6油断大敵
なんとなくで始めたアルバイトの秘書というかアシスタントみたいな仕事だが楽しくて気付けば一ヶ月以上が過ぎていた。両親にもゼミの先生のお手伝いと伝えた上で毎日通っている。就職活動もちょっと休憩中。興味の比重が傾いて気持ちが向かないのもあるが迷っているのも確か。
漆原は毎日居る訳でもなく、大学以外にも取材や気分転換と言って出かけて行くので留守番も多い。出版社の担当さんはちょくちょく電話をかけてきたり手土産持参で訪ねて来るが、漆原に素っ気なくあしらわれ可哀想な感じだった。
そんなある日、両親にもらったお小遣いが余り気味だったので一部入金しようと銀行に行って驚いた。とんでもない金額が振り込まれていたのだ。
アルバイト代の振込先としてこの口座は教えたが、金額までは聞いていない。しかも振り込まれたのは二週間も前。
有り得ない!何?この金額……今時正社員だってこんなにもらえないのはわかっている。
そんなにたいした仕事をしていない自覚はちゃんとある。多過ぎだわ………
そんなことを考えながらマンションに着いてみれば入口に出版社の担当さんに最近ついて来るようになった新人の松永が立っていた。
「こんにちは。咲希さん。良かった。今呼び出したんですが応答がなくて……どうしようかと思っていたんです」
まるで犬だな…と思うような雰囲気。尻尾を振っているがもひとつ好感は持てない。すげなくあしらわれている様には同情しないでもないが、駄犬だな…どちらかと言うと。
ため息をつきたいところを堪えて、暗証番号を打ち込むとドアが開いた。
先生、ホントにいないのかな………憂鬱
一緒について来た松永がエレベーターボタンを押すのを見つつ漆原にメールを送信した。
すぐに到着した狭い空間に踏み込めば、続けてすぐ松永がついて入る。ため息をつきたいところをかろうじて堪えてボタンを押せばゆっくり上昇を始めた。
自意識過剰と言われるかもしれないが松永の視線が嫌だった。いつも視線を感じる気がする。じっとりと舐め回すような厭らしさを感じるのだ。
すぐに六階に到着して狭い空間からは解放されたが、すぐ目の前には玄関ドアがある。どうしようかと思ったが時間稼ぎと漆原の在宅確認も込めてベルを鳴らす。数回鳴らしても応答はなかった。
仕方なく振り返り松永に向かう。
「申し訳ありません。漆原は不在のようです。また改めて出直していただけますか?」
「折角東京から出向いて来たんです。先生がお帰りになるまでここで待たせてください」
大きく息を吐きたいところを堪えて我慢する。仕方ない。
「連絡はとってみますがお約束出来ませんよ」
「ありがとうございます!」
あぁもう面倒臭い男!と思ったが、笑顔を貼り付け鍵を開けると先に通し念のため鍵は施錠せずにおく。
遅れて室内に入れば、松永はすでにソファに座り寛いでいた。
コーヒーをセットしてパソコンを開けば、漆原は大学に行っているようで電話するのも躊躇われたので状況を簡単にメールしておいた。
コーヒーを二人分入れて松永に出すと、自分のマグカップはダイニングテーブルへ運ぶ。少しでも距離をおいておきたい咲希だが、松永は厚かましい。
リビングで一緒にと誘って仕事を理由に断られると、自分のカップを持ってダイニングテーブルにやって来て隣に座る。
馴れ馴れしく話しかけて散々仕事の邪魔をする。
話しかけてくるだけでなく段々近付いてきているように感じるのは気のせいではないらしい。椅子から身を乗り出して咲希を口説いているのだから。
普段の咲希ならさっさとばっさり切り捨てるところだが相手は漆原の仕事相手。アシスタント秘書の自分が失礼な態度をとって良いものか躊躇われた。
その躊躇が裏目に出たのか松永は咲希の態度を勝手に良い方に解釈し手に触れてきたかと思うと逃げる間もなく抱き締めてきた。
「ちょっと!何するんですか!放してください!」
咲希は慌てて逃げようと手足を動かすが、抱きすくめられているので効果はない。益々力を込められ動きを封じられた。
「僕、僕、咲希さんが好きなんです。一目惚れでした。いつもにこにこ笑顔で、優しいし、それって僕に満更でもないってことですよね?」
は????
それって、社会人としての最低マナーだろう!社交辞令だよ!
「馬っ鹿じゃないの!!!そんなわけないじゃない!!!」
思いっきり突飛ばしてやりたいところだが力が足りない。
色々言い募っているが、そんなの関係ない!
じたばたしていたら急に軽くなって、そのままへたりと床にくずれ落ちた。
目を上に上げれば、長兄の紫苑が松永のネクタイを掴み殴り飛ばすところがスローモーションで見えた。
「ふざけんな!この変態野郎!」