みとろうとする薔薇猫の健気が、身に沁みた。
しかしこれは、薔薇猫の意図したところであり、斜交いの席に坐していた白兎は、これを海辺の漂流物のようにみた。
「いえ…それより…」
と狛犬の声は、窄んでいつて、目落としてしまつた。
「それより…なんでしょうか?」
健気な白布を脱ぎとつて、堪えているであろう悲哀を、照らすべきではない。その謂わば、思いやりの常識に苛まれて、狛犬は口噤んでしまつた。
見返しつづけている薔薇猫の期待に、狛犬が気詰まりしていると、折よく、禿鷲のオペレーションが介入してきた。
「パラシュートの衝撃度はやわらいでいる。ローズのクレームを受けて新調した。だから肩部や胸部を圧迫してきた痛みは弱くなつているはずだ。」
宇宙船統制室にいる禿鷲の椅子が、『きゅるり』と軋む。
「さて、ここから本任務にとりかかろう。薔薇猫と狛犬には、ムーン・ホスピタルに行つてもらう。これはもしも現場に、まだ白虎大統領がいる場合、その対応は、やはり娘である薔薇猫が適しているからだ。なにか異存はあるか?」
薔薇猫は、おもむろに貌を横振つた。
「ありがとう。そして俺と白兎は、化学実験棟にむかう。」
満月紋章は、宇宙服の右胸に刺繍されて、誇らしい。
「なお大猿は、このまま宇宙船に待機となる。グロースシュタットならびに幻想大陸は、いずれもヒューマノイドの非制御下だからだ。」
視界のスモール・ウィンドウで、『ウシシ』と歯茎をのぞかせて嬉々としている大猿に、薔薇猫は呆れた。
乗降口近くのグリーン・ライトは、レッド・ライトに変わつた。
隣席に坐していた白兎は、猫手を握りしめた。別れのぬくもりを、兎手から感じた。
白兎はそのまま宇宙船内につづくオートマティック・ドアへ消えた。
下界光景は夕空に染まつていた。
薔薇猫は狛犬と手結んで、カウント・ダウンを空手で示す。
『0』
拳骨の合図とともに、グロースシュタット上空へと飛降りた。
『あっ!』という間に、宇宙船は親指ほどの大きさになり、視界はぐらついた。
脳みそは頭蓋骨中でゆれて、大空を落下してゆく恐怖と、風圧のエクスタシーが、混濁している。
いつのまにか手離れて、狛犬の姿はみえない。
ただグロースシュタット車道に沿うている橙色街灯が、モダン・ビルディングスの外壁を照らして、蜜柑色の銀河世界が広がつている。
呆然と、景色を見惚れていると、聴覚神経を刺戟する禿鷲のオペレーション・ヴォイスを受信した。
「百名のサイバー・プログラマーが、『地球人拉致事件』から『ヒューマノイドの不当性』を判断した。ヒューマノイドは正常作動せず、そして、すべての月光市民が、ヒューマノイドに関する停止命令に合意していない。ゆえに、グロースシュタット全域において、サイバー・エクスタシー欠乏症のヒューマノイドは、破壊活動中である。特に、『政治的』『経済的』『司法的』中心地は、無政府状態が凄まじい。残念ながら、ムーン・ホスピタルはこの中心地付近に位置している。極めて危険な任務だ。しかし、やらねばなるまい…」
命賭けの仕事であることは自明であつた。禿鷲は、仕事とは言えども、絶命の可能性を背負わせてしまつたことを恥じた。本来であるのならば、男子訓戒に則り、自らの命を捧げるべきだつた。禿鷲は、急降下する薔薇猫の引締まつた体躯をみるにつけて、このように恥じたのだつた。けれど唯一の救いは、薔薇猫の傍に、狛犬が付添つていることだつた。宇宙船統制室から中継直視できるこのふたりは、Good Twin of One のようにみえた。オペレーション・デバイスを被つている禿鷲は祈つた。
「こんな時だけ、神さまに祈ることは卑しいことかもしれないが、でもどうかあのふたりが、微笑んで帰還できますように!」
禿鷲は、見えない『何か』に対峙するように、懇願した。
「着地地点は、グロースシュタット外縁居住地域、その近辺の砂浜を目指してくれ。そこならば現在、狂乱するヒューマノイドは、ほとんどいない。」
「了解!」
という薔薇猫と狛犬のシンクロ・アンサーは、比翼連理の神秘であった。
「健闘を祈る!」
そう禿鷲は告げると、宇宙船の舳先はムーン・ブリッジに向いた。
大猿と白兎そして禿鷲は、あの幻想大陸にそびえる化学実験棟に、直進しはじめた。
パラシュートの大傘は、すでにひらいていた。
薔薇猫は、見失つていた狛犬が、いつのまにか傍で飛行落下していることに、安心した。
宇宙船は夕空にたなびく雲々をひき裂いて、一条の軌道は紫めいている。
円型グロースシュタットは目下に在つた。中心点は最長のムーン・クロック・タワーがそびえて、悲劇の黒煙は、空高く昇つている。
右手に『月の海』に浮かぶ半島上の白虎邸宅、正面にグロースシュタットと白虎邸宅の連絡橋、左手にグロースシュタット堤防を視界におさめながら、やわらかい砂浜に着地した。
ゴーグルをはずして、堤防の階段をちらりみると、薔薇猫は「ヒューマノイドに殴られる痛み」を予感した。
「それでも行かなくちゃ、ムーンホスピタルへ!」と、自身を鼓舞した。