第5話
最近、ジリジリと太陽が熱を増した。夏はすぐそこにいる。というか、もう夏かもしれない、そう考えて、そういえばもうすぐ七月だったことに気がついた。
昨日は、階段を昇ってる途中で多分わざと、ぶつかられた。耐えきれずに落ちて少し頭を打ったけれど、まだ怪我はしていない。それでも、腕はあまり人に見せられる状態ではなくなっている。
笑い声だけを、覚えている。あたしの耳は、イヤな音ばかり拾う。でもそのどれも、あたしは覚えられなかった。芳野の声も、その取り巻きの声も、曖昧すぎて思い出せない。
いつもの放課後。その日はあたしが行くより早く、久我が待っていた。ピアノのふたも、すでに開いていて、どうやら準備をしてくれたらしい。疲れているのか、久我はとろんとした眠そうな目であたしを迎えた。
今日は子守唄でも弾いてやろうかな、顔を見ながらそんなことを思う。そんなことをしなくても、久我はすぐに眠ってしまうだろう。
「おはよー……」
「寝てた?」
「うー……べつにぃ」
おもしろい生き物が生息しているな、寝ている久我の髪の毛に手を伸ばしかけて、止めた。久我は目を閉じているからか、気付いていないようだ。
こんなこと、本当は止めるべきなのだ。そう思うのに、どうしても言葉にできない。あたしは、罰を、欲しているのかもしれない。
「ねそう……」
そういって久我は机に突っ伏した。それを見て、あたしはくすくすと笑ってしまう。やっぱり子供みたいだ。傾き始めたオレンジ色の陽射しが久我の顔を照らす。その色に、いつかの海を思い出していた。
久我といる時間が出来て、あたしは少し、笑うようになったと思う。放課後のこの時間だけでも、あたしは確実に変わっていた。自分でもわかるくらいに。そしてそれは多分、久我も同じなのだ。
久我といると、何も気にしなくてよかった。何もしなくても怒らないし、焦ることも気を使う必要もない。安心に似たような感情。
突然、今まで寝ていた久我がビクッと身体をふるわせて起きた。机にあごを乗せ、まだあまり開いてない目でしゃべりだす。
「なぁー、うちのクラス、伴奏者でないんだけどー。やって?」
「だから、やらないって」
もうすぐ学校は夏休みに入る。この学校は九月末に『合唱コンクール』なるものがあって、曲決めは一学期中に、というのがお約束だった。
あたし達のクラスは曲も指揮者も決まっている。問題は、伴奏者が出ないことだ。
お決まりというか、指揮者は今そこで眠そうにしている久我で、伴奏者に関して正確にいえば、『立候補者がいない』のではなく『ピアノを弾ける人』がいないらしいのだ。
だから、こうして久我はあたしに絡んでくる。いつもだったら今頃眠っているだろうに、最近ではクラスでもずっとこの話ばかりされる。久我が何かいい終わる前に、あたしは逃げてしまうけれど。
「いいじゃない。アカペラでやれば」
「やってよーっ」
ガバッと起き上がり、バシバシと机を叩く。まるでネジ巻き式のシンバルを叩くサルのおもちゃみたいだ。ため息みたいにふっと、小さく息をもらした。
「あたし、弾けないもん」
「嘘つけやー」
むっとした顔で、久我はあたしの額を指ではじいた。少し痛い。はじかれた所を左手で押さえて、久我を軽く睨む。ひゃは、と久我は笑った。つられてあたしも、自分の唇の端が上がっていることに気がついた。
もし、あたしが伴奏者になったら、ステージには誰もいないかもしれない。いや、あたしが立てなくなるだけかな。
久我が指揮者というのは、芳野達には余計に悪く映ってしまうだろう。去年も同じような理由で担任に伴奏者にされたことを思い出した。今年は多分、久我がこの通りだから担任が出てくることはないだろう。
どちらにしても、だ。たとえ担任がそれを決めようとも『これ以上近づくな』という無言のメッセージは、すでに痛い程感じている。
「……あたしが弾いても、誰も歌わないよ」
「大丈夫。俺が歌うから」
さらりと久我はいう。やはりそれは、どこか楽しそうだ。ずっと、この感覚は消えない。いつまで経っても久我は、あたしの隣で、楽しそうにしてくれる。そんな顔を目にしたらなおさら、あたしは本当のことをひとつもいえなくなってしまう。
どうせ、久我にいってもどうにもならないことなのだ。こうして、普通に話ができるだけでも、本当は感謝しなくてはいけない。この習慣がばれていないのは、ほとんど奇跡だ。
「ひとりじゃ、意味ないでしょう?」
「でも姫、伴奏者にでもならないと参加しないでしょう」
ね、と笑顔で同意を求められる。あたしはどう答えたらいいのかわからなくて、確かにそれはいわれた通りで、視線を逸らしてしまった。去年も、伴奏者だったから練習に参加していただけで、確かに熱心ではなかった。
「ひとりいないのも、ひとりしかいないのもさー……どっちも同じだと思うんだけど。だめ?」
「ダメ」
この動揺は、気付かれてはいけないものだ。誰にも。あたしだって、気付きたくはなかった。
久我の目を見ていると、あたしは否応なく自分の気持ちに気づかされてしまう。見透かしたような、真っ直ぐな久我の目は、嘘をつけなくさせる。
「……しかたねーなぁ。強攻手段しかねーか」
「……なにそれ」
予想してない話の展開に思わず久我を見た。
「イヤ、それはねー、秘密でしょ! んま、明日になればわかる」
そういって久我はいじわるく、にやりと笑った。カタンと音を立てて立ち上がると、距離が縮まった。久我の顔を見上げると、やわらかく笑って、ぽんと頭に手が置かれた。
「帰ろっか」
イヤだ、と反抗したかった。けれど素直に「うん」としか、いえなかった。
「加賀美さんって、柳平と仲良いよな」
その声は突然かけられた。隣の席の男子にだ。帰りのホームルームのときで、ちょうど久我が前に立って、合唱コンクールのパート分けやら伴奏者やらの話をしているときだった。
あたしが声をかけられたことに、さらにその内容に驚いて顔を見ると、話し掛けてきた人物は頬杖をついて、前を見つめていた。
「……そんなことない、」
あたしも前を向いて、目を合わせないままそう返した。周りは騒がしいから、会話は話している本人くらいしか聞き取れないだろう。
上田沁は、久我とよくいるグループのひとりだ。席替えは面倒だから学期に一回、という担任により、クラス替えをしてすぐにやった席替えから、ずっと隣の席だった。それでも、話し掛けられたのは初めてだった。
「だったらなんで、黙ってんの?」
上田の声が少し低く、イラついた、刺々しい声に変わった。あたしは驚いて、目だけで彼を見る。
「あんた、いじめられてんじゃん」
その言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。ぱっと上田の顔を見ると、さっきまでと変わらない退屈そうな表情をして前を見ている。あぁ、そうか。この人は気付いているんだ。
あたしはひとりで、それが以前とは違う、ひとりだってことに。
何も、返すことができなかった。いじめだと思う、あたしも。だけどそれを黙っていて、何か悪いだろうか。
「じゃあもう時間ないし、練習はじめたいしー」
真面目そうに、それでもたまにへらへらと笑いながら、話を進めていく久我。そのうしろで本当はこの話を仕切るはずの合唱コンクールの委員が、書記にまわっている。
「伴奏者、っていうか弾ける人、正直に手を上げなさーいっ」
笑う声、なんとなく、久我に見られている気がする。けれどあたしは上田を睨みつけていたから本当かどうかはわからない。
これはあたしのことなのに、どうして他人にイラつかれなくてはならないのか。あたしは一度だって助けを求めたつもりはないし、いじめられようがかまわないのだ。それをどうして今さら、他人に介入されなくてはならないのか。見てみぬフリをしてくれればいい。そこで良心の呵責だとかを感じられても、困る。
「――おーい、柳平。加賀美さんがやってくれるってよ」
「は?」
「おし、どうせ他にいないだろー? じゃ、加賀美さんは伴奏者決定なっよろしくー」
ざわざわと騒ぎ出すクラスメート。突然向けられた、いくつもの視線。前を向く、あたしの名前を黒板に書く委員。久我を見る、にやりと笑った。
――冗談じゃない、
言葉は喉まで出掛かって、消えた。
「柳平はバカだから、気付いてねーよ」
ぼそっと、最初に話した調子で、やっぱり前を見たまま、上田はそういった。
「……その方が、いいでしょ」
あたしが上田を睨みつけていると、突然こっちを向いたから目が合う。ぶつかった視線には、敵意みたいな、そういうものが込められていた。
「そういうの、エゴだろ。悲観ぶってんじゃねーよ」
「いいがかり、やめて。放っておいてくれない?」
関わるつもりなんて、始めからなかった。あたしのことなんてみんな、関わらないように、いなかったと、思ってくれればいい。望んでいる、それを。あたしはそうなりたい。
いつかは久我だって、放っておけば離れていくんだろう。
「人の気持ちってもんがわかんねーのかよっ」
少し息を荒げてそういった上田を、あたしはただ睨み返した。
そんなもの、わかりたくもない。人の気持ちを理解するなんて、それこそエゴじゃないのか。
ふいっと上田が顔を逸らした。あたしも前を向く。それから上田が話し掛けてくることは、なかった。
「なあ、怒ってんの?」
「別に……」
「やっぱ怒ってんじゃーん! マジごめんって」
ホームルームが終わってすぐ、久我はあたしの下へひょこひょことやって来た。あの犬みたいな、あたしが何もいえなくなる目をして。卑怯だ、わざとだ、そう思いつつも、やっぱりその目を見たら何もいえなくなってしまった。
「だって姫、自分からは絶対いわないじゃん? だから誰かがいえばやってくれっかなーと思ってさ」
全然悪いと思っていないみたいに、肩を竦めて久我が笑った。
「ごめん、あたし、帰るから」
なんとなく今は、久我と話したくなかった。目を、見れなかった。
席を立って、久我を見ないように顔を伏せた。一瞬、上田と目が合う。細めた目、睨まれているような。すぐに逸らして、教室を出た。呼び止められたような気もしたけれど、かまわずに廊下を歩いた。
「加賀美!」
「――っ、は」
うしろから誰かに肩を掴まれた。急なことで誰の声かもわからない。心臓が縮まるほどに驚いて振り返る。顔を見て、やっと息を吐く。呼吸を忘れていたなと、そのとき思った。
「なんの用?」
「ちょっと、来て?」
一見穏やかそうに笑った芳野のうしろには、いつもいる女子が二人。堪えきれないみたいにくすくすとイヤな笑い方をしていた。ダメだ、何回も聞いてるはずの声が、初めて聞いたような知らないものに感じられて、どうしようもなく気持ちが悪い。
返事も聞かずに芳野がスタスタとあたしを抜かして歩き始めた。ついていかなければいけないのだろうか。そんなことを考えているうちに、うしろから背中を押された。よろけて二、三歩踏み出す。行かなきゃいけないのか、あたしは黙って芳野のうしろをついていった。
着いた所は、使っていない空き教室だった。資料室や図書室、音楽室に視聴覚室だとか、普段の授業ではあまり使われないような特別教室ばかりある、あたしがいつも来る第二校舎の中にある、特に名前も付いていないような教室だ。当然、人気はない。
「むかつくんだよねー」
「ホント、どんな方法で近づいてんだか知らないけどさー」
よくわからないまま、突き飛ばされた。後方へよろけて、壁にぶつかる。もう一度、今度は強く、両肩をつかまれて壁に押し付けられた。
「――っ、ぁ」勢いに負けて頭を打つ。
そのままずるりと壁にもたれる形で体勢を崩すと、髪の毛を引っ掴まれた。座るに座れなくて、痛さに目をつむった。
「調子のってんじゃねーよ、ブス」
わけのわからない言葉を何度も吐き出されたけど、そのほとんどを忘れてしまった。覚えているのは、笑う声の気持ち悪い高さくらい。
殴られたかもしれないし、蹴られたかもしれない。よくわからない。空きっ放しの掃除用具入れと倒れた箒も見えたから、もしかしたらそれを使って叩かれたかもしれない。とにかく体中が痛かったし、目を開けるのは億劫だった。
あたしがやっと目を開ける気になったのは、ある音がしたから。チキチキと、カッターの刃を出す、あの音だ。
「いつもカーデ着てるけどさ、あれ、痛かった?」
薄く開けた目に映るのは、さっきの女子三人。それから、カッターの刃。
「でもさ、これならもう、隠せないよねー」
髪を引っつかまれる。頭がちぎられるみたいで痛い。――あぁ、それだけはやめてほしい。そう思ったけれどもう、掠れた呻き声しか出なくて、カッターの刃、その先にはずっと伸ばしてきた、あたしの髪の毛。
はらりと、床に髪の束が落ちた。だらりと力なく垂れていたあたしの腕にもそれはかかって、くすぐったいような変な感覚がした。
「ねぇ、わかった? もう二度と、近づくなっていってんだけど」
「あたしらだって鬼じゃないしー、加賀美が約束してくれんならこんなこと止めるって」
「いいから返事、しろよ」
「っあ、んぐ、」
むわっと生臭い匂いがして、ぱさぱさしたものが口の中に押し込められた。布、タオル、雑巾? 元からしゃべるような気力はなかったけれど、異臭と口の中の異物で呻き声すらくぐもってしまう。気持ち悪い、けれど吐き出すような力もなかったし、誰かが吐き出させまいとぐいぐい押し込むから息もままならない。
「ほーら、早く返事しろよ」
「伴奏者もさ、必要以上に近づいちゃダメなんだからねー?」
破ったら指でも折っちゃう? という恐ろしい言葉が聴こえた気がした。そんなことをされたら、死んでしまう、と思った。
この人達はあたしのすべてを奪うつもりだろうか。それならいっそ、苦痛もすべて取り去ってくれたらいいのに。
死ねば、楽になれる? あたしはどうして、生きていたかったのだろう。今以上に怖いことなんて、ピアノが弾けなくなる以上に怖いことなんて、何かあっただろうか。
吐き気を感じたけれど、嘔吐するよりも呼吸をすることに必死だった。息苦しくて、意識を保っていられそうにない、と思った。
それでもなんとか誰かが階段を昇るような足音を聞き取って、それから名前を呼ばれたような気がした。
朦朧とした頭、力の入らない体。あたしは必死になって、左手で思い切り壁を叩いた。そこはちょうどドアで、がたんと予想していたものよりも大きな音が響いた。
「あんた、なーにやってんの? そんなことしてなにがいいたいワケ?」
足音は、確実に近づいてくる。二人分だ。勢いよく、ドアが開いた。
「姫ー?」
女子生徒の息をのむ声。
「なに、やってんの、お前ら」
誰、わからない。首を動かして、左側に目をやる。やっぱり、二人いる。あたしを名前で呼ぶ人なんて、もう、ひとりしかいないじゃないか。
迷うことなく、誰かも見ないまま、目を閉じた。どうなってもいいんだって、思った。きっとどうにかしてくれる、そう思った。
そのまま一切の音が聞こえなくなった。
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