86.apple
「……」
見慣れた花畑に寝転がり、ユンファスは空を流れる雲を眼で追っていた。
……どうにも家に戻る気になれなかったのだ。
風が吹くと、草花や土の匂いが、鼻をかすめる。馴染み深い自然の匂いに、そっと眼を閉じると、瞼の裏には風邪で苦しんでいるだろう人間の少女の顔が浮かぶ。
「かわいそう」
そんな言葉を呟いてみるが、正直、可哀想、という感情はよくわからなかった。
あの少女が苦しんでいるだろうことはわかるが、自分に風邪とやらの苦しみは、恐らく永劫理解できない。
自分たちはそんな風には創られていないから。
それに、「可哀想」なんて思えるほど、自分は普通じゃない。
「……僕、どうしたらいいんだろ」
右の手のひらで顔を覆って、ユンファスがそう言った時。
「悩み事かナ☆」
と、覚えのある声が頭上から降ってくる。
それに、手のひらをどけて声の主を見上げると、思った通りの人物がこちらを見下ろしていた。
「……スジェルク」
「うんうん、久しぶりだネ。ボクには劣るけどその美貌は落ち込んでいても安定だネ☆」
胡散臭くてナルシストなこの精霊を、ユンファスは嫌いではなかった。
別段好きとも言えないが、スジェルクに悪気がないことを、彼はよく知っていた。
「どうしたのー? 珍しいねぇ、スジェルクがこの辺りうろついてるのって」
体を起こして問うと、スジェルクは相変わらずの人を食ったような笑顔でこう返す。
「ソウ? ま、確かにここ最近は不在にしてたしネ☆」
「スジェルクってほんと自由だよねぇ。精霊にしては珍しいんじゃないの」
「アハ☆ ボクくらいの美しさになると、世界が放っておかないんだよネ!」
スジェルクが何を言っているのか、たまによくわからなくなる。が、ユンファスはその変わらない奔放さに笑った。
「で、なにー? 何の用?」
「用ってほどじゃあないケド。落ち込んでるみたいだから、ボクの美貌で励ましておこうかなっテ☆」
「あはは、落ち込んではないよ? 僕は基本的に、そういう感情に疎いし。ほら、壊れてるから、ねぇ?」
自嘲気味に笑ったユンファスに、スジェルクは相も変わらず感情の見えない笑顔を向けていた。
そして、懐から何かを取り出す。
「コレ☆ 直したの、ユンファスなんでショ?」
スジェルクが持っていたのは、一枚の手鏡だった。
あまり華美でないそれには、ユンファスも見覚えがある。あの少女が直してくれと言ってきて、修復してやったものだ。
「……なんで、スジェルクがそれを持ってるの?」
大事なもののように鏡を持っていた彼女が、スジェルクにあげたとは思えない。
そもそも、スジェルクはあの少女と面識がないはずだ。
今、精霊は誰も直接的に彼女と接触していない。
「それ、あの子のものなんだけど」
「アハ☆ 怖い顔しないでヨ! 別に彼女から盗んだわけじゃないヨ?」
「……借りたの?」
「ううん、借りてナイ☆」
「……」
「ヤダなぁ、そんな怖い顔しないでって、ネェ☆ ちょっと拝借したんだよ、」
やはり盗んだのか、とユンファスが何とも言えない気分にさせられた時。
スジェルクが、妙なことを言いだした。
「ルーヴァスの部屋カラ☆」
「……、は?」
ユンファスは咄嗟に、スジェルクの言葉の意味が理解できなかった。
「……なに。どういうこと? それ」
「アレ、いつもの明るい感じはどうしたノ? 怖いよ~、笑って笑っテ☆」
スジェルクは鏡を裏返したりしながら、「ボクもよくわかんないケド☆」と、話し出す。
「ルーヴァスの部屋に、同じものがあったんだヨ☆ あの子のものよりかなり古いケド」
そう言われてユンファスは手鏡をもう一度見直す。
確かに言われてみれば、経年劣化からなのかフレーム部分の木は黒ずみ、鏡面も縁の部分は少しだけ曇っている。あまり傷もなくきちんと手入れされているように見えるが、ルーヴァスが手鏡を持っていて、それが姫のものと同一というのは――
何か意味があるのだろうか。
「この型の手鏡って、流行でもしたの? 僕は手鏡みたいな小物の類に詳しくないから、わからないんだよね」
「ボクも知らナイ☆」
スジェルクのようなナルシストが手鏡を持っているのは理解できるが――、ルーヴァスの手鏡は何なのだろう。
彼がナルシストなようには思えないし、というかむしろ彼の場合は自分を卑下する傾向にある妖精だ。
「……、こればっかりはルーヴァスしかわからないかぁ。といってもスジェルクが盗んだことを説明しなければならないなら聞くこともできないけど」
「アハ☆」
スジェルクは悪びれもせず笑った。
「で、これ、ユンファスが直したんでショ☆」
「まぁ、その鏡じゃないけど。それが?」
「じゃあ、ユンファスはあの子のことが大切なんダ? 一銭にもならないのに助けてあげたいって思うくらいにハ☆」
「……」
それは、どうだろう。
直してあげたのは、――調べたいことがあったから。
それと、単なる気まぐれで。
……本当にそれだけだろうか。
彼女が鏡を直してくれと頼んできた時、酷い顔色をしていたのは、よく覚えている。
いつもどこか緊張しているような、困ったような顔をすることの多い彼女があの時、見たこともないほど衰弱したような顔でいたのは、記憶に新しい。
それは、良くないことだと、思った。
人間は嫌いだけれど、あの子は、そんなに悪い子じゃない気がするから。
だから、あんな顔をしたままなのは、良くないことだと。
直してあげたら、屈託のない――とまでは言えなくても笑顔になってくれるような気がして、その方がみんな喜んで、僕も安心できるような気がした。
だから、直してあげたのかも、しれない。
でも――
「……。僕は、大切とか、そういうことはよくわかんないかな」
それを認めたら、いけない気がした。
人間である彼女を、大切な仲間だと思ってしまうのは、“彼女”への裏切りのような気がしたのだ。
自分が壊れてしまったのは、人間のせいだ。
大事なもの、自分の全てだったものを奪い去って、こんな狂った人形になってしまったのは、人間のせいだ。
なのに、人間を“大切”だと、それを認めてしまったら――
ああ、でも。
あの子がよそよそしくなった時に焦ったのは、確かだ。
人間と妖精の歪な関係に傷ついた、この家での居場所を失ったような顔をしていた彼女に、元に戻ってほしかったのは確かな事実で。
「……僕は、」
あの子に。
「……泣いてほしくは、ないのかも、しれない」
「ソレが、“かわいそう”?」
「……聞いてたの」
「聞こえちゃっただけだヨ☆」
ユンファスは溜め息をついた。
ほんの短期間。
ほんの短期間、彼女と過ごしただけだ。
それなのに、こんな簡単に情が湧いて、まるでここにいて笑うことが当たり前のように思ってしまうなんて。
自分は何て、弱い妖精なのだろう。
「……。戻ろうかな、」
ユンファスがそう呟くと、スジェルクは笑みを深めた。
「ここにいても、……何も変わらないしねぇ」
「そうだネ☆」
シルヴィスと顔を合わせるのは少し微妙な気分だが、まぁいいだろう。
ここで悩んでいるよりも、ずっとましだ。
「僕、家に戻るね」
ユンファスは地面に手をついて立ち上がり、一度空を見上げた。
まだ、日は高い。
「……。花でも持って行こうかな」
ぼんやりとそんなことを呟きながら、ユンファスは家の方向へ歩き出す。
それを背後から見つめるスジェルクが、
「……それでイイ」
そう呟いたのを、ユンファスが聞くことは、なかった。
「なぁ」
「……」
「なぁってば」
「……」
「なぁおいシルヴィス。なぁなぁなぁ構えってーシルヴィいった!? おま、何すんだよ!?」
「少し黙りなさいやかましい」
「お前が辛気臭い顔をしているから、俺が励まそうとしてんじゃないかよ! なあなあシルヴィス、構えって俺ほんともう退屈で死にそう」
「なら死になさい」
「おま、唯一無二の親友に対してそれはないぞ」
「誰が親友ですか」
眼を閉じていたシルヴィスは、非常にやかましい男を一度睨んでから、木の幹に寄りかかって再び目を閉じる。
――彼のいる場所は、木の上だ。この場所からだと、あの家に出入りする者たちがよく見える。
今しがた、忌々しい金髪も家に戻っていくのを確認した。恐らく、今家にいない妖精は自分だけだ。
「なぁなんでそんな辛気臭い顔してんだよお前、子供が見たら泣きだして逃げ出すレベルだぞ」
「この周辺に子供がいるとでも?」
「いやいないけどさあ」
「ならどうだっていいでしょう」
「普通に俺が怖いわ」
「なら尚のことどうでもいいですね」
「お前、俺の扱いがことさらに酷くねぇ?」
昔も酷かったけどさぁ、という言葉を聞き流し、シルヴィスは目を閉じたまま沈黙を貫く。
「つかみんなもう家に戻ってんじゃん。俺らも戻ろうぜ」
「……」
「お前がここにいるなら俺もここにいるけどさぁ。え、ほんと何拗ねてんの? いいじゃん、カーチェスに謝れば。お詫びにパイでも焼いて差し入れればいいんじゃね?」
「……あなたが食べたいだけでしょう」
「いや、そりゃおこぼれくらいは欲しいけどさ?」
「パン粉でも拾って食っていなさい」
「ふざけんなおい、あと口悪くなってんぞ」
「……」
シルヴィスは不機嫌なまま再び黙り込む。
別に、拗ねているわけじゃない。
どうだっていい妖精に怒鳴られたくらいで、誰が拗ねるものか。だから、拗ねてなんかいないのだ。
ただ。
自分は、何を動揺していたのだろう。
自分のせいであの人間の少女が体調を崩したのだと、そう言われたときに――、どうして、「どうだっていい」と思えなかったのか。
……いや、わかっていたのだ。
自分は、こういう妖精だと。
とても意志が弱くて、関わればすぐに情が湧く。だから、誰とも関わらないようにしていたというのに。
あの少女が来たせいで、監視をしなければならなくなって、そのまま流されるように皆と関わるようになって。
その結果、こんな風に他の誰かのために悩ませられるなんて、最悪だ。
しかも、それが嫌じゃないなんて本当に自分は最悪だ、どうかしている。
そんなことを、考えていたその時。
「……!」
シルヴィスは不意にはっと目を見開いた。
「……銃声、」
シルヴィスがそう呟くと、男も頷く。
「ああ。……お前以外の銃使いが森のどこかにいるな」
シルヴィスはそのまま木から飛び降りた。男もそれに倣って地面に飛び降りる。
「探すか?」
「――ええ」
しかし、その必要は、なかった。
「!」
背後から凄まじい殺気が放たれ、シルヴィスはその場から飛び退る。
「……」
そこにいたのは、人間か妖精か、判断しかねるものだった。
黒いフードを深々と被り、黒い布で顔の下半分をすべて覆って、黒い外套と黒い手袋を身に着けて。
頭のてっぺんから爪先まで、すべてを黒で塗りつぶしたようなそれは、男か女かすら判別がつかない。
「……。まさか、鴉?」
シルヴィスがそう呟いた瞬間、ソレは何も言わずにこちらへと飛び掛かってきた。その手に、瞬時にハルバートが出現する。
シルヴィスはすぐに腰から銃を抜き、眼前に向かって引き金を引いた。
全身黒ずくめのソレは上方へと跳躍して弾丸を回避、さきほどまでシルヴィスたちがいた木の幹に降り立つ。
普通では考えられない跳躍力に、シルヴィスは顔をしかめる。
ソレはハルバートを消すと、今度はその手に銃を出現させた。そして、シルヴィスがそれを避ける間もなく、引き金を引く。
「シルヴィス!」
男の焦ったような声が聞こえた。しかし、その声に反応することは、できなかった。
「! ……っ、」
シルヴィスは、肩と脇腹に凄まじい熱を感じて、悲鳴すらあげられずにその場に倒れ込む。
シルヴィスは自身の近くに、ソレが降りたつのを辛うじて見た。そして、
「……」
無言のまま、ハルバートが振り上げられる。
――こんなところで。
……まだ、死ねない。
けれど。
「シルヴィス――――――ッッッ!!」
絶叫が、静かな森をつんざいた。




