第3話
ピピピと目覚まし時計の電子音がしてあたしは飛び起きた。急いでアラームを止める。それからじっとベッドの上で息を潜め、部屋の外から音がしないことを確かめる。
しばらくして、母親を起こしていないとわかったあたしはほっと息を吐いた。それからTシャツに中学のジャージという寝巻きのまま、大きな音を立てないことに細心の注意を払って部屋の外へ出た。
そっとリビングを覗くと、ソファには誰もいなかった。ただそこにあったガラステーブルには空のビールやチューハイの缶がいくつか置いてあった。それを両腕で抱え、台所に向かう。
適当にゴミを処理し、冷蔵庫を開ける。牛乳のパックを取り出して、コップに注ぎ一気に飲み干した。それからそこにあるもので弁当を作り始めた。余ったおかずは皿に取り分けてラップをかけ、冷蔵庫へしまった。気づいたら母親が食べるだろう。
それから食器を洗い、一通りの家事を終える。この時間は洗濯ができない。母親を起こしてしまうからだ。いつも休日にまとめてやる。二人分の洗濯はそんなペースで十分だった。
顔を洗い、制服に着替える。一通りの準備が済むと、家を出るのにはちょうどいい時間になっていた。
あたしは何もいわず、極力音がしないように玄関のドアを閉め、鍵をかけた。それからすぐにそのアパートに背を向けて、駅へ向かった。
あたしが学校に着く時間帯、教室に人の姿はほとんどない。その日も誰もいない教室に着き、時計を見ると始業までは四〇分程の余裕があった。
席に着くと、とりあえず、と思いロッカーから今日ある教科の教科書を準備する。空だった机の中にそれらを詰め込み、すぐに手持ち無沙汰になった。しょうがないので適当に教科書をめくり、時間を潰す。
いつも通り、そうして過ごしていた。
「おはよう!」
うしろから、突然声がした。それとほぼ同時に視界にあった教科書が楽譜に変わる。誰かが入ってきたことに全く気がつかなかったあたしは、びくりと肩を揺らした。
「……久我、」
「へへ、やっぱ早いなー。あ、楽譜返すね」
「ありがと……」
眠いのだろう、振り返った先にはどこかとろんとした目つきの久我がいた。今にも閉じてしまいそうだ。
「ね、加賀美はケータイ持ってる?」
「ない」
「じゃ、家電教えてー」
「連絡網でも見れば?」
「ケチィー、俺の番号教えてあげるって」
「別に、必要ないし」
「いーの、毎晩かけてよ! そこは」
寝惚けている、口調までどこか舌足らずになっているし、いっていることがめちゃくちゃだ。でもそんな久我を見ていることに、どこか優越感にも似た感情を覚えてしまう。
「で、なんか用?」
「んー、特には?」
首を傾げ、深く深く笑った。作り笑いだ、本当は用があるのだろう。
「早く、いいたいことあるならいえば?」
それだけいって、あたしは視線を逸らした。返してもらった手の中にある楽譜を見つめる。確かに、あたしの楽譜だった。久我はこれを、どこから持ち出したんだろう、ふと疑問がわいた。
「じゃ、写真撮らして?」
「昨日断った」
「えー、でも楽譜返したよね?」
「……そうだけど、」
「じゃあー、放課後遊びに行っていい?」
「は? どこに?」
「音楽しつー、ダメ?」
楽譜が勢い余って力のこもった手の中で無残にもくしゃりと音をたてた。
「……知って、たの?」
「うん、けっこー前からね」
あたしは思わずため息をついた。人に聞かれていたとは思っていなかったからだ。誰かに聞かれるのは、あまり好きじゃない。それが自分だと知られているならなおさらだ。
「えーっと、ダメ? 俺、ジャマしないよ? おとなしくしてるし、ね?」
机をじっと見つめていたあたしの表情をうかがおうとしているのか、背後からぐっと背中を曲げて横から覗き込もうとしてる。
結構前っていつから、どこで聞いていたんだ。ぐるぐると頭の中で口に出せない疑問と憤りが回っている。確かに、大人しくしているのだろう。現に今まで誰かに邪魔された覚えはない。
「ねー、聞いてる? 加賀美ぃ?」
あぁ、じゃあやっぱりあの日、あたしは楽譜を音楽室に置いてきたのだろうか。確か途中で郵便局に行かなきゃいけないことを思い出して、あわてて帰ったのだ。そう、初めは確かにあったのだ。だからきっとそのときに置いて来て、久我がそれを取っていった?
「もー、返事しろよ。加賀美ー、もう姫! 姫って呼んじゃうよー?」
あぁ、でもそう考えるとあの日も久我が聴いていたことになる。嘘だ、嘘であってほしい。記憶違いかもしれない、もしかしたら教室に、でも教室で楽譜なんて出すわけがない。わざわざスクールバッグから盗っていくなんてさらに考えにくい。何しろ目立つ。
「姫、姫、ひーめーっ!」
「うるさい!」
はっとして大きな声を出してしまった。久我が驚いているが、あたしも自分に驚いていた。何が起こったんだ。
「っくりしたー、」
「ごめん……」
放心した状態のまま、謝罪の言葉を口にした。何か変だな、そう思ったがそれが何なのかはわからない。
「で、放課後いい? 姫」
「……ん」
どうせもう聴かれているし、かまわないか、と思った。自分の知らない所で聴かれている方がよっぽど怖い。
「なーに、姫。それってオッケーてこと?」
何か変だ、思いつつもうなずいておいた。
「やりっ! ありがとー」
「あぁ!」
おかしい、違和感の正体に気づいたあたしは思わず大きな声を出してしまった。それからきっと久我を睨みつけた。
「えっ、ちょ、やっぱダメとかなしだよ!」
「名前!」
「は?」
「名前で呼ばないで!」
あたしがそういうと、久我はわけがわからないというようにぽかんとした表情を浮かべて固まった。それからしばらくその間抜けな顔を睨んでいると、突然笑い出した。
「ちょ、や、カワイー! 何この子! カワイー!」
「うるさい、ちょ、騒がないでよっ」
「カーワーイー! ちょ、ダメ! 耐えらんない! 俺、走ってくるー!」
「はぁ?」
そのまま久我は本当に走って教室を飛び出していった。それから始業のチャイムが鳴るギリギリまで、教室には戻ってこなかった。教師とほぼ一緒に教室に入ってきたときには、一緒にいた上田沁のうしろから思い切り抱きついて、ほとんど引きずられるようにして入ってきた。
「せんせー、こいつ重い。どうにかしてくださーい」
「ヤバいんだって、マジで! どーしよー、シン!」
「お前ら朝からうるさいな、とっとと席つけ。久我、お前は何がしたいんだ」
「え、セーシュン!」
「あほか」
クラスメートがそんなやり取りを見て笑い、会話をしながらも上田は久我を引き剥がし、あたしの隣にあった空席に座った。本当に久我はあほだ、あたしはため息をつき、窓の外を見つめる。空はどこまでも青く晴れ渡っていた。
放課後、あたしはひとりで音楽室へ向かう。この高校に入学して、音楽室の設備を知ってからずっと習慣になっている。
第二校舎へ行くには、今いる二年の教室が並ぶ第三校舎の二階から渡り廊下を歩けばすぐだ。帰る準備を整え、スクールバックを肩にかけて教室を出た。
そのときちらりと見かけた久我は、教室の掃除当番だったらしく箒を振り回して遊んでいた。一体どこの小学生が紛れ込んでいるんだ、と呆れてしまうが、久我を含めた他のクラスメートの楽しそうな声を聞いて、いくつになっても結局、やっていることは子供の頃と大して変わっていないのかもしれないと思った。
階段を二階分登る。いつも通り、どの教室からも人がいるような気配は感じられず、とても静かだった。あたしの足音だけがやたらと校舎に響いている。
あたしはいつも通り、ピアノの蓋を少しだけ上げて、音が響くようにする。本当は奥にいくつか練習室として、小さな個室が三室、そこにピアノが一台ずつ完備されている。防音もしっかりしているが、白い壁紙に囲まれたあの狭い空間はどうにも馴染めないので、あたしはいつも音楽室のピアノを使っている。
少しでもどこか遠くへ、音が届いていきますように。あたしの音が、響いていきますように。どろどろにあたしを汚染しているこの空気に、この音が少しでも残っていけばいい。そうしたらあたしは、この音と一緒になれる。
そんな無謀な願いを、指先にのせる。
いつか、あたしの呼吸を妨げている、この喉の奥の塊も、音にしてとばせたらいい。そんな風に、思った。
言葉も目もいらない。ただ、音が残ればいいなと思った。音になって消えてしまいたいと、思った。空気に残るわずかな振動の中に、溶けていきたい。
鍵盤にかかっているカバーをはずし、白と黒のなめらかな手触りを感じる。
ポーンとひとつ、音を出した。弦を叩く、確かな感触。この瞬間が一番、好きかもしれない。
あたしは椅子を引いて浅めに腰掛けた。浅く腰掛けて立つようにして弾く、一番落ち着ける姿勢だ。
そのまま、思いつきにまかせて、曲を弾く。大抵は誰かの曲。たまに、即興で。一度弾き終えたら、気に入ったフレーズやミスした小節、納得いかないところを、気がすむまで繰り返していく。
なんでもいい。なんでもいいから、弾いていたい。その間だけはあたしを誰も邪魔しないし、何も気にならない。だけどあの、ドアの向こう側が気になっている。昨日のことを考えると、いつものようには集中できないでいた。
落ち着かない心臓も頭の中で繰り返している映像も声もすべて必死でかき消すように鍵盤を叩く。それでも落ち着かずに、ただ弾き続けていた。それもガチャリと大きな音と共に扉が開いたことで、あたしの集中力も落ち着かなかった心もさっと波のように引いていってしまった。
久我が来たのか、まさか、ありえない。そう思って目を向けると、そこには女子生徒が立っていた。見たことある顔だな。始めはそれくらいにしか思わなかった。これは、あたしが出ていった方がいいのだろうか。
何をいわれるのか、彼女は何をしに来たのか、そう思って彼女の動きを待っていると、その子はずかずかと肩を怒らせてあたしに近づいてくる。その顔は強張り、怒りに満ちていた。空気は一瞬にして張り詰めたものに変わった。
自分が何をしたのか思い出そうとするが、誰かと会話をした覚えすらないあたしは当然ながら面食らった。ただ、彼女の顔をじっと見返すことしかできなかった。
化粧をしてぱっちりと開かれた目は、今にも泣きそうに潤んでいる。この顔は、見たことがある。そうだ、クラスメートにこんな顔の人がいた。名前は確か、芳野麻衣だったか。女子生徒の中ではリーダー格というか、クラスの中でも目立つ存在だった。
赤茶に綺麗に染まった髪、身長はあたしより五センチくらい低かったか。スカートが短い、細い身体。
確か、いつも久我がいるグループの中にいた人だ。その光景を思い出して、きっと彼女は久我のことが好きなのだろうと思った。クラスでもよく久我と芳野麻衣の二人をからかう声を聞いたことがある。もしかしたら二人は、付き合っているのかもしれない。
とにかくあたしは彼女のただならぬ気配を察知して、ピアノに視線を戻した。そこに、ない楽譜を思い浮かべてみる。弾かなくても流れだすメロディー。心地よい、音。それ以外にここから逃げる方法が、思いつかなかった。
彼女の怒りは確実にあたしへ向いている。
「あんた、一体、なにしたの」
少しふるえた声で、でもどこか強い威圧的な口調で、芳野麻衣はいった。それは呆れる程に怒りの感情がはっきりとしていた。火を見るより明らかって、こういうことかもしれないな、ぼんやりとそう思った。
「なにって?」
あたしは、わからない、という風に返す。実際、わからなかった。人違いじゃないのか、と思わずいいそうになったが、とりあえず話を聞く心情にはなっていた。
芳野麻衣は、眉間に深い皺を何本も作り、あたしを睨みつける。さっきよりもさらに、強く。
「あんた一体柳平になんていったのよっ……、どうやって近づいたの!」
声が上ずって掠れている。芳野の様子から、完全に興奮して頭に血が上っているのは明らかだった。何をいっても、まともに聞けるような状態ではなさそうだと判断する。
こういう状況に慣れていないあたしは、ただ座っていることしかできない。ただ黙って、聞いていることしかできない。
「なんの、こと? 多分、芳野さんが思ってるようなことなんて、なにもないけど……」
抑揚なく、返す。刺激しないようにと静かに口を開いたが、いってから言葉を考えていなかったことに気が付いた。今の状態から考えたら、これは喧嘩を売ってるようにも聞こえるかもしれない。むしろ、これだけ興奮している人間にはどんな言葉も無効だろうか。
横目でちらりと見た芳野は、すでに泣き出している。透明なしずくがしたしたと彼女の頬をつたう。
「なにもないわけないじゃないっ! あんたなんか、あんたみたいな根暗な奴なんかに、なん、で、柳平が……っ」
ヒステリックにそれだけいい切ると、またさっきのように、目をきっと鋭くさせて、睨んだ。
そんなに気になるのなら、久我に直接いってしまえばいいのに。そんなこと、あたしだってわかるわけがないのだ。こんな風に誰かに理不尽な追求をされるなら、自分からはっきりと聞いておけばよかった。
あたしなんかより芳野の方が、ずっと久我に相手にされている、と思う。
せいぜい退屈しのぎだ。きっと、その程度。
「……なによ、その目。バカにしてるんでしょう……っ、むかつく、こっち向けよっ」
そういったから、見上げるように芳野の方を向いた。
やっぱりこの人は、かわいい。女の子だ。多分、守りたくなるような。
一瞬、何か冷たいものがあたしの頬を走る。その直後、そこは熱を帯びた。殴られた、と認識するのには結構時間がかかった。目の前でこんなぼろぼろに泣いている人間に、こういう衝動があるものだとは思わなかったのだ。
芳野は唇を噛み締めて身をひるがえし、走っていった。扉の閉まる音が、あたしのところまで重く、響く。泣いていたな、やっぱり最後に、そう思った。あたしのせいではないはず、なのに、あんなのただの言い掛かりなのに、あぁ、悪いことをしてしまったな、と思った。
芳野が出ていったのを見計らったように、外階段の扉が開いたのはすぐだ。そいつと目が合うと、あたしは反射的に、皮肉に笑ってみせた。笑ってるだなんてとてもいえないような、きっとひどい顔をしていたと思う。
「盗み聞き、」
ひょっこりと顔だけ出した久我は、本当に情けない顔をしていた。
「ごめん」顔の前で両手合わせて頭を下げている。
その姿は単純に間抜けで、おもしろいものだった。笑ったかもしれない。わからない。
胸まで伸ばしていた髪が、殴られた頬を隠していた。髪が覆っているせいで、そこには余計に熱がこもっていくようだった。
久我はそのまま音楽室の中に荷物と一緒に入り込んで、あたしに近づいてくる。ぱたぱた、小走りで。それから膝をついてしゃがみ込むと、覗き込むように、あたしの髪をかきあげた。
「別にいいけど。でもなんでそんなところか――」
「ああっ! おま、腫れてきてるし! ちょ、待ってろ」
「いいって、あ……」
あたしが止めるのも聞かないで、久我はさっきよりもずっと早く走って、行ってしまった。勢いよく閉まった扉の音は、思いの外大きな音をたてた。
「バカだなぁ」
無言の扉に、言葉を投げた。急にこの場所が空虚なものに感じられた。こんなに頬が熱いのは、殴られたせいじゃないかもしれない。
だってもう、熱いの、左側だけじゃないから。顔全体が、久我が触れた髪の毛の先まで全部、別の生き物みたいだと思った。
あたしはもう、きっと、あの目だけは忘れられないんだろう。きっと、久我の目だけは忘れない。
そっと、左の頬に触ってみる。熱い。殴られたせいだ。それ以外の原因なんてない。
誰もいなかったけれど、誰にも見えないようにうつむいた。髪の毛が視界を埋めていく。だんだん見えなくなった。
目を閉じても、思い出すのは久我の瞳の色だ。
《あんたなんか、あんたみたいな根暗な奴なんかに、なん、で、柳平が……っ》
「――っ、」
急激によみがえる、さっきの声。芳野、泣き顔。
あたしは、何をしているんだろう。こんなの本当は、おかしい。あんな風に、久我があたしのために何かするなんて、泣いて帰っていった芳野じゃなくて、あたしに。芳野のいった言葉は、本当にその通りだと思う。
ギイィと、ドアの開く音がした。神経が瞬時に扉を開けた人物へ向かう。鉄の扉を、自分の体重をかけるみたいにして開けて、その人は入ってきた。久我だ。袖をまくって、白いタオルを持っている。どうやら手が、濡れているらしい。
それからまたぱたぱた、小走りであたしへ近づいてきた。
「とりあえずこれで冷やせ。悪いな、氷もらおうと思ったんだけど、先生いなかった」
息を切らして戻ってきた久我は、迷うことなくあたしの頬に濡れたタオルを押し付けた。それはひんやりしていて気持ちいい。あたしは伸びた腕の先を、久我の顔を、見上げた。
「……あたしなんか、関わらない方がいいって。あんなかわいい彼女さん泣かせてどうすんの」
「彼女じゃないし、」
「同じだよ」
芳野が久我のことを好きなのは、変わらないから。二人は周りに認められていて、あたしは根暗な奴だから。
こんなのは、おかしいのだ。あたしは多分、いや確実に、久我とは関わってはいけないの種類の人間だ。あたしみたいなのは、もっと、誰とも関わらない所にいるべきなのだ。今までだってそうしてきた。そのことを一番理解しているのは、あたしだ。
そしてあたし自身も、そうすることを望んでいるから。
「ごめん……俺のせいでこんな――」
「そんなのどうでもいーって」
別に、殴られたこととかどうでもいいって。あたしみたいなのは、どうでもいいんだって。
声には出さずに、そう付け足しておいた。
「こんなの、すぐ、治る」
違う、もっと……久我には大切なことがある。あたしと関わらなければ、きっと違う展開になっていたはずの、そういう未来が。誰にだって、ある。
「よくねぇよ! 姫は女なの――」
「でも、芳野さんだって……傷ついてるんじゃない?」
久我はうつむいたきり、何も答えなかった。そこはただただ、静かだった。
誰にも見せない、その胸の奥で。誰も入れない、気持ちを持って。そういうものはきっと、生きていればみんな大なり小なり持つものだ。誰にも理解されない、理解されたくない、この気持ちはだれにも負けないとか、そんな風に思うことはきっと、ある。
たとえば芳野だって、久我を想う気持ちは、そういうものは、変わらないはずだ。
「でも、俺、応えられねえし……。それに、俺は姫が撮りたいんだよ」
「なんだ、それ。答えになってないって、」
「姫しか、撮りたくないんだよ」
久我はあたしに、もしかしたら自分にいい聞かせるかのように、少し強い口調でそういうと、目が合う前にがたんと椅子を引いて、そこに座った。不意に手を放されたせいで、濡れタオルはべちゃりとスカートの上に落ちた。あたしはそれを拾って、また久我を見つめた。
背もたれに寄りかかり、目を閉じていた。それから、さっきとは打って変わって、やさしい口調で呟く。
「あの曲、弾いてよ」
あたしはタオルを久我の座っている席の机に置いた。それから鍵盤に向かって座りなおす。ひとつ深い呼吸をおいて、あの曲を弾いた。名前のない、あの曲を。
おそらく、今泣いているであろう、彼女を想って。
あたしの曲を求めた、彼を想って。
そして静かに芽生えはじめた、名前のない、この胸の気持ちをこめて。
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