第1話
置いてきたのかも。最後に弾いたのはどこだったっけ。音楽室、だったか。やっぱりそうだ、そう思い、さっきから何度も漁っているスクールバッグを改めて膝に乗せ、ガザガサと乱暴に中を見た。やっぱりない、焦りにも落胆にも似たため息だけが残る。
いつものように、あたしはピアノに向かっていた。少し固い、冷たい椅子に腰かけて。それから丁寧に蓋を開けて、さぁ弾こうと前を向いた。そこでようやく、そういえば楽譜はどこにやったかな、という具合に、肝心の楽譜がないということに気がついた。
完璧に暗譜はしている。大丈夫だ、なくたって弾ける。楽譜が目の前になくても、問題などない。あたしの指はきちんと動く。
電子ピアノの蓋を音がしないように下げる、それから上にぱっとカバーを掛け、立ち上がった。あの曲は、特別だから。弾けるとか弾けないとか、そういう問題ではないのだ。
あたしは財布や定期、必要最低限のものだけを残したスクールバッグを肩に掛け、いつもより少し早足で、駅へ向かうために誰もいない家を飛び出した。
外へ出てみると、思った以上に陽射しは強かった。
光はまぶたを通り越してじりじりと目を焼き、肌や真っ黒に伸びた髪を急激に熱していく。 風も吹いていたけれど、吹き抜けるというよりはねっとりと纏わりつくようで、気持ち悪い。とてもじゃないが、暑さを凌ぐための気休めになどならなかった。――うるさいなぁ。意味もなく宙を睨む。
ホームへ降りるとタイミングよく電車がすべりこんできた。電車が起こした熱風でスカートがめくれあがるの、右手で軽くおさえた。
一瞬の沈黙のあと、口が一斉に開いた。何かの口が並んでいるみたいだ、甘い匂いで誘いこんで、獲物が領内へ入った瞬間に口を閉じて閉じ込める。くだらない妄想を浮かべながら、遅れて電車へ乗り込んだ。
今さらだが、これから向かう場所は学校だ。中には口うるさい教師もいて、登下校は絶対に制服でなんていわれることもある。たとえば運動部の生徒がジャージで帰る姿を見かけるだけで、軽い生徒指導が入るらしい。中学生かと思うが、他の高校がどうなのかは知らないので、これが過剰なのか普通なのかはわからない。今更ながらに制服に着替えてくればよかった、と後悔するがすでに電車は走り出していた。汚れで曇った窓に映る自分の服装を見て、思わずため息をつく。
早く行って、すぐ音楽室に行って、楽譜を見つけたらすぐに帰ろう。誰にも会わなければいい。そうすればなんの問題もない。
目的の駅へ着いてからの自分の行動を頭の中でシュミレーションする。早く、早く着いてほしい。息苦しい車内、知らない匂い、電車の揺れ。動き出した瞬間からじわりじわりと這い上がってくる不快感。これには、いつまでたっても慣れない。頭の奥がずきずきと疼く。
電車は一駅ずつ目的地への距離をつめる。次第に車内の人口密度が高まり、話し声などの雑音が増えていく。座席の仕切りにもたれかかるように立ちながら、少しずつ気持ちが落ち着いていくのがわかった。少し耳のネジをずらせば、ひとつの曲のようにも聞こえる。それはなかなか悪いものではない。
あたしが通う学校の最寄り駅は結構大きな駅らしく、休日でも平日でも駅構内は人でごった返している。あたしが使う路線ではそこがちょうど終点で、やっと駅に着いたと思うと自分にはその意思がなくとも、人に流され電車の外へ出ることができた。
ちょうど時刻はお昼時だ。浮かれ気分の学生やカップル達の姿がやたらと目についた。
あたしは、人ごみが好きだ。
人ごみの中に紛れているのは、苦痛じゃない。たくさんの想いの中に、たくさんの他人の中に、埋もれるようにしているのが好きだ。ざわめきが心地よくて、誰もあたしにかまわない。まるでひとり、世界が違うような錯覚。
たとえば肩がぶつかっても、目が合っても、何も起きない。ただ、通り過ぎていくだけだ。他人の肌に触れる気持ち悪さより、ひとりではないのにひとりのような、そういう錯覚の心地よさが勝る。
学校、行くのか。考えるだけで息苦しくなる。いつも通り、駅構内を抜け出して人ごみから離れる、それをどこか苦痛に感じてしまう。とぼとぼと、当初想像していたものとは正反対に足の運びが鈍くなり、視線が定まらなくなる。この人ごみに流されるままいたら、どこへ行けるだろうか。答えなんて欲していない疑問を浮かべながらどこでもないどこかを見ていると、急に視界に影がかかったのがわかった。今まで流れてきていたはずの人ごみも、ふと前方から消える。その影の正体はすぐに人のものだとわかった、そしてその人物はあたしの目の前に立ちはだかるように立っていたため、立ち止まらざるを得なくなる。その人物の視線が、雰囲気から明らかにあたしへ向かっているとわかったからだ。
見たことのない黒を基調としたスニーカー。そういうデザインなのか、シルバーや白、ピンクっぽいペンキのようなものがそのスニーカーを色づけている。
なんだろう、そう思って顔をあげるのとほぼ同時にして、声は降ってきた。
「なにしてんの」
言葉だけを投げるような、置いていくような口調だ。
その声は、不自然なくらいに心地よく、鼓膜をふるわせた。顔を上げた正面、そこにはひとりの男がいた。
少し暗めの、青の色が強いダメージジーンズに、唇が強調された外人風の女の顔が黒でプリントされた黄色いロングTシャツを着ている。黒い布地に英語が並んでいる穴がないタイプのベルトをして、ごつくて妙に禍々しいクロスのネックレスが胸の前で揺れていた。
「……別に」
こいつの顔、知ってる。そう思った。確か、クラスメートだ。
「俺んこと、誰だかわかる?」
「、く、久我……」
普段から周りとは極力関わらないようにしているあたしにとって、クラスメートの名前を答えることには自信がなかった。高校二年になって二カ月程経つが、名前と顔が確実に一致しているのはクラスの半数いるかいないか、だ。しかしそれも、クラス替えをしたにも関わらず、以前のクラスメートが四分の一を占めていたおかげである。運がいいのか悪いのか、それはよくわからない。
その中でも、この男は目立っていた。常に周りに誰かがいて、騒ぎのある場所には八割方いる。学年でも知らない人は少ない。クラスが同じになれば、必然的に目に入るタイプの人間だ。
それでも、会話も交わしたことのない相手の名前には自信がなかった。あたしはかくりと首を傾げ、ぼそりと小さく言葉にする。聞こえたかな、身長差から自然と見上げる形になりながら、男の顔を見た。
「おぉ、なんだ! 知ってたんだー。あ、下の名前は柳平ね? なぁなぁ、加賀美さんってさ、名前、マジで姫ってゆーの?」
唇の端が少しだけ上がり、元から垂れていた目は笑うとさらに下がった。初めて会話をする割りに、口調も態度もどこか馴れ馴れしい。あたしと話す人は大抵敬語を使ってくる。そのため久我のその態度は新鮮なものでもあった。
――なんだ、この人。
それでも、あたしの顔にははっきり不快な感情が浮かんでいたと思う。初めこそ驚いたものの、たった今この男が口にした内容にイライラしてしまったからだ。
「あ! ちょ、どこ行くの?」
何も話しかけられなかったことにして通り過ぎよう、そう思い足を踏み出すがすぐに道をふさがれた。覗き込むように首を傾げ、なおもやさしい口調で問いかける。色素のうすい瞳。その目の中に、あたしが映っているのが見えた。
「がっこ」
あたしはそれだけ口にし、また一歩左に踏みだす、すると久我もあたしが動いた方へ体をずらした。
「そのかっこで?」
右、左、左と同じことをしばらく繰り返す。行かせてくれないつもりなのだろうか。久我はあたしの正面をゆずらない。
久我はあたしより十センチ程身長が高く見える。つまりその分脚も長いという訳で、あたしの二歩は久我の一歩で簡単にふさがれてしまうのだ。
周りに溢れ返る人は、あたし達を避けるように流れていく。川の真ん中に取り残された大きな岩のような気分だ。大衆の流れを変える異物になってしまったあたしと久我は、時折迷惑そうな視線を投げられた。
「もういいでしょ、通してよ」
居心地の悪さから、久我を睨み上げた。ところが思いがけず久我の笑顔と目が合い、あたしの目は急速にその威力をなくした。
それはいつも周りに見せるもので、今は確かに、あたしに向けられたものだった。
「またね」
不自然な笑い方をする人だ。クラスで見かける度に感じた違和感。目の前につきつけられて、ようやくわかった。綺麗すぎるのだ、笑っているように見えるよう計算されたような、まるで笑顔の模型だ。
それでもいざ目の前にすると、心を奪われてしまうような感覚に陥った。それは笑顔のせいでもなく、普通よりいくらか整っている顔のせいでもない。色素の薄い茶色の目の奥の黒が、真っ直ぐに捕えて揺れなかった。どこか見透かされているような、鋭い目をしていた。
綺麗な目だった。あたしは軽く深呼吸をしてから、その人ごみを抜け出した。
学校に着くと、真っ直ぐに音楽室へ向かった。四階の、特別教室ばかりが集まった第二校舎。この校舎からは、グラウンドがよく見える。
防音のための重い扉を押し開ける。取っ手がひやりとして、今の時期には心地のいい冷たさだ。目の前には閑散と並ぶ机、その向こうにどこか神聖さを感じさせる、黒い光沢を放つピアノ。今は小さく片付けられ、黒いカバーが覆っている。のぞく足の華奢な造りからは、あれだけの力強い音が、あれ程の繊細な響きのそのすべてが、あそこから生まれてくるなんて想像もつかない。
ピアノに近づき、カバーをめくる。しばらく楽譜を置いていきそうな場所を探すが、そこには白い紙切れなんてものはなかった。おかしいな、そう思いつつも机の中や教員が利用している棚の中までも探してみる。それでもやはり、あの楽譜らしきものはどこにもなかった。
他にどこで楽譜を広げただろうか。必死になって、最後にあの楽譜を出した場所を思い出そうとする。確かにそれは、この音楽室だったはずだ。家であれだけ探してなかったのだから、この学校のどこかにあるはずなのだ。しばらくそうして同じ所も何度も探し回っていた。
「あら」
あまりにも唐突に扉の開く音がして、続いて聞こえた女の声に、あたしはびくりと肩を揺らした。
「なにしてるのよ。……その格好は?」
怪訝そうな顔で立つひとりの女、黒いパンツに白いシンプルな袖がほとんどないTシャツを来た音楽の教師だった。口うるさい上に頭の回らない女。きっとあいつには給料と男のことくらいしか頭にない。
「楽譜、探してるんです。学校に忘れてしまったみたいで……先生、知りませんか」
無論そんなことを思っているなんてわからないよう、ただ淡々と聞く。
多分、この人はあたしのことが嫌いなのだろう。眉の間に寄ったしわはなかなか消えない。
「見なかったわよ。それより、学校に私服で来るなんて、なに考えてるの?」
「そうですか、失礼しました」
「ちょっと……っ」
引きとめようとする先生の横をすり抜け、そのまま教室へと向かった。そこでもやはりなかった。ごみ箱の中まで探してみたが、楽譜は見つからない。
家で探したりなかったのかもしれない。そういい聞かせ、帰ることにした。そんなはずはない、そう思いながらも、いつかひょっこり出てくるだろうと思った。やはり私服で校内をうろついているのはあまり好ましくないようだ。面倒なことはなるべく避けたい。
学校は息苦しい。教室も、授業も息が詰まる。先生と呼ばれて偉くなったつもりでいる人には、どうしようもないくらい嫌悪する。体裁ばかり気にする大人、肝心なことなんて何も教えてくれないくせに、助けてなんてくれないくせに、何を偉そうに指導しているのだろうか。理解できないし、理解したくもない。
あたしは、誰の気にも止まらない。空気みたいな、塵みたいな、そういう存在に、なりたい。もっと、ゼロになりたい。
産まれてきたくなんかなかった、あたしだって。
苦しい。息が詰まる。
誰かと仲良くやろうなんて思わない、誰もあたしと仲良くしようなんて思わない。
あたしに話しかける人はみんな、あたしを見下している。哀れみの色を浮かべた目で見ている。どこから流れたのかは知らないけれど、あたしには父親がいない。ずいぶんと前に事故で死んでいる。あの子が暗いのはそのせいなんだよ、小さい頃そう自分の子供に話し、だから仲良くしてあげてね、なんていう親が必ずひとりはいた。あたしはその頃からずっとひとりだった。
かわいそうだなんて、あたしは思わない。初めからいなかったと認識してしまえば、なかったと思えば、それでいい。かわいそうなのは、あの人だ。あの人だけだ。あたしみたいな子供を抱えて、愛していた人に先立たれた。
あたしはかわいそうじゃない。だから、あたしのせいにすればいい。あの人が抱える不条理ってやつも、全部。
ここは、学校は、人の集まる場所はきっとすべて、あたしにとっては毒みたいなものだ。苦しくて息が詰まる。この世界は、きっとそういうことばかりなのだろう。
ここに存在する空気はあたしを縛る重いもの。呼吸しなきゃ、死ぬ。でも、吸い込む度に汚染されて、吐き出す度に奪われてくようだ。
それはまるで深い海の底にいるようで、圧迫されて、息苦しくなって、汚れていく。毒のように侵入してくるそれのせいで、あたしはそこから浮上できない。きっと一生、ここにいるんだと思う。
他人と群れて、そのために表面ばかり取り繕うなんて、バカみたいだ。
駅に戻ると、なぜかまた久我に会った。にやりと笑う顔は、相変わらずだ。
あたしは久我の姿を認めると、あからさまにいやな顔をした。誰もあたしになんてかまわない。久我みたいな奴はその典型だ。暗い奴となんて話したくないと思っているのだろう。それでもかまうとしたら、イジメの対象にするためだ。
それなのに、久我の目は嫌いじゃないと思った。そこには同情も哀れみもなかった。ただ、真っ直ぐだったから。
「探しモノは見つかった?」
そういって、帰ろうとするあたしの正面に立つ。左右に流した長い前髪が生ぬるい風にふわりと、どこか不釣合いに、涼しげに揺れた。
「なんで、知ってるの?」
何かを探しているなんて、いった覚えはない。疑問符が浮かんでいるあたしの目の前に、久我はにやりと笑って一枚の紙切れをちらつかせた。
あたしが探していたもの、他人から見たら、それはただの紙切れだ。
「……なんで、返してよっ」
見間違うはずは、ない。それは確かにあたしの楽譜だった。だけどそれはあたしだけの、どこを探したって同じものはない楽譜だ。
【title: 】
すかさず手を伸ばした、が、空を切るばかり。たかが七、八センチの身長差なのに。悔しさからギリっと唇を噛んで睨みつけた。急に必死になったあたしの姿に、久我はふっとバカにしたような、どこか楽しんでいるような笑みをこぼす。
「明日、明日の一時にさ、あの公園に来て」
久我はあたしから楽譜を遠ざけ、あの真っ直ぐした目で見た。急な態度の変化に、あたしは目を見開く。
「なんでよ」
あたしは強い口調で迫る。自分でもわかるほど不機嫌な響き。公園で、しかも明日、今日じゃなくてわざわざ明日、何をしようというのだ。折角の休日なのに、久我はなぜあたしを呼ぶのか。他に遊んでくれる奴なんて、片手じゃ足りないくらいいるだろうに。
あたしは久我なんかに用はない。楽譜さえ返してもらえれば、それでいい。
「来たら教えてあげる。そんとき、これも返すよ」
「……わかった。明日、一時ね」
あたしがそういうと、久我は顔をゆるめて、笑った。それはさっきみたいな不自然な愛想笑いじゃなく、視線を奪っていくような。
「おう、待ってるっ」
そういうと、久我はあたしの横を抜けて帰っていった。笑った顔が、どうしてか頭から離れなくて、あたしに向けられたその顔が、いつもの周りに見せるそれとは違っていた、それだけなのに。
あれは、久我の笑顔だったんだろうか。それなら、少しだけかなしいと思った。
疑問はいくつも浮かんだ。だが、どうすることもできなかった。答えは今さっき、帰ってしまったのだから。
あの、笑顔と一緒に。
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