第6話
《ねぇ、姫、どうして空は青いんだと思う?》
いつも肩車をしてくれる父さんが、やわらかくて真っ黒な髪の毛が、大好きだった。休日になると決まって、大通りの公園まで連れて行ってくれた。
あのときの自分がなんて答えたのか、答えはなんだったのか、もう、思い出せない。
《あんたなんてことしてくれたのよ! 返して、あたしの、あたしの――っ》
もう、戻ってはこない。
気がついたら血まみれだった父さんと、泣き崩れる母さんの姿。それから首に絡みついた指と、今では染み付いてしまった言葉。
いない存在に、なれたらよかった。誰も気にしない、誰にとっても他人みたいな存在に。誰にも迷惑をかけない、負担にもならない。だからその代わりに、どうしても生きていたかった。とにかく死にたくなくて、それだけだった。『死ぬ』ことが、どういうことかわからなくて、そんなわけのわからない所へ行くくらいなら、何をいわれても、何もなくなっても、生きている方がマシだと思った。
でもそんなの、いつもうまくいかない。
「――めっ、姫! 起きろ!」
「ん……」
「姫っ!」
「おい、あんま揺すんなっ」
取り返しのつかないことがたくさんあって、それをフォローできるだけの力は自分にはなかった。たくさん悪いことをしただろうな、と思っている。
それでもあたしはやっぱり、子供だった。
気持ち悪い。目を開けて一番最初に思ったのはそれ。体が痛くて、重くて、熱かった。薄く開けた目に映るのは、間近で顔を覗き込む久我の顔と、そんな久我を呆れて見ている上田の姿だった。
「……ちかい、」
「だってよ、ほら、離れろ」
「ひめー」
「うるせー」
さっきと場所は変わっていない。空き教室の中だ。あたしは、何をしていたんだろう。いつの間に芳野達はいなくなってるんだ。
鈍い動きできょろきょろと目を動かして、周りの様子をうかがう。目を閉じていたのはほんの一瞬のような気がするのに。
「気ィ、失ってたの。わかる?」
上田がそういってしゃがみ込んだ。さっきよりもよく顔が見える。「あいつらなら、帰した」
「そう……」
立ち上がろうと床に手をつく。じゃり、と髪の毛を触った感覚。さっき、切られた髪の毛だ。足に力をこめる。けれど、うまく立ち上がれなかった。目の前に暗い影が落ちて、前を見る。久我が背中を向けてしゃがんでいた。「のれ」
あたしは何も考えず、その背中に手を伸ばした。
これは、逃げているのかもしれない。ふと思う。
あたしは、不条理とか理不尽なこととか、そういうものを吐き出されるために、ここにいるのかもしれなかった。いない存在にはなりきれなかったから。
それなのにこうして誰かに手を伸ばすのは、間違っている。
「ごめん……」
「姫はなんも悪くないだろ」
「……ごめんなさい、」
弱くて、ごめんなさい。ひとりじゃもう、抱えきれないと思った。ダメだとわかっていたのに久我を遠ざけることもできなくて、知られるのが怖くて、それなのに今こうして助けを求めてしまったこと。全部、情けなくて。
確かに覚悟したはずだったのに。ひとりでいい、誰にも必要とされなくていい。その代わり、あたしも求めないから。
「帰ろう。もう、無理とか、しなくていい」
首に腕を絡めて、肩に顔をうずめた。やさしい匂い、安心するような。なんてことないみたいに、久我は簡単に立ち上がった。夕日で満ちた教室、そこはとてもあたたかで。
「なんでもいって。じゃないと俺、わかんないから。なんでも聞くし、絶対、守るから」
あまりに久我がやさしいから、周りに溢れるものがあまりにやさしいから、今度は安心して目をつむることができた。そこにあった闇に、ひどく安心した自分がいた。
ずっと昔に置いてきてしまった、穏やかな感情。依存して、すがって、いつだって助けてもらっていた自分。
そこにはあたしをひとりにしないすべてがあって、あたしはそこが大好きで、やはりそれがすべてだった。
あのときはまだ、母さんだって、笑ってくれていたのに。
いつから、こんな風に変わってしまったのか。もうずっと生きることが、呼吸をすることが、苦しかった。あたしの酸素はもうずっと前に枯れて、消えてしまった。だけど、まだ、許されるなら。
許してくれる人がいるのなら。
「……り、がと」
少しだけ、泣いた。一時でもかまわなかった。やさしさにもう少しだけ、浸っていたかった。
ゆっくり、久我が歩く。その度に揺れる振動が、なんともいえず心地よかった。一段一段階段を下りて、昇降口へ向かう。荷物は上田が三人分を持ってくれていた。
「ね、久我?」
「なんだよ」
「眠っても、いい?」
「……いいよ」
何も考える余裕がなかった。とにかくあたしは安心しきっていたし、居心地がよかった。
久我といるといつもそれだけで、息苦しい世界がやさしく思えた。いつもと違う、心地良い傷みと一緒に。
歩く振動を感じながら、深呼吸をしてみた。やさしい匂いで満たされていく。
間違っていると、理解している。それでも。
あたしが眠るまでに、そう時間はかからなかった。
「おにーちゃーん、彼女さん起きたよーっ」
目が覚めて真っ先に目に入ったのは、見覚えのない、ツインテールの女の子だった。
体を起こすと、蒲団が掛けられていたことに気がつく。ベッドの上だ、とようやくそこで気がついた。この部屋は、見覚えがある。
ぱたぱたと女の子が部屋を出て行って、そこでやっと自分がどこにいるのか気が付いた。壁には写真ばかり並ぶ、ここは、久我の部屋か。入口から見て左側の壁に沿う形で置かれたベッド、部屋の奥を頭にして置かれている。
あたしはあのまま眠ってしまい、久我にここまで連れてきてもらったのだろう。その間のことを何も覚えていなかった。ずいぶんぐっすりと眠っていたらしい。
それから廊下を走る音が聞こえて、ふすまを見つめた。多分、久我が来るはずだ。
「姫! 生き返ったぁ?」
「死んでない、」
必死な、本気で心配そうな久我の顔を見て、目を伏せて笑った。嬉しい、単純にそう感じた。誰かに心配してもらえるような、やさしさを与えてもらえるような、そんなくすぐったいことはほとんど初めてだと思う。
ちゃんと、いわなきゃいけないな、と思った。
「久我、」
「なんだよ」
ゆっくり歩いてきて、ベッドの脇にひざをついて久我は座った。目線があたしより低くなる。真っ直ぐな茶色い瞳が、痛い。刺されたみたいだ。その傷みすら、久我に与えられているのなら心地いいと思ってしまう。
ギシリ、床の軋む音。開けっ放しだったふすまに、人影。
「――っ、」
「やっと、起きたの?」
冷たい、あの人はあたしを、蔑むような目で見るから。怖い。
「他人に迷惑かけないでって、いってるでしょう。どうしてわからないの?」
ぎゅうっと、掛け蒲団を掴んだ。その手はふるえていたかもしれない。
「ご、ごめんなさ――」
「帰るわよ。早くしなさい」
母さんはまた、ふっと姿を消した。床の軋む音。誰かの話し声。
早く、早く行かなくちゃ。帰る準備を、早く。
「姫? ホント、大丈夫か」
「平気、久我も、ごめん。いろいろ」
慌ててベッドから降りたら、腹部がきりりと痛かった。痣かな。
「あたしのカバンは?」
急に手をつかまれた。異様に熱を持って、熱すぎるくらいの手。
「な、に」
「ふるえてる」
右手を久我に取られて、見上げられる。見透かしたような目で、なぜかわからないけれど睨みつけられた。
「は、はなして」
「なぁ、まだ、いうべきことない? っていうか、さっきの続きは?」
「な、なんでもない……」
「守るよ、俺。さっきもいったけどさ、俺バカだしね、話してくれなきゃわかんないんだって」
首をふった。放してほしかった。早く帰らなきゃいけないのに、こんな風にあの人が来てくれるなんて、あたしのためにあの人が何かをするなんてありえないことなのだから、きっとすごく機嫌が悪い。怖い。
それに、そのまま久我に手を握られていたら、息苦しいことを全部、吐き出してしまいそうだった。
これ以上負担になるなんて、助けなんて求めちゃいけなかったのに、ガンガンと頭の中でいつもの呪文がリピートする。わかってる、わかってるから、そう叫び出しそうになる自分を必死で抑えて、空気すらももらさないように口を結んだ。
「姫っ」
ぐいっと腕を引っ張られて、あたしは簡単に体制を崩した。倒れた先には久我の胸があって、背中にまわされた腕は苦しいくらいに強くあたしを引き寄せた。
「俺は、ダメ? 力になれない? なぁ、わかってんだろ。俺バカなんだって」
泣くわけには、いかなかった。やさしい匂い、それは少し息苦しいくらいに近くにいる。心臓の音が、自分のものと同じくらいに早くて、二重に響いてうるさい。
本当はすがりついて泣いてしまいたいのに、それはできなかった。あたしを待つものは、あたしが待つものは、あたしのためになる誰かなんてものはすべて、ない方がいい。
誰にも迷惑をかけることなく、生きられたらよかった。誰かに頼らなくても、生きていけるならよかった。人間全部、他人だったらよかった。そうしたらきっと、みんな自分本位になって、誰かを守るとかそのために傷つくとか、そんなことが全部なくなるから。
こんなことで簡単にやさしさに甘えてしまう、その腕を離すのを惜しんでしまう。自分はなんて浅はかだったんだろうか。一時でもそれを望んでしまったら、溢れてしまうって、戻れなくなるって、わかっていた。求めてしまうって、わかっていたのに。
「はなして、あたし、行かなきゃ」
「ごめんな」
「もういいから、はなしてっ」
「ダメだよ。だって」
不自然な体勢のまま久我の足の間にひざをついて、胸に顔をうずめて、もうこれ以上ないってくらいの力で抱き締められていて。体中が痛かったような気もしたけれど、それ以上に触れた所が熱くて、どんどん熱を高めていって、耐えられなかった。
「こんな、怯えてんのに」
おかえりって迎えてくれる母さんが、大好きだった。寝かしつけてくれるときにやさしくとんとんって叩いてくれる手が、睡眠薬だった。あったかい食事、当たり前だったそれが、幸せだった。
簡単に壊れてしまった、当たり前が。
「こわ、い……」
「うん」
返してほしかったのは、あたしだって同じだった。やさしかった母さんを、返してほしかった。大好きだった。
「……怖い、こわい、こわいの」
「なにが?」
「か、さん……も、ずっと、見てくれないの、あた、し、いるのに、いないのっどこにも、ないの……っ」
父さんが死んだときに、あたしも一緒に死んでしまえばよかった。一番大好きな人が愛した人を奪って、存在を否定された。
一番大好きな人に認めてもらえないなら、それならいっそのことそういう存在になろうと思った。そうなることで、初めてあたしが認められるんだと思った。
「いなく、なれな、くて……っ」
久我の背中に、自分も腕をまわしてみる。ふるえながら掴んだ服、それだけが頼りみたいに。あのときは、掴むことができなかったけれど。
「み……みとめて、ほしかっ……」
あのときあたしは子供だったから、大人にすがることしかできなかった。母さんが大好きだったから、いつか戻ってくれるって、昔みたいにやさしい母さんに、それをずっと、信じてたから。
それまでは、迷惑かけないようにって、それで母さんの気がすむなら、これは当然の罰だから。
「たくさん、」
髪の毛をすり抜けていく指。やっぱり気がついたら、泣いていた。これ以上ないってくらいに、体は熱くて、ちょっと泣いたくらいじゃ体温なんて下がりはしない。むしろ上がる一方で、涙は止まらなくて。
「さみしかったね」
本当はずっと許してほしかった。認めてほしかった。
ごめんなさいと、伝えたかっただけなのに。さみしいと、知ってほしかったのに。つらい気持ちを一緒に、共有したかっただけなのに。
伸ばした手をつかんでくれたならそれで、充分だったのに。
もう、無理だったんだと思う。殻にこもって自分を守ることも、許されなかった。いわれた言葉を全部受け止めて、記憶して、それでも音だけは忘れた。綺麗な音だけを覚えていたかった。
あたしを殴る前の母親の顔も、イジメることが趣味な同級生の笑った顔も、全部覚えている。忘れてはいけないと思った。痛みを、苦しみを、忘れるなといわれているんだと思った。それを与えるために人がいて、あたしはそれを与えられるためにいるんだと思った。
それなのに、久我はやさしすぎた。
それが当たり前のように笑って、名前を呼んで、会話をしてくれた。一方的じゃなかった。あたしに何かを求めてくれた。
久我がくれるものは全部あたたかすぎて、手放せなかった。普通の人間になれたような気がした。初めて誰かに認めてもらえたんだと思った。
もう、無理だったんだと思う。
このまま涙も流さずに、ただただじっと受け止め続けることは、無理だったんだと思う
「……泣くのね」
廊下から、久我の背中の向こう側から、声がした。わからないはずなのにそれは多分母さんの声だと思って体がびくりと反応した。頭の中でそれは別の音になって何度も繰り返される。怖い、怖い、怖い。
怖くて何もしゃべれなくなって、久我の腕の中でふるえを堪えることに必死だった。怒られると、思った。
「そう、泣くのね……そうよね、あなたはそうやって、泣いて、生まれてきたんだもんね」
母さんの声だ、そう思った。思っていたよりもずっとそれは穏やかな声だった。揺れる髪の間でふるえる唇。もうずっと、思い出せなかった、昔の、昔のままの。
「……帰ろう、姫。大した怪我、してなくて本当によかった」
昔のままの、やさしい母さんがいた。驚いて目を見開く、そこにいたのは確かにあたしの母さんだったけれど、笑っていた。昔みたいに、やさしい顔で笑って、そこにいた。
「か、あさん?」
「ごめん、ね、姫、いままで、ずっと……」
あの母さんが、あたしの前で泣いた。それはかなり衝撃的な映像で、信じられなくて、それでもじっと母さんの言葉の続きを待った。
「弱くて、姫にせいにして、ごめんなさいね。謝っても、許されないことだろうけど」
さっと涙をぬぐい、母さんはいった。
「帰ろう、姫。一緒に、帰ってくれる?」
一度久我の顔を見て、腕を離す。久我もわかってくれたのか腕をほどいた。
あたしは半信半疑のまま、母さんへ近寄った。この人は、こんなに小さかったか。いつのまにか背を追い越して、それでもいつも大きく見えていた。
確かめるようにその頬に、ぬぐい切れなかった涙にふれた。そこには確かに体温があって、それは確かにあたしの母親で、あたしが一番大好きだと思っていた人だった。
「……ごめんなさい」
左手で、母さんの手を掴んだ。ずっと、頑張ってくれてた。ずいぶんとしわが増えた、小さくなった手を、掴んだ。ゆっくり、視線を上げる。
「――っ、ごめん。ごめんねっ」
抱き締められた腕は思ってたよりずっと細くて、母さんの体は薄かった。
最初に、この腕をつかんでいたらよかったのかもしれない。迷わないで、拒絶を恐れないで。
泣かなければいいと思った。わがままをいわなければいいと思った。静かに、大人しく、いうことを聞いていればいいんだと思った。そうすればいつか母さんはあたしを見てくれて、前みたいにやさしく頭をなでてくれるんだと思った。
かなしかったのに、さみしかったのに、怖かったのに、悪いと思っていたのに、あたしはどれも口にしなかった、泣かなかった、謝れなかった。
その代わりに、父さんの死をかなしむ余裕すらなくなった。痛めつけられて罵られて否定されて、それを耐えたらいつか元に戻るんだと思っていた。
始めから、全部口にできていたらよかったのかもしれない。
二人でただ静かに泣いて泣き続けて、言葉になっていない謝罪の言葉を繰り返した。母さんが名前を呼んでくれることを、あたしはどうしようもなく嬉しく感じた。
いつのまにか廊下には久我の母親らしき人もさっき見た女の子も見ていたことはわかっていたのだけれど、一度溢れ出してしまったそれは簡単に止まるものではなかった。
伝えられなかった何年か分の感情があふれていた。
「生きてて、怪我、なくて、よかった……本当に、よかったっ」
母さんは何度も何度もそういっていた。そういってくれた。
泣き疲れたのか、安心しきってしまったのか、あたしは体から力が抜けていくのがわかった。
「姫っ?」
久我の声だ、ずるずると床にへたり込み、うしろへ倒れそうになる。誰かが、久我が体を受け止めてくれたことがわかった。久我がいると改めて思うと、あたしは余計に安心してしまった。閉じたまぶたはもう持ち上がりそうにない。
もしも夢なら、覚めないでこのまま死んでしまいたい。どろどろになって空気になる。
「姫、死んだ?」
「……ばーか」
必死で薄く開けた目の先に、笑っている久我が見えた。
もしこれが夢じゃないのなら、次に目が覚めたときはちゃんと伝えようと思った。芳野のことも、母さんとのことも、この胸の痛みも、すべて伝えよう、そう思った。
あたしは突如襲ってきた眠気に耐えきれずに、そこで目を閉じた。
暗闇にも、夢にも、もう怯えなくていいんだ。安心しきった体はもう、あたしのいうことを聞いてくれそうになかった。
「ごめ、ん……」
必死で唇だけをそう動かすと、あたしはそのまま久我の腕の中で眠ってしまった。すべてが闇の中へ溶けていったけれど、確かにそこには久我の声と匂いがあったから、何も怖くなかった。
***