マッチョに言い寄られてました。
「――貴女は彼と釣り合いませんわ」
凛としながらも、どこか高飛車な響きを湛える声が廊下に響く。
彼女はそれこそが世の真実であるかのように傲然と告げた。
金色の巻き髪を煌々と靡かせ、傍らに黒髪の女従者を、背後の宝石の如く女学生を従わせた姿はさながら女王。
九年母愛理歌、旧華族にして現大財閥の九年母家の令嬢。この名門、聖トゥールス学院においてもトップクラスの家柄である。
加えて、愛理歌は美麗にして流麗、すらりとした手足に、全体としては和風な雰囲気でありながら目鼻立ちはビスクドールのように整った美少女である。
彼女が立ったならば学院の廊下でさえダンスホールの如き華やいだ雰囲気に様変わりする。周囲の学生たちも男女問わず恍惚とした眼差しで愛理歌をみつめている。
「そういうのじゃないんです。ただ応援したいだけなんです」
対する白雪恵はタッパーを抱えた姿にどことなく小動物の雰囲気がする、黒髪を肩口で切りそろえた小柄な少女だ。
言い返す言葉にもどことなく気弱さがにじみ出ている。
愛理歌とは同級生で、おまけに幼馴染であるが片や女王、片や小動物と言わんばかりに印象が違う。
家柄についても、恵はギリギリで学院の門に踏みいることを許された商家の出であり、高等部への進学も本人の優れた成績を考慮されてようやく認められた程だ。
幼馴染とはいえ、二人の学園カーストを考えれば本来なら言葉を交わすことすらない筈の間柄である。
「まったく……」
今にも逃げ出さんばかりの恵を前にして、愛理歌は小さく肩を竦めて溜め息を零す。芝居がかった仕草も彼女がすれば一流の女優もかくやというべき流麗なものとなる。
「一族を安売りせず」とする九年母家のストップがかからなければ日本一の女優も夢ではなかっただろうとはとある映画監督の談である。
「恵、アメフト部のマネージャーでもない貴女が出しゃばってどうするの?」
「リカちゃん、けど……」
少しだけ砕けた物言いにかつてを思い出したのか、恵の警戒が微かに緩む。
瞬間、楚々とした所作で、しかし、有無を言わさず伸びた愛理歌の白魚の手が恵が抱えた安物臭いタッパーの蓋を開けた。
中を見れば、几帳面にスライスされたハチミツ漬けのレモンが入っている。
「家庭科室まで借りてご苦労なことね」
「か、返してください!!」
恵は慌てて蓋を取り返し、タッパーを抱きしめたままじりじりと後退し、踵を返したかと思うと短い脚を精一杯回転させて走り去っていった。
タッパーを落とさないように抱えて走る後ろ姿はさながらリスのようで、ささくれだった愛理歌の心は少しだけ癒された。
「……カエデ、わたくしは恵と何秒話していたかしら?」
「17秒です。今年に入ってから最長記録です、お嬢様」
黒髪の従者が淡々と告げる報告に愛理歌は小さく頷きを返す。
「なら、採点は?」
「35点です。まずは恵様の調理の手際をお褒めするべきであったかと」
「儘ならないものね……」
愛理歌は再び溜め息を吐いた。今度は演技の欠片もないがっくりと肩を落とした年相応のそれだった。
恵と愛理歌、二人はこの学園の幼年組に入学した時からの幼馴染だ。
幼年組の頃はベレー帽を交換するような仲だった。
従者であるカエデを差し置いて一番といっていいほど仲が良かった。
家柄の違いなど、幼い二人にとっては何の障害にもなりはしなかった。
そんな二人の友情に亀裂が入ったのは内部進学で高等部に上がってからのことだった。
「――エリカッ!!」
そのとき、どこからか響いた遠吠えが窓ガラスを揺らした。
愛理歌と恵、二人の仲を引き裂いた元凶の声だ。
振り返れば、練習終わりと思しき汗の匂いを引き連れたアメフト部の一団が廊下の向こうにいた。
そして、その中心に居た2メートル近くある黒色の巨体が周囲を省みず猛然とタックルを開始した。
高速で接近する物体の名は雄蘭・リャールグ。
『ミシシッピ・ビルズ』のエースにして『戦車』の異名をとるパワーバックだ。
尚、ミシシッピの名は信濃川に由来するが、信濃川がどこをどう辿ればミシシッピ川になるのか、先人達の頭の中身は推し量れない。蕎麦でも詰まっていたのかもしれない。
それはともかく雄蘭である。
彼は今まさに200キロを超える重量を、リノリウムの床を拳が擦るような低姿勢のタックルで愛理歌へとぶち込もうとしている。
周囲に侍っていた歩兵もとい女学生を現在進行形で吹き飛ばしている強引な突撃だ。
喰らえば愛理歌などあっという間にへちゃげてしまうだろう。手をこまねいて見ている訳にはいかない。
「カエデ!!」
「はっ!!」
瞬間、主の鋭い命令に応じて、従者はどこからともなく取り出したひと房のバナナを空中に放った。
日に三度も四度も言い寄られていれば対策を立てるのは当然のこと。人間は学習する生物なのだ。
目論見通り、雄蘭はタックルの勢いのまま跳び上がり、バナナを両手でキャッチしながら愛理歌達を跳び越えた。
惚れ惚れするようなキャッチだ。アメフト部のエースの無駄遣いである。
次いで、どんと廊下が揺れる程の着地音と衝撃が響く。
「エリカ、会うといつもバナナくれる。オレ、うれしい」
くるりと振り向き、無邪気な笑顔でどすどすと距離を詰める雄蘭に愛理歌は引きつった笑みを返しながら二歩三歩後退した。
「いえ、あの、離れてくださいませんか、オーラン様? わたくし、筋肉モリモリマッチョマンの変態が半径5メートル以内に入ると死んでしまいますの」
「うほッ!! うほッ!!」
「……」
話を聞いているのかいないのか、夢中でバナナをむしゃむしゃと貪るむくつけきマッチョを極力視界に入れないようにしながら愛理歌は溜め息を吐いた。
雄蘭にバナナの皮を剥く知性が残っていたのはどちらにとっても幸いなことであった。
「ああ、どうして恵はこんな毛むくじゃらを好きになってしまったのかしら……?」
「恵様は男性の筋肉に対して並々ならぬ嗜好をお持ちのようですので」
「そんな!?」
「筋肉こそマッスル。筋肉、大事」
「うっ……」
瞬間、いきなり視界にどアップで現れた雄気の塊に愛理歌は思わずよろめいた。
「ん? どうしたエリカ? カゼか? カゼ、危険、あぶない」
言葉と共に毛皮のコートを肌に張り付けたような黒々とした毛の生えた手が額に伸びてきて、思わず愛理歌は背筋を反らせて回避していた。
それでも尚、主砲に喩えられる500キロを超える握力で放たれたナデポが愛理歌の豊かに張りだした胸元を僅かに掠り、ブレザーのボタンをひとつ粉々に砕いて塵に還した。
雄蘭のナデポが人外のそれならば、避けた愛理歌も惚れ惚れするような上体反らしである。
幼いころからバレヱを習っていなければ危ない所だっただろう。
名家の生まれには常に死の危険が常に付き纏っているのだ。
「あ、危ないですわ!!」
「大丈夫。オレ、10さい。オレ、未成年」
「その事実は聞きたくなかったですわ……」
だが、愛理歌の頭痛を堪えた仕草には構わず、雄蘭はすんすんと鼻を鳴らして周囲の匂いを探っていた。
一同ドン引きである。
「レモン、はちみつ、それにケイのにおい」
「驚嘆すべき嗅覚ですね。しかし、ひと房食べてもまだ食べ足りないのですか、雄蘭様」
カエデが呆れたようにつっこむが、その時には既に雄蘭はどすどすと音を立てて恵の去った方へと走っていっていた。
制服の上からでもわかる黒々とした毛むくじゃらの背中に愛理歌の悪態が投げつけられる。
「まったく!! 前二つと同列に並べられると恵がまるで食べ物みたいに……食べ物……恵が食べられる……」
「お嬢様」
「はっ!! そうでしたわ。彼を追いかけませんと」
「お嬢様、いい加減二人の逢瀬を邪魔するのはやめませんか?」
「……そんな訳には行きませんわ。だって――」
言い淀む愛理歌の脳裡にこれまでの記憶が思い起こされる。
桜舞う入学式に突如として現れた戦車男。
コンゴからの留学生だという彼に熱い視線を送る恵。
愛理歌にとって彼の存在はまさに青天の霹靂であった。
あの時感じた、ぽっと出の筋肉に幼馴染の優先順位を抜かれた怒り、落胆、心配。
それらが混然一体となってひとつの言葉を形作る。
「――だって、彼どうみてもゴリラなのよ!!」
刹那、死屍累々の廊下はしんと静まった。
気まずい沈黙の中、カエデはこほんと咳払いして場を切り替えた。
「そんな筈はありません、お嬢様。彼はなんと――因数分解もできるのですよ!!」
「まあ素晴らしい!! ……麻酔銃を用意なさい。父の持つ研究施設に招待しましょう」
「それは追々。まあ、追いかけるにしても策を練りませんと。これ以上恵様との関係が悪化するのはお嬢様としても望みではないでしょう」
「うっ、それはたしかに……ですが見捨てるわけにはいきません!!」
今も無限軌道の如きナックルウォーキングで道行く学生達を弾き飛ばしながら爆走しているゴリ……もとい雄蘭を嫌々思い浮かべながら愛理歌は胸元で拳をきゅっと握りしめる。
「あんな机を持ち上げようとして二つ折りにしてしまう筋塊に抱きしめられたら、恵なんて熟れたトマトのように潰されてしまうわ!!」
「本望ではないかと」
「そんな!?」
幼馴染の筋肉汚染はそこまで進行しているのか。げに恐ろしきはプロテインの魅力か。
ふらりとよろめいた主を如才なく従者が支える。
「筋肉とはそれほどまでに……で、ですが、あの年頃の男子なんて脳細胞が煩悩に侵されて女子を閨に連れ込むことしか考えていないのよ!?
もし、もし恵が煩悩で獣に戻ったゴリラ・ゴリラ・ゴリラに押し潰されたら、トマトどころか瞬く間にシーツの染みに……シーツの染み……」
「お嬢様」
「はっ!? こうしてはいられません。早くサファリレンジャーを呼びよせないと!!」
「捕獲から離れましょう、お嬢様」
所々に粉砕痕の残る廊下を名門らしい優雅さを維持しつつ、極力早足で駆けながら愛理歌は考える。
百歩譲って応援するのはいい。千歩投げ捨てて筋肉に憧れるのも良しとしよう。
「――ですが、その恋路だけは!! この九年母愛理歌の名に賭けて絶対に遂げさせませんわ!!」
高らかな宣言と共に愛理歌は次なる策を打ち出す。
禁断の愛に邁進する幼馴染を阻まんとする悪役令嬢の奮闘はこれからも続いていく。