第4話
あの日から、何かが変わり始めていた。
あたしの中の何かも、周りの何かも、すべてが変わっていきそうな気がした。わからないのに、見えないのに、それでも何かは変わっていた。
あの日、久我と始めた会話をしたそのときからずっと、それは始まっていたのかもしれない。
久我と一緒に過ごす時間は増えていった。ほとんど毎日放課後になると、久我はいつのまにか音楽室にやってくる。
知らない間に音楽室のどこかにいて、じっとあたしがピアノを弾くのを見ている。それはやはりどこか冷めているような、一線を感じさせるもので、不快なものではなかった。
そんな、誰も知らない放課後。そしてこれは、久我が知らない放課後だ。
「調子のってんじゃねーよっ」
「なにしたんだっつーの、あんた」
「エンコーでもしてんの? そんでさー、久我くんも誘ったんだー」
「うわ、サイテーじゃん、ヤリマンとかさぁ」
「センセー、この人セイビョー持ってまーす!」
「やだ、汚いし! 移さないでよねー」
目が合っても見えないフリをしてわざとぶつかってくる。何かの用で話しかけることがあっても無視される。無視された、かと思えば通りすがりに耳元で低く蔑まれる。
「悪女」「尻軽」「死ね」「ウザい」「消えろ」
くつもノートも教科書も、子供じみたいたずら――いわゆるいじめ――の跡がくっきりと残っていた。何をいわれたのかも、何をされているのかも、もう自分ではわからなかった。
まさか高校に入ってまでこんな低レベルなことされるとは、感心にも似たため息がもれた。
別にどうにかしようとは思っていない。あたしは何もしないし、何もいわない。何も感じない。だから、抵抗も原因もどうでもいい。
それでも原因は、わかりきっていた。久我とあたしが関わり出したせいなのだ。
放課後の習慣を芳野が知っているとは思えない。そのことに関して一度も触れてこないからだ。
けれど確実に、教室での久我の態度は変わっていた。久我はあたしと目が合うと、笑う。それは作った愛想笑いじゃないし、久我は堂々と話しかけることもある。それを見ていた担任なんかは、『仲良くなったんだったら加賀美、このバカに勉強教えてやってくれよ』なんてことをいい出す始末だ。
きっと芳野には、あたしから久我に近づいたように見えている。違うのに。本当に、あたしは何もしていない。と思う。
教室でのあたしは変わらずひとりで、でも、以前とは違うひとりで。
だからあたしは、学校が嫌いなのだ。他人じゃない誰かと過ごすことは、苦手だ。いつだってうまくいかなくて、息苦しい。
あたしは、いない存在になりたかったのに。
今まではうまくいっていたのに。
「――っ、いっ」
「あ、ごめーん」
うしろからくすくすという笑い声が続く。六月で夏服への移行期間。半袖のシャツで、腕を守るものが減った。その途端に、あたしは長袖のカーデガンが手放せなくなった。
「もう、カッターの刃、危ないじゃん。ちゃんとしまわなきゃー」
「うん、ごめんねー。でも怪我しなくて良かったー」
まるで何事もなかったかのように、女生徒三人は笑いながら通り過ぎていった。暑さに耐え切れずに、カーデガンを脱いでいたのがいけない。あたし自身は何もしていないのに、あたしの腕には切り傷が耐えない。
綺麗に一筋の新しい赤い線が浮き上がる。傷自体は深くはないけれど、あたしはどうして、こうして傷つけられなくてはいけないのだろう、と思う。考えるだけ無駄だとわかっていても、考えずにはいられない。
あたしが何も反応しないのを、いいと思っているのだろうか。彼女達は、一体あたしをどうしたいのだろう。苦しめたいだけなのか、それとも殺したいのか。
あたしは、何もわからない。ただ、理不尽だな、と思う。だけど、あたしはそういうものを吐き出されるために、ここにいるのかもしれなかった。それならそれで、いいと思った。そうあるべきなのかもしれない、そう思った。
「なぁ、そんなの着て、暑くないの?」
「……別に、普通」
「そっか、」
思わずさっきの傷を、カーデガンの上から押さえる。気付かれちゃ、いけない。久我は、知らない方がいい。こんな汚い醜い感情は、あたしの中でしまっておくべきだ。
放課後の時間はあたしにとって大切な時間で、同時に手放すべきものだった。
それでも、わかっていても、久我になんていったらいいのかわからなかったし、ピアノから離れる選択はできなかった。ここが、この場所が唯一のあたしの居場所だった。
ふと、いつか久我がいっていたことを思い出す。きっと、あたしにとっての家はここなんだろう。
適度な広さ、あの人が知らない場所、そこにピアノがある。なくしたくなんてない。
いつかここを卒業して、働くようになって、そうしたらあたしはあの家を出ていかなければならないのだろう。そこできっと、やっと、本当の家を手に入れるのだろう。それまでここが、あたしの家なのだ。
帰る場所は、誰にも奪われたくなかった。この場所を今なくしてしまったら、あたしが壊れてしまうと思った。
いつかここを離れてしまう。離れなければいけないときが来る。それと同じように芳野も久我も、いつかなくなるものだ。そんなもののために、家をなくしたくはなかった。一日だって放したくなかった。その間に誰かに奪われたら、あたしはどうしたらいい?
考えても考えても、今以上に当たり障りのない状況なんて思いつかなくて、どうにもできない苛立ちと自分の弱さとわがままさ加減がどうしようもないものに思えて、帰りの電車の中であたしは少しだけ、泣きそうになってしまった。
わからないように、家へ入るのは難しい。
今日は、あの人の仕事は休みの日だ。気付かれないように、あの人の世界を壊さないように、アパートの階段を昇る。ただ、機嫌がいいことを祈りながら玄関へ向かう。
鍵を取り出し、開ける。起きていたらこの音で気づくだろう。その代りに玄関のドアを、音がしないように静かに開けた。けれどその音は、あたしにはひどく大きく、重く、響いてくる。できる限り呼吸を長く、深くする。それは家に入る前の、落ち着くための、儀式みたいなものだ。
「……ただいま」
声がふるえないように気を付けながら、刺激しないように小さな声で、帰ってきたことを知らせる。カタンと、何かの音がした。必要最低限の音を出さないように、くつを脱いで家の中へ上がった。
廊下をずっと奥までいったリビングへ続くドアの、すりガラスの向こう側に、あの人の姿を見つけた。いつものソファの上に、座っているのだろう。黒髪が見え、テレビの音がもれていた。
あたしは音を立てないように、あたしの部屋へ、この家に唯一用意された、あたしの場所へ、静かに向かう。部屋のドアノブに手をかける。ガチャン、と大きな音がして心臓は飛び上がったように大きく跳ね、なんとなくドアノブにかけた手をぱっと離してしまった。あたしじゃない、音のした方を振り返る。
「――っ、」
「……あんた、」
母さんが口を開けたのを見て、思わずびくりと反応してしまう。こんな声、していただろうか。母さんの声を聞く度、毎回別人のような気がする。どうしてか、母さんの声だけは覚えられない。
「これ、仕事、したいの?」
なぜか母さんが持っていたのは、あたしが買った履歴書だった。途中まで書いて、机に置き去りにしていたもの。あたしは、辛うじてうなづくことが出来た。けれど、足はふるえていた。
「ふーん。出てくの? ここ。それでお金が、いるの?」
あたしはどう答えていいかわからずに、ただ母さんの瞳を見つめ返した。
ここを出ていく、それは母さんが望んでいたことではなかったのだろうか。それとも、今すぐに追い出されてしまうのだろうか。
「なんとかいったらどうなのよ!」
ぴしゃりと、母さんが叫んだ。酔っている。彼女が話す度にアルコールの匂いが強く鼻をついた。
「ちがう、けど。お金は、自分で稼ぎたい、と、思って……」
「うるさいっ」
完璧に酔っている。あたしは母さんが望む答えを考えることを諦めた。何をいっても、きっと同じだ。
何があったのかは知らないけれど、母さんはものすごく機嫌が悪いようだった。あたしはどうしたらいいのかわからずに、ただ黙って彼女の言葉を聞いている。小さな頃から何度も何度も繰り返されてきた、呪文みたいな言葉がまた、母さんの口から紡ぎ出された。ぼそぼそと早口で、知らない人が聞いたら何をしゃべっているのか到底理解できないだろうけれど、あたしにはその言葉が痛いくらいにわかったし、頭の中でも二重になって、別の声で、繰り返されて、うるさいと叫びたくなった。
「誰のせいでこんな目に合ってるのよ、この恩知らずっ。あんたがいなきゃ幸せだったのに……誰がここまで育ててやったと思ってんのよっ!」
母さんは最後にそれだけ大きな声でいうと、右手の親指の爪を噛んだ。酔っている。この人は、酔っているのだ。
「いいわ、もう。お酒買ってきてちょうだい。なんでも、飲めればいいわ。あぁ、なんか、枝豆がいい、食べたいわ。それも買ってきて」
それだけいうと、彼女はまたリビングへ戻り、ばたんとドアを閉めた。あたしはとりあえず部屋へ戻り、制服を着替えた。お酒なんて、買えるのだろうか。だけど母さんになにかをいう気にはなれず、あたしは黙って家を出た。
《あんたさえいなけりゃ、あたしは幸せだったのに》
何度だって、その声は繰り返す。あたしに警告を、与え続ける。
知っている、あたしだってそう思う。あたしさえいなければ、きっと幸せだった。そういう未来がきっと、あの人には用意されていたのだろう。
《あんたさえ、いなければ――っ》
あたしさえ、いなければ。
あの人は酔うと、急におしゃべりになる。いつも、あたしの存在なんていなかったことにしているだろうに、お酒が、あの人を変える。それでも、酔っていても、あの人のいうことはきっと、すべて正しい。
あたしは財布を左手に抱え、近くのスーパーへ向かった。小さなスーパーだ。コンビニの方が家からは近かったのだけれど、そこへは制服で入ったことがあるから、止めておいた。だいたい、枝豆なんてものは、コンビニには置いていないだろうと思った。
白い、着古したTシャツに、青いジーンズを穿いただけの、非常にラフな格好で歩いていく。足元は、ビーチサンダル。駅とは反対側の、車一台がやっと通れるくらいの細い道をひとりで歩いた。本当は、一本向こう側の大通りを歩いた方が近い。けれど、あたしは車が好きじゃない。だから、この細い道をわざと選んでいつも歩く。
今はまだ、フラッシュバックが怖い。
《姫、見える? あの雲、おさかなさんみたいだねぇ》
そういえば父親とは、よく空を見ていた気がする。肩車をしてもらって。あたしは、父親の髪を触るのが好きだった。
あたしさえいなければ、あの人も死んでいくとき、そんな風に思ったのだろうか。空を見て、そこがあまりにも青くて、雲ひとつ見つからなくて、あたしはそこで考えるのを止めた。
わかるわけがないのだ。そんなこと、わかりたくもない。
スーパーに着いて、入口で緑色のかごをひとつ持った。中に財布を放る。枝豆と、お酒。それだけ買って、早くあの家に戻ろう。戻らなくちゃ。帰る、は、多分違う。
ふらふら視線を泳がせながら、店内を回った。枝豆は冷凍のものを取って、お酒は安いビールとチューハイをぜんぶで四本、かごに入れた。すでに酔っているのだから、これだけあれば充分だろう。安かったから、ヨーグルトも一緒にかごに放り込む。ストロベリー味。レジは空いていて、中年のおばさんとあたしと同じ歳くらいの青年、二人の店員がいた。あたしは奥にいた青年の方のレジへ向かった。お酒は簡単に買うことができた。
家に戻ると、さっきよりもそこはずっと静かになっていた。テレビの音がしないんだ、と、すぐに気がつく。
「……おかあ、さん?」返事はない。
キィキィ軋む廊下の音が、疎ましい。あたしは半分開き直った気持ちで、リビングのドアに手をかけた。五センチくらい開けて、左目で覗き込む。淡いブルーのソファが目に入った。いつも、母さんが座っている場所。だけど、姿は見えない。あたしはそのままリビングへ入り、ソファの上を背伸びをして覗き込んだ。背もたれで隠れて見えなかったけれど、母さんはそこで眠っていた。ガラスのテーブルにはすでに空になったビールの缶が五、六本転がっていた。いつから飲んでいたのだろう、この人は。
「かあ、さん?」
ソファへ近づく程に、アルコールの匂いはひどくなった。眠っている。静かに上下する肩を見て、安堵した自分がいた。
顔をよく見ると、そこには涙の跡があった。泣きながら、眠ってしまったのか。あたしは自分の部屋へ行き、毛布を引っ張ってくる。あたしが使ってるものなんてこの人は嫌かもしれないけれど、母さんの部屋に入るだけの勇気はなかった。
買ってきたものをすべて冷蔵庫に入れて、ヨーグルトと店員がつけてくれたプラスチックのスプーンを持って部屋へ戻った。ドアを閉めてそのまま座り込む。ドアを背もたれにして、ヨーグルトのふたを開けた。スプーンのビニールを破って、その辺にゴミを放る。
一口、口に運ぶ。甘い。
あたしは、あの人が怖い。未だに、怖い。
あたしは、いない存在になりたかった。いない、それでもいい。生きていたい。それ以上は、望まないから。
「……ごめんなさい」
わがままなあたしをどうか、許してください。許せなくても、せめて認めてください。
床の軋む音が聞こえた気がした。食べ終えたヨーグルトのカップを床へ放る。
「ごめんなさい……」
足を抱き寄せて、そこへ顔をうずめた。そのまま夜が来るまで、あの人が眠るまで、そこで耳を澄ませて、ただただじっと座っていた。
ここには朝なんて、永遠にやってこないんだよ、自分にいい聞かせるように、頭の中でそっと呟いた。
***