第2話
あたしは無理やりとりつけられた約束に少しでも抵抗するかのように、わざと遅れてそこへ向かった。もうすぐ、一時三〇分だ。帰っているかもしれないな、と思う。それでもいい。あの楽譜の場所がわかっているなら、手元になくてもいい。たとえば捨てられても燃やされても、どこへ行きついたかわかるならそれでいいと思う。
でも、なんとなくだけれど、久我なら待っている気がした。楽譜だって、ちゃんと返してくれるだろう。少なくとも一時間くらいは平気な顔をして待っていそうだ。それが昨日言葉を交わして得た、久我柳平という男のイメージだった。
この辺の人間、生徒達にとって『公園』といえば大きな池に古いアヒルボートがある、この公園しかない。放課後にはあまりにも広いからか、誰かと出くわすこともめったにないらしく、デートにもよく利用されているらしい。
そう、この公園は公園といってもかなり広い。中央には体育館やスポーツジムまで完備されているような、とても大きな公園なのだ。バス停だってこの公園の周りの道路だけで三カ所はある。
つまりは場所まで指定してくれないと、待ち合わせをした人間と時間通りに会うことなど初めから不可能なのだ。
一時頃に駅に着き、五分程歩いてこの公園の北側の入り口に来た。それからずっとぐるぐると待ち合わせに使われそうな場所、公園を一周するコンクリートの道を回っている。所々にベンチがあるため、待ち合わせにそのどこかが使われることはよくあるのだ。クラスの親睦を深めるため、行事の打ち上げのため、どこかへ食事に行く。そういうときは学校ではなく、この公園が待ち合わせに使われるのもよくある話だった。
――困ったな。
案内板の前で立ち往生してしまう。この道をもう少し行けば、確か池がある。大きな、アヒルボートのある池だ。とりあえず池でも見て涼もうか、そう思ってまた歩いた。
こういう場所は、まるでひとつの街のようだ。いつも見ているものとは違いすぎる、きれいに刈り取られた芝や、動物の形になっている木々。随分とお金がかけられているのか、そういう趣味を持った人間がいるのか、それはよくわからない。見れば見るほど、世界が変質していくような、おかしな感覚に陥る。
ようやく木々が並んだ道から抜け、池が視界に入った。中に入れないよう高めの柵が周りを囲んでいた。その柵に手を置き、以外にも水の色をした綺麗な池を見つめた。両手を置いて、本格的に柵に寄り掛かる。二台のアヒルボートが動き回っていた。
――鳥のさえずり、葉がこそこそと揺れる音、池に石を投げこんだような音。目を閉じると、周囲の音が余計に際立っていくような気がした。唄、みたいだ。風がそよそよと流れ、一緒に声を運んできた。本当に誰かが歌っているようだ。少し掠れたその声は、まるですすり泣く声のようにも聴こえた。
うっすらと目を開ける。ゆっくり、歌声が消えないよう静かに、声の聞こえる方へ足を向けた。川に沿って道はゆるやかにカーブしている。すぐそこだ、けれどまだ姿は見えない。
ようやく見えたベンチの端、近づくと一人の男が座っているとわかった。大きな木が影を作るように設置されたベンチで、どこか空ろな様子で視線を泳がせている。その口はかすかに開き、空気がもれている。
こんなとこに、いた。
しばらくそれを聴いていたいと思い、あたしはそのまま立ち止まった。かなしい、そう思った。どうしてか、なんてわからない。ただ、昨日去り際に見せた笑顔と重なって、喉の奥、胸の奥がきゅっと締まるような感覚がした。
ずっと聴いていたい、苦しいような気もしたけれど、そう思った。ところが久我はすぐにあたしの影に気付いてしまい、はっとした様子で口をつぐんでしまった。
「なんだ、声かけりゃいいのに」
ふにゃりと顔を崩して、恥ずかしそうな表情を浮かべる。遅れたことには、怒ってないようだ。
「声が、綺麗だったから」
いうつもりはなかったのに、その言葉は自然と口からこぼれた。久我は少し驚いたように目を見開いき、それからほんの少し頬を赤くして、「ありがとう」といった。
嫌な奴だ、苦手だ、そんな風に感じていた部分だってある。何を考えているのかなんて、まったくわからない。けれど、嫌い、ではない。たとえば声とか、表情を作る唇とか、何よりその薄い茶色の瞳に、どうしようもなく心を惹かれた。
久我の目には、感情がないのかもしれない。それはあたしにとって、どこか安心できるものだった。
「……楽譜、」
思い出したようにここまで出向いた用を口に出す。それから『返せ』と要求する意味で右手を差し出した。久我はにやりと笑ったかと思うと、立ち上がって差し出したままのあたしの手を取った。
「お願い、きいてくれたらね」
気が付くとそこには見慣れない景色が立ち並んでいた。風は潮の匂いを運んでくる。
あの台詞を聞いて、本当は帰ろうと思った。バカらしいとも思った。
「楽譜さ、俺、忘れてきちゃったんだよね。だから、とりあえず俺んち行こ?」
そのとき久我が浮かべた笑顔は完璧だった。完璧すぎて、本当の用件は別にあるんだとわかった。忘れた、なんて嘘だ。
その日も特に予定はなかったし、何よりそんな嘘をついて何がしたいのか、あたしは気になってしまった。だから今、しょうがなくここにいる。
ちらりと横を見る。バス独特の匂いが気持ち悪さを誘う。久我の目は相変わらずだ。視点が定まっているような、その先を見ているような、少し、緊張しているのだろう。肩がガチガチと固まっている気がする。その姿が少し、おかしかった。強引に連れてきたのはそっちのくせに。
たまには誰かと過ごすのも、悪くはないかもしれない。
不特定多数の人の波にもまれるよりも、ひとりだけの他人ではない人間と過ごすというのも、相手によっては心地いいことなのかもしれない。たとえばそこに会話がなくても。
そんな風に考えてしまう自分がおかしくて、ふっと息をもらした。ただそこは、いつもより息苦しくなかった。教室よりも、電車よりも、家よりも、久我はずっとかなしくて、綺麗だと思った。水源みたいだ、山奥の、誰も知らない水が生まれる場所。
吐き出す度にあたしの中の綺麗だった部分が奪われて、吸い込む度に毛細血管のその先の先まで汚染される。だけどきっと、久我は汚れない。表面だけ周りに染まったふりをして、それでも本質のもっと奥の部分は侵されないまま、ずっと綺麗で、かなしい。
バスから降りて一〇分程歩いた。そこに目的の場所はあった。木造の一軒家だ。
明らかに年期の入ったその家は、久我とは不釣合いな威厳だとか、そういう古臭い、昔ながらの雰囲気があった。隣の家は新築なのだろう、洋風の造りをしている。その向こうも、そのずっと向こうも、向かいの家も洋風の建物だ。久我の家だけ和風で、その通りでは目立つ家だった。
特別大きい訳ではない、普通の家だ。ただその和風な作りの家は、久我には合わないと思った。目立っている、その点では共通しているかもしれない。
多少の不安を抱きつつ、あたしは促されるままに家の中へ足を踏み入れた。ふわりと香るのは、おそらく木の匂いだろう。古そうに感じたが、中は綺麗だった。大切に使っているのだろう、床板が光っている。
「あんま、キレイじゃないけど」
久我の後に続き、おそらく居間なのだろう、そこにあった階段を上がっていった。時折軋む床の音が、静かな家に響いた。他に誰も、いないのだろうか。
「ここ、俺の部屋。汚いけど……どーぞ」
久我はふすまを開け、あたしに入るよう促した。この家にはよく合った、畳が姿を現した。畳特有の香りがするような、そんな気もした。少し色褪せている。
久我がそういって気にするほど、部屋は汚くはなかった。ただ、置き場がないのだろう。畳にも机の上にも、雑誌や本が置いてあった。
「あ……」
思わず声をもらす。一歩踏み入れたそこは、写真の海だったからだ。棚にはカメラと、おそらくそれに伴う品々、所々にかかったコルクボードは一面が写真で埋め尽くされている。カーテンレールの上には額に入った大きな写真がいくつか掛けられていた。
「あんま見んなよ、いいもんじゃねぇから」
そこは暑かったはずなのに、ぞわりと鳥肌がたった。不快ではなかった、ただ驚いた。口が開いたままの状態で、呆然と立ち尽くす。そこら中に散らばった、画。その色はどうしてか、かなしい色ばかりだ。晴れ晴れとした空の色ですら、どこか空虚な印象を与えた。
「……これ、自分で撮ったの?」
「あぁ」
「全部?」
あたしは写真に夢中になっていたのか、いつのまにか部屋の中心にいた。そこから未だ部屋の入口、ふすまに寄りかかったままの久我を振り返った。その表情は逆光を浴びていてよく見えない。けれど、目だけが淡い光を湛えてこちらを見ている。
あの目だ。久我がいつも見せる、あの目だけがはっきりと見えた。
「あぁ、全部」
すごい、唇がすぐにそう動いた。声に出したかはわからない。ただ、そう思ったことだけは確かだった。
「手に……とっても、いい?」
掠れた、呟くような声しか出ない。だが静かな室内では、そんな小さな声でもよく響いた。
あたしは一枚、周りと距離を置いている写真をじっと見つめる。コルクボードの真ん中に、囲まれるようにして貼ってあった。コルクボードにある写真はぴったりとしたサイズの透明なビニールの袋に入っていた。
「どーぞ」
どこか嬉しそうな響きを含んだ返事を聞き、あたしは慎重に画鋲をはずした。
ここにあるもの全部、久我が写したものなんだ。そう考えるとまたぞわりと鳥肌がたった。そのほとんどは空と海を写したものだ。たまに紛れ込んでいるのは建造物で、おそらく高校だろう。ただその中には、誰かを写したものは一枚もなかった。
「そのへん座っていいから、ね。俺、飲み物でも持ってくる」
それからすぐに久我が部屋を離れていく、床の軋む音と足音が聴こえた。あたしはただ、魅せられるように写真を見つめる。
青ではなく、紫色をした空の色。黒く揺れる海。とんでもない所から太陽の断片が覗き、空はニつに分断されている。その境目を、指でなぞってみた。波の音が聴こえたような錯覚を起こす。
なんて、綺麗な世界。
人工にはない色をした空が、無性にほしいと思った。この色は、好きだ。
「お茶でよかったー?」
カランと氷がガラスのコップにぶつかって、涼しげな音を出す。話しかけられ、そこでようやく写真から目を離した。
おかしい。心臓が、痛い。掴まれたみたいに。刺されたみたいに。痛い。
「うん、ありがとう」
そういってコップをひとつ受け取った。指先にひんやりと冷たさが伝わる。久我は部屋の右隅に位置した机にお茶を乗せてきた盆を置き、そのまま椅子を引いて座る。それからごくごくと喉をならしてコップの中のお茶を飲み干した。あたしはそれを見てから写真を元の位置に戻し、少し離れた場所からもう一度じっと写真を見つめた。ビニールが光に反射しているのか、離れると色も景色もずっと曖昧になった。
「……いつも、こんな風に見えるの?」
「ん……? なにが」
中身の減ったコップを片手に、声を反響させるようにして、遊んでいる久我に視線を向ける。こんな子供みたいなことをしている奴が、あの写真を撮ったのか。なんだか疑わしい気持ちもする。
でも、ここにあるのだ。紛れもなく私の前に、存在している。誰かが写した、そのことに違いはない。
「世界……景色、かな」
「うん」
疑問符の浮かんだような声で返ってきた。久我はまた、ごくり、喉を鳴らした。コップの中身は完全に空になる。それから中身のなくなったコップへ、すぐに持ってきていたペットボトルのお茶を継ぎ足していた。
久我が見ている世界、一枚の写真。
「きれい……」
視線を写真に戻した。カラン、と音がした。
しばらく、あたしも久我も何もしゃべらなかった。あたしは、ただ、時の止まった景色に心を奪われた。その間に久我は部屋の窓を開けた。時折吹き込む風はからりとして気持ちがいい。
さみしい、冷たい色。でも、どこかやさしい世界の景色。そこにあるものをただ、無条件に受け入れてしまうような、無知な子供のような、真っ直ぐさ。
ただの写真なのに、小さな紙なのに、それが痛いくらいの真っ直ぐさを持ってあたしの目に飛び込んでくるのだ。
痛い、胸が。息苦しいのに、目が離せなかった。あたしが同じものを見てもきっと、こんな風には映らないだろう。いつの時間帯だろう。太陽が海にあるなら、それは沈むときの写真だろう。日没、普通だったらそれは太陽が沈むことを惜しむのだろう。ただその写真には、それを待っていたような、次第に高まっていく闇の支配を望んでいるような、そんな印象を与えた。
コホン、とわざとらしい咳がした。久我を見ると、そこには真剣な瞳があった。感情はない、その代わりにあったのはひた向きな熱意にも似た真っ直ぐなもの。
あたしは、あの目にどう映っているのだろうか。
「俺、さ、今まで風景ばっか撮ってたんだ」
「……うん」
部屋を見渡してみる。どれだけ見ても、空と海ばかりだ。そのすべてが綺麗だった。なんだか羨ましくなる。
あたしには見えない世界の色。知らない、場所。
「全部、俺が好きなもん。撮りたいと思ったやつだけだ……その、加賀美がさっきから見てるのは、一応、自信作?」
今まで見たことのない種類の笑顔が浮かぶ。その目にかすかに浮かんだいとおしそうな感情。そうして笑うと、久我の目は糸のように、顔のしわのように見えた。
垂れた一重の目は遠目から見ると開いているのか開いていないのかわからないが、その奥にある瞳の存在感は大きい。それがわずかに隠れるだけで、久我の目はとてもやわらかくなった。
それでも、目が離せなかった。どこか一歩引いた他人の目線だったと思う、それまであたしが見ていた久我の笑顔も、瞳も。ただ、飾られた写真を見る目は、慈しむような誇らしく思っているような、確かな久我の感情が見えた。
久我の瞳の色は、綺麗な色をしている。
空気を吸い込みすぎた肺が心臓を圧迫しているような、何かに掴まれたような、痛いと思うのに、苦しいと思うのに、それは苦痛ではなかった。
自分がおかしくなっている、だけどその痛みも苦しさもすべて、どこか心地のいいものだった。
「……なぁんか、最近撮りたいと思えなくなっててさ。飽きたっていうか、ずっとさ、ここに、違和感があって、」
久我はちらりとあたしが見ていることを確認すると、「わかんねーよなぁ、ごめん」それだけいって困った顔を浮かべた。あたしは何もいわず、ただじっと久我の言葉を待っていた。
「そんでも、なんか、うん……」
そういったきり、久我は顔を伏せた。横に流していた前髪がふわりと目を隠してしまう。口にすることを躊躇っているようだ。首筋にひとつ、汗が流れたのが見えた。それは暑さのためではないだろう。
「俺、加賀美さん、撮りたい」
どれくらいだったか、お互いを見つめたまま沈黙していた。
先に口を開けたのは、やっぱり久我だった。
「ね、俺に時間ちょーだい?」
どこか甘えるような、ねだるような口調で久我はそういった。座っていた椅子ごとあたしの側に寄って来て、下から顔を覗き込むように見上げてくる。
「……いやだ」
意味を理解するのに、数秒。一瞬の躊躇いの後、あたしは拒否の返事をした。考えるまでもないはずなのに、久我の目を見ていたら『いいよ』といってしまいそうな自分がいたことに気がついて、あたしの頭の中は軽く混乱する。
「別にポーズとかとるわけじゃねぇよ? ただ、うん、普通に過ごしてくれれば──」
「いやだ」
少し大きな声になった。細いプリーツの入ったグレーのスカートが、声の大きさに比例するように揺れる。
何かをいいたそうにしている久我の口は何度か開閉を繰り返していた。それでもなかなか出てこない言葉。ようやく決心したかのように言葉にしたが、それはさっきまでとは打って変わって弱弱しいものだった。
「……なん、で?」
「あたしじゃなくてもいいじゃない」
あたしはすぐに返事をする。そうだ、あたしじゃなくてもいいことだ、それは。
自分が久我の目にどう映ってるか、きっとわかってしまうだろう。それは、怖い。他人の目に映る自分なんて、知りたくもない。
「ちがうじゃん」
久我はどこか安心したように、それでも落胆は隠さずにため息をついた。
「加賀美さんがいいんだよ、俺は。ダメなんだ、他の奴じゃ……ちがうんだって」
わかんねぇよな、久我はまたそう呟いた。そう、わかりたくなんてない。
座っている分低くなった位置から、久我は上目遣いで、訴えるようにあたしに目を向けた。今日のあたしは、いや、昨日からあたしはおかしい。断って、無視してしまえばいい。
ただ少し、久我の目に、久我という人間に、興味を持ち始めている。そんな自分がいること自体、あたしのとっては非常事態だけれど。
「どうして……あたし、なの?」
窓から風が吹いた。うっとうしく纏わりついていた空気が連れ去られていく。それと同時に、携帯が鳴った。どこか聞き覚えのある曲だ。
「、時間か」
アラーム音だったらしいその音楽を止める。真っ黒な久我の携帯。もしかして今のは、公園で久我が唄っていた歌だろうか。
久我は重そうなカバンを持ち上げる。
「加賀美さんも来る?」
久我があたしを見て、静かに、低くそういった。
澄んだ、綺麗な目をして。
歩く度に潮の匂いの密度が増していく。最後に大きな道路を渡ると、そこにはもう海が見えた。それは、どこか寒々しい光景だ。久我の部屋にあった写真の方が、ずっと綺麗だったなんて思ってしまった。きっとこの海を撮った写真だったのだろうけれど、同じ海には見えなかった。
下は歩きやすいようにと木で組まれた歩道があったが、そのほとんどが砂で埋まっていて、傾き始めた太陽の下でそれはきらきらと光った。
その一方で、所々に空き缶やお菓子の袋のゴミだとか、破れたビニール袋なんかが落ちている。海から流れてきた流木と絡み合って、黒いゴミの塊が点々と見えた。
「誰も来ない場所があるんだ。ここは……汚いけどな」
そんなあたしの視線に気付いてか、久我が急に口を開いた。それでやっと今まで無言だったんだ、と気が付く。いつも目にしないものばかりで、会話がなくても退屈はしなかった。
それに、あたしと久我の間で会話が弾むとも思えなかった。今まで話したことのない人と、何を話せばいいのだろう。
ただ、そこには沈黙があって、どこか規則的な波の音が、まるでうたうように静かにやさしく、それでもそれはずっと遠い所まで響いて、それが心地よかった。
しばらく、無言を楽しむように歩いた。既に夕闇は迫っている。にもかかわらずサーフィンボードを片手にした人達はまだ海を楽しんでいるようだ。今はまだ六月。梅雨はまだ先だ。確かに陽射しもずっと強くなったが、きっと海の水は冷たいだろう。
そんな人達の姿を横目で認めながら、久我のうしろに続いてさらに奥へと進んだ。今日はこの背中に連れ回されている、そう思うと少しその背中が憎らしくなった。今日のロングTシャツは青だ。昨日に引き続き、原色。それに白いジーパンを履いていた。ベルトは昨日のものとは違って黒の二穴タイプのベルトだった。あのクロスのネックレスは昨日と同じものだろう。
うしろから見た久我の茶色い髪の毛の先がくるんとはねていて、思わず笑いそうになった。
砂浜が視界に広がり、左側には人が入るのを拒むように高く聳え立つコンクリート。その上は道路らしく、ガードレールが見えた。
いつの間にか整備されていた道は砂だけに変わり、黒い山のような岩場が近くに迫っている。それはいくつもいくつも並んでいて、道はここで終わりなのか、そう思った。
けれど、久我は迷うことなく真っ直ぐ突き進んでいく。足場に気を使いながら、その背中を追いかけた。久我は岩の前で立ち止まり、これ以上どこに進もうというのだろうとその視線の先を追った。その先、岩には人ひとりがどうにか入れるくらいの穴が開いていた。さっきからこれに向って歩いていたのか、背中でわからなかったあたしはひそかに感動を覚えた。
久我はなんの迷いもなく、その岩のトンネルをくぐり抜けていく。足場は変わらず砂だけで、少しだけ屈んでそのあとを追った。
また光が目に入ってくると、少しの眩しさにまばたきを繰り返す。そこはどこか見覚えのある景色で、あたしは必死にそれを見ようとした。
「……写真の、とこ?」
口の端だけを上げて、久我は笑う。その笑顔が、無条件に息を詰まらせる。
そこにはさっきまで感じていたような人のいる気配はなく、波の音だけが響いていた。
久我は先に砂浜へ降りて、持っていたリュックからごそごそと何かを取り出す。久我の手には収まりきらない、その無機質な黒いもの、カメラ、だった。そこらにあるものとは違って重量感がありそうな、本物のカメラだ。部屋にも一台あったはずだが、少しタイプは違うようだ。
久我はそれを、大事そうに胸に抱えた。
「俺、一日の中でこの時間帯が一番好きなんだ」
静かに隣に腰を下ろした。少し湿っぽい、砂浜。あたしはそのままぼんやりと海に視線を投げる。
「だからさ、いっつもアラームかけんの。時間変わるから気づいたときにちょっとずつ時間ずらしたりしてさ、沈むとこ見て、そんで今日も頑張ったなーって思ったりすんの」
ここ、俺の家みたいなもん。そういって久我は少しだけ笑い声を上げた。
――焼けるようなオレンジ色した、波はきらきら反射して、まだ太陽があることを教えてくれる。それはやはりというか、すごく綺麗なものだった。月並みの言葉。本当はこんなんじゃ足りない。わからない。伝わらない。でも、他の言葉は見つからない。
久我なら、きっと……写真にできるのだろう。部屋にあった写真を思い出す。同じ場所だけれど、まったく違う景色。変わらないのはきっと、波の音だけだ。
ふと横を見ると、久我は手で四角を作り、片目をその四角から覗くように何かを見ていた。
「なにしてんの」
単純に、その行動は疑問だった。久我は姿勢を崩さず、難しそうに、どこか眩しそうに顔全体を歪めながら、きちんと返事をしてくれた。
「んー、知らない? 天然レンズ」
「なにそれ。天然?」
久我が? あたしが聞くと、久我はカメラ持ち上げていった。
「これ、人工レンズだろ。だから、こっちは天然」
そういって笑ってみせる。不思議なことをいうな。あたしの顔を見て、また、久我は笑った。あたしも少し、笑っていたかもしれない。
「撮らないの?」
「今はね。いったろ? 俺、撮りたいものしか撮らねんだって」
好きだけど、今は違う。そういってにこりと笑うから、あたしは急に恥ずかしい気がした。久我の視線に耐え切れなくなって、ぱっと顔を下に向けた。白い砂粒が視界を埋め尽くす。つんと潮の香りがした。
きっと久我は、『天然レンズ』から景色を覗いているのだろう。そっと様子をうかがうと、しっかり前を見ている横顔があった。それは、元からの顔立ちもあるのだろうけど、綺麗だな、なんて思ってしまった。
天然レンズか。指で作った四角でも、久我にはカメラになる。世界が、そこから見えるのだろう。
久我が撮りたいものは、久我にとってのなんなのだろう?
「加賀美さんもやってみれば?」
あたしの視線に気づいたのか、久我は静かに笑ってそういった。またあの笑顔をしている。不安を感じさせない完璧な笑顔だ。気持ち悪い、そう思ったが口には出さなかった。
とりあえず真似をして、おずおずとそこを覗いてみた。けれど、なにも変わった気がしない。なんとなく、また久我を見た。
その顔があまりにも惹きつけるものだから、わかってしまった。
久我はレンズを通して語っている。撮りたいものを撮るから、その理由はきっと、写真になる。久我は想いを、言葉をフィルムに焼きつけてるんだな、と。
それがこの人にとっての感情の表わし方なのだろう。久我の目にはほとんどない感情のすべてが、写真には溢れている。
気付いたら久我のことをずっと見ていたらしく、急に横を向くから目が合ってしまった。あたしがじっと見つめていたことに、不思議そうな顔をした久我が口を開く。
「どうした。なんか変?」
「なんでもない」急に恥ずかしくなったあたしは、ぐるりと海を向く。「あたし、はじめてきたの。海」
「はじめてって……ここじゃなくて、海?」
久我は心底不思議そうな声でどういった。その目が、あたしを捕らえているのが、わかる。
厳密にいえば、初めてではなかった。けれど、小さかったあたしは覚えていない。写真には残っているが、それだけなのだ。昔、一度だけ見た家族のアルバムにひっそりと。それも今になっては、どこにあるのかわからない。わかってもきっと、見ることはできないだろう。
「そう。遠くまでいったこと、ないから」
うわ言のようにそういうと、久我はふぅんと気の抜けた返事をして、今度は直接海を見ていた。あたしは、伝えられないことはわかっていてもいわずにはいられなくて、呟く。
どうしてこんなに胸が痛くなるのだろう。
「こんなにきれいだとは、思わなかった」
久我はまた口の端だけを上げて、笑った。「それはよかった」って、同じように、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いた。
その声を聞いたら、なぜだか泣きそうになってしまった。
たわいもないおしゃべりを繰り返し、静寂をも楽しみ、気が付いたら時間は過ぎていた。
すっかり太陽が海に入ってしまうと、辺りは真っ暗で無暗に動けなくなった。人がいない夜の海は妖しく神秘的な香りがして、今にも得体の知れない何かが打ち上げられてきそうだ、なんて想像がよぎる。吸い込まれてしまいそうだと思いながら海を見ていると、久我は突然、焦ったように立ち上がった。
「帰んなくていーの? てかごめん。気付かなかった。もう八時過ぎてるしっ」
今さら何をいうんだ、この人は。そんな久我の言葉に、思わず吹き出しそうになる。この人は、何も知らない。そうしてあたしを、普通の女の子のように扱う。
「いい。気にする人なんかいないから」
久我はあたしを知らないのだ。当然のことだけれど。あたしだって、久我を知らない。立ち入ったことには、お互い触れていない。
久我は一瞬だけ顔を歪ませた。だけどすぐに、あの完璧だけれど不自然な笑顔で「送るよ」とだけいい、あたしの手を掴んで立ち上がらせた。
一度荷物を取るために久我の家へ戻り、それから駅へ向かった。家には上がらなかったけれど、久我の母親らしい人の声が聞こえた。この人は、この家は、壊れていないんだな。そう思って、そこで考えるのを止めた。
夜になってしまったせいか、駅へ向かうバスの本数はかなり減っていたようだ。そのために次のバスが来るまで三〇分待たなくてはいけなかった。それを知っていた久我は、あたしが断っても送るといって聞かなかった。それ以外では帰さないとでもいいそうな鋭い口調には耐えられず、仕方なく久我の自転車のうしろに乗せてもらい、駅まで向かうことになった。
あたしは落ちないように、と軽く久我の腰に触れる。と、ぐいっと手が引っ張られ、姿勢を保てずにあたしはそのまま久我の背中に抱きつくような体勢をとった。
「つかんでていいから、落ちんなよ」
つかさっきの、くすぐったいからやめてね。そこまでいわれてしまうと、あたしはその姿勢を崩しがたくなってしまった。それならきっと、動かない方がいいだろう。振り落とされてはたまらない。ゆっくりと腰に腕を回し、両腕で離れないように抱き締めた。思っていたよりも大きくあたたかい背中に、心音がひとつ、大きく響く。
「……落とすなよ」
あたしは小さく返事をして、それに従った。それからしばらく、風を切る音だけが鼓膜を通り過ぎていった。
次第に駅へ近づいているのか、だんだんと辺りの光度が増してきた。光源も、増えた。車の音もその量も増えている。湿った、熱っぽい空気が肌をなでた。
「ありがと」
駅に着くと、あたしはぱっと自転車から降りた。それだけいって帰ろうとしたあたしの腕を、久我は掴んで引き止める。久我はまだ自転車にまたがったままだった。その不安定な姿勢で、顔を見ると何かをいいたそうにして口元を歪めた。
「どうかした?」
「……楽譜、いいの?」
「お願い、きいてあげないといけないんでしょう」
きけないから、小さくそういって、お願いを思い出して眉を寄せた。
「きいてくれないの、ホントに?」
久我は覗きこむように、あたしを上目遣いに見る。きくということはつまり、久我の被写体になる、ということだ。
「もう一度書き直せばいいし」
そう、本当は必死にならなくったって、いつでもここにあるから。あたしが創った、あの曲だけは。行き先がわかればそれでいいし、最初から形なんて必要なかった。音にできるなら、それでいいのだ。
どこか申し訳なく感じ、あたしは久我から目を逸らしてしまう。久我は一度視線を落とすと、また乞うようにあたしを見た。なんか……――
「……ふ」
「へ? なに、ふって?」
「ごめ……なん、か、犬みたいだなぁって」
唐突にこみ上げてくる笑いを必死にこらえながらそういった。笑いすぎて、涙が出てきそうだった。男のくせに、この人はなんでこんなにかわいらしい顔をするんだろうか。もしかしてこれも、計算されたものなのだろうか。
「は? ちょ……なにそれ、めっちゃ失礼だろっ!」
久我は目をかっと見開いて、赤い顔をしてそういった。どうやら気に入らないらしい。
「ほめてるつもりなんだけど……っ」
何がおもしろいとか、ここで笑わなきゃとかそういう計算なんてひとつもなくても、素直に笑えた。本当に涙が出るくらいに、かわいいとも思ったしおかしいと思った。
「いや、笑ってるし……バカにしてるっしょ!」
「そ、そんなわけないじゃ……ふ」
さっきまで、海で見ていた久我とは一八〇度違うんじゃないだろうか。
あのとき見た横顔は、とても大人びていて、綺麗だと思った。だけど、こんな、別の顔もある。
ふと、今まで怒ったようにしながらも一緒に笑っていた久我が、少し真面目な顔つきに変わった。
「なんだー……笑えんだね、加賀美。いつもそうしてればいいのに」
「おもしろくもないのに、笑えないよ」
この間いつ声を上げて笑ったか、そんなこと思い出せないくらいに昔の話だ。あたしの顔はいつもいびつに歪むだけで、愛想笑いさえも充分にできない。
昨日からあたしは、本当におかしい。きっとどこかのネジが粉々に壊れてしまったんではないのだろうか。
「俺がいるじゃん」
真面目な顔してそんなことをいうから、あたしはまた笑ってしまった。
「できないよ」
昔も今も、クラスの中にあたしに話しかけようなんて思う人は、いない。久我だって、教室で、みんなの前で、あたしとしゃべらないだろう。それが暗黙の諒解。あたしは名前だけのクラスメートだ。
あたしはあの中へ入っていけないし、誰もそれを望んでいない。たとえば久我の気づいていなかった寝癖を見て笑うのは、あたしじゃなくて他のクラスメートだ。
ひとつ大きく、息を吐き出した。
「じゃあね。あたし帰る。ここまで送ってくれてありがとう」
久我に背を向け、改札に向かった。
休日でもスーツ姿の人は多かった。圧倒的に若い人の方が多いけれど。あたしと久我も、たとえばあそこにいるカップルのように見えるのかもしれないな、そういう目で見ている人がいるかと思うと、少しおかしかった。ありえない、そう思った。
「――加賀美!」
久我の声に、うしろを振り返った。人の疎らな構内には、その声がよく響いていた。
「また、明日なっ」
手を振っていた。あたしは笑って、小さく手を振り返し、歩き出した。
今日が終わっていく。それをさみしいと、思った。
二度と戻らない時間。
それでいいのだ、と思った。もう戻らない。
きっともう、交わらないのだろう。あたし達の時間は。
なんとなくだけれど、そんな気がした。




