61.apple
こぽこぽ、と小気味の良い音をたてながら、目の前でカップに紅茶が注がれていく。それをぼんやりと見つめながら、私はどうしてこうなったのかを思い返していた。
「外って、あの、私」
扉を開けて早々にルーヴァスの口から飛び出してきたお茶の誘いに、煮え切らない返事しか出なかった私。それだというのに、過干渉をしないルーヴァスにしては珍しく、やや強引に外へと私が連れ出されたのがつい数分前のこと。
外は春より少し季節が進んだ感じを思わせたが、良い陽気で、外で何かをするにはとても心地がいい。
私としては例の一件から、とてもそんな気分にはなれなかったわけだけれども。
それでもルーヴァスの手によって渋々家を出ると、外には何故かテーブルと椅子が配置されていた。そこにはハイティーセットの上に並んだ可愛らしいお菓子や、上品さを感じさせるティーポットやらカップやらが優雅に列をなしていて。
「あ、の」
「ここへ」
ルーヴァスに導かれ、彼が引いた椅子に、流されるように座る。
「今、紅茶を淹れよう」
そしてうららかな日差しの下、ルーヴァスは手際よく紅茶を淹れ始めた、というのが先ほどのことである。
「あなたの口に合うかどうかわからないが」
「あ、ありがとうございます」
なんだかよくわからないうちにとてもいい香りのする紅茶を目の前で注がれ、ソーサーが緩やかに差し出される。
受け取るままにそれを口元に運ぶと、華やかな香りが鼻先をくすぐった。たとえるなら、そう、花のような。
少しばかり瞬きを繰り返して口にしてみると、想像と違わず花の香りが鼻から抜ける。紅茶の渋さはあったが、華やかな香りが引き立ち、とてもおいしい。
喉を通る熱いそれにため息がこぼれ、「美味しいです」と呟けば、何故か私を眩しそうに見つめていたルーヴァスがやや頬を緩めて頷いた。
「……」
「……」
沈黙。
……。気まずい。気まずい以外の何でもない。
ここ数日あからさまに七人を避けていた私が今さら明るく話しかけられるわけもなく。
内心冷や汗をかきながら、それでもかける言葉が見つからず、私が不審者よろしく視線を右往左往させていると、今しがたまで香りを楽しんでいたルーヴァスが紅茶を口にした。
それはとても優雅で、ただお茶を飲んでいるだけだというのに、どこか浮世離れした光景だった。
柔らかな日差しが彼の銀の髪を美しく輝かせているせいで、彼だけきらきらとしているようにも見える。
それに、不覚にも私が見惚れていると。
「……その、わたしの顔になにか付いているだろうか?」
少し困ったような微笑を浮かべてルーヴァスが首を傾げた。
「あっ、いえ、別にそういうわけじゃないです」
「そうか」
ルーヴァスは小さくうなずくと、私にお菓子を勧めてきた。
「嫌でなければ、口にするといい」
「あ、ありがとうございます」
ここで食べないのもなんだか失礼な気がしたので、マカロンらしきものを一つ手に取ると、ほんの少しだけかじった。
「……おいしい」
「そうか、それならば良かった」
ルーヴァスは何故か少しだけおかしそうに笑い、軽く吐息をつく。
「あなたさえ良ければ、好きなものを食べて欲しい」
「あ、ありがとうございます……」
はて、何故私はお菓子パーティーに参加したようになっているのだろうか。
気まずくて礼しか言えていないのに、ルーヴァスはいたって普通だ。
「……」
私はマカロンを食べ終えると、肩を落として、うつむいた。
そんな私にルーヴァスの視線が向けられたのを感じたが、そちらを見ることができない。
私は人間だ。
彼らが忌み嫌う、人間だ。
だというのに、私が彼らに惚れてもらうなど、到底無理な話だ。
その前に、そもそも親密になることすらとてもできそうにない。
そもそも私は、あまり人とコミュニケーションを円滑にはかれない人間なのだ。
ぐちぐちと心の中で吐いていても、結局大事なことは腹の底から出すことができず人に流されるままの、何ということはない人間。
そんな私が、最初から好感度がマイナスに傾いているひとと仲良くなるなんて、絶対できるわけがなかった。
「……」
きゅ、と唇をかんでから、私は小さく息を吐き出して震えるそれを開いた。
「……ルーヴァスは、」
「……?」
ルーヴァスが首をかしげたのが何となくわかったが、顔を上げることはできない。
「どうして、私を受け入れてくださったんですか」
うつむいたままにそう問えば、ルーヴァスが言葉に詰まる気配を感じた。
しかしややあってからため息が聞こえ、
「……それは。……。美談でなくて申し訳ないのだが……あなたをそのまま街へ帰すわけにはいかなかったからだ」
ティーカップをソーサーに置いたルーヴァスは、言いづらそうに、訥々と話し出した。
彼ら七人はこの迷いの森を砦に人間から身を護っているのだという。
しかしその森へ容易く踏み込み、あまつさえ自分たちの家へと辿り着いた私は、相当異質な存在だったらしい。
ただの偶然で辿り着ける確率など極めて低い。何せ、森自体が、人間そのものを拒むようにできているようだから。
だから、私がなぜこの森を歩いていたのか、家にたどり着くことができたのか。この場所を知ってどうする気だったのか。
それが不確定であるままに私を手放すわけにはいかなかったのだそうだ。
それに、私を街へと返せば、この家へと辿り着く道を他の人間にばらして、狩られる可能性が考えられた。
だから、私を抱え込んだのだと。
「……それに……」
やはり言いづらそうにルーヴァスは言葉を濁すが、私が無言のままでいると、彼はあきらめたように言葉を口にした。
「丸腰の女性を夜の森に放っておくなど、できない」
「……私は、人間なのに?」
「種族関係なしに……女性は、基本的に戦には慣れていないだろう。鍛えているのならばともかく、あなたの細腕が剣を振るっているとも思えなかった。そんな女性を夜の森に放り出せば、獣に喰らわれてしまうかもしれない」
ルーヴァスが気まずそうにそんな言葉を口にするのを、私はどこか不思議な気持ちで聞いていた。
――多分。
私を受け入れたのは、前者の理由はもちろんあったのだろうが、後者の理由が、ルーヴァスの中では大きかったのではないだろうか。
私は“気を失っていた”ことになっているから“知らない”はずだが、あの時。
私が、この家に辿り着いて、行き倒れの真似事をしていた時。
――だが、相手は女性だ。あまりに無下ではないか
――待て、シルヴィス。あなたは薄情すぎるだろう
その声は、明らかに、ルーヴァスだった。
……彼は、人間を厭うていてさえ、私に手を差し伸べられるほど優しいひとで。
そして、ここでの居場所をなくしたと、勝手に落ち込んで勝手にみんなを避け始めた私にさえ、手を差し伸べられるほど、寛大なひとなのだ。
「……ルーヴァスは、変わらないんですね」
何故か目頭が熱くなったのを知らんふりして零れた私の呟きに、ルーヴァスが瞬きをする。
「変わらない、とは?」
「……その」
私に対する態度のことです、と小さく零す。
ルーヴァスは、最初から優しかった。
家を追い出されても仕方ないような態度をとった私に対して、彼はこうしてお茶を出してくれるのだ。
確かに、家を出たほうがいい、とは言われたことがある。
でも、あの言い方は私を憎んでというよりむしろ、私を心配して出てきた言葉のようだった。
彼は私を遠ざけようとしてはいるけれど、それは決して、私を嫌悪しているからではない。
どうしてそんなことができるのだろう。
私は彼らにとって憎い人間のはずなのに。
その人間を束ねている女王のはずなのに。
考えれば考えるほど気が重くなっていく私に、やや間をおいてから「……あぁ、なるほど」とルーヴァスが気付いたように声を上げた。
「我々が変わる要素は、ないだろう」
「要素が、ない……?」
顔を上げると、ルーヴァスはやはりどこか眩しげに私を見つめていた。
「あなたが人間であるという事実は初めから変わらないし、あなたが記憶喪失だったことが悪いわけでもない。今さら、何か変わる理由もないだろう」
「……それは」
そりゃあ、記憶喪失に罪はないかもしれない。
でも、人間という存在そのものが、彼らにとっては憎い対象なのではないのか。
なのに、どうして、ルーヴァスは。
私の口にこそ出さなかった疑問はしかし、顔にはきっちり出ていたらしい。ルーヴァスは朗らかに笑った。
「我々は存在が存在だからな。……あなた方を心から憎むことは難しい」
「難しい……?」
言われた意味が分からず反芻すると、ルーヴァスは小さくうなずく。
「そも、妖精というのは神々が人間のために作りだした存在だ」
いつかのリリツァスの話が蘇る。
妖精は神に創り出された種族であり、その昔、人間から神聖な者たちとして崇められていたこと。
しかし今はそんな人間も消え、神との直接的な繋がりも薄れているということ――
「神は人を創り、そして深く愛した。しかし人は力を持たない。だから人が自分の力で生きていけるようになるまで、手助けをする存在を神が創った。――それが、我々妖精だ」
妖精の存在意義は、人に尽くすこと。
だから、人を愛しこそすれ、憎むことは相当に辛いことなのだという。
それは、本能的な問題らしく、自分たちでは変えがたいものなのだそうだ。
「わたしだけでなく、皆が最終的にあなたを受け入れたのは、その本能のせいもあったかもしれないな」
そう言って、彼は少しだけ寂しそうに笑った。
「……ルーヴァスは……優しいんですね」
いい言葉が見つからず、結局出てきたのはありふれた言葉だった。
「そうだろうか」
私の言葉に、ルーヴァスはわからない、といった様子で首をかしげる。
「たとえ本能だとしても……それでも、自分の命を脅かすかもしれない人間を、助けようだなんて」
本能、は私たち人間にももちろんあるけれど、必ずしもそれに従うわけではないはず。
本能なんて生理的な感覚であるだけで、思考した後、本能とは違う行動だってとれるわけだ。
それに、私という存在が“危険”なら、本能に従う必要性はないはず。
それなのに、彼は私を迎え入れた。
それはやはり、優しいと言って間違いないはずだ。
……そう考えて、優しい、と言ったのだけれど。
「……」
ルーヴァスは、それに押し黙る。
失言だったかと彼を見ると、彼はどこか悲しそうだった。
「……そうだな。本来、そうなのだろうな」
「……え?」
本来? 何だ、それは。
言われた意味が分からなくて怪訝な表情を隠さぬまま彼を見れば、彼は微笑んだ。
「……私が優しいかどうかはともかく――他のものは、皆優しい。それは、確かだ」
ルーヴァスはそういうと、ティーカップに再び口を付けた。
「今のあなたは不安だろうが……それでも、我々のあなたに対する態度は、そう極端に変わりはしないだろう。良くも悪くも。だから、あなたはもう少し気を抜くといい」
そうでなければ辛いだろう、と彼は銀色の睫毛を伏せた。
「私は……その」
それに私は、良い返しを思いつかないために、率直に言葉を紡いだ。
「多分、怖いんだと、思います」
慎重に、自分なりの言葉を選ぶ。
「怖い? ……姫君の話だろうか?」
「いえ、しら……娘の方ではなくて。何というか。……死ぬことはもちろん怖いはずなんですけど、それ以前に……私の知らない憎しみが、私に向けられているのだろうかと考えると、怖いです」
だってそれは、私の身に覚えのない罪だ。
どうしようもない事実だが、しかし理不尽であることに変わりはない。
「……我々は……あなたを、あなたが思うほど、憎むことはできない」
「そうだとしても。自分のことが分からなければ、自分の罪もわからないし、どうすればいいのかもわからないし、怖いです。情けない話ですけど、私……もうあきらめようかなって、思ってたところでしたから」
「……は……?」
素直に私の心境を告げれば、ルーヴァスの目が大きく見開かれる。
「それは、どういうことだ?」
「皆さんに信頼してもらうこととかは、あんまり最初から期待してなかったんですけど。でも、人間と妖精の確執に関して、私が動いてすぐにどうこうできる問題とは思えないですし……この状態でこの家にいても、たぶん、皆さんに不愉快な思いをさせるばかりだと思って。そしたら、たぶん、ここから出るのも遠くない日かなって。この森から出たら多分、し……娘は確実に私を殺すでしょうから」
ルーヴァスが言葉を失って視線を彷徨わせた。
「……あなたは……死ぬ気か?」
にわかには信じられないといったようにルーヴァスが呆然と呟いた。
「死にたいわけじゃないです。生きられるものなら、そりゃあ生きたいです。でも、先が読めなくて、どうすればいいかわからないと、諦めもつい」
「やめてくれ」
私が笑い半分に話していると、ルーヴァスが悲痛な声でそれを遮った。
「……ルーヴァス?」
「あなたの口から、そんな言葉を聞くことになるとは……思っていなかった。そこまで、追い詰められていたのか」
「いえ、別に、追い詰められていたわけでは……」
追い詰められていた、というか、諦めが来てしまったというか。
ただ、胸の内がひたすらに重苦しくて、何もかもを投げ出したくなってしまっただけだ。
「……確かに、我々とあなた方は違う。その溝が簡単に埋まることはないだろう。……だが……」
ルーヴァスは吐き出す言葉を選び取っているようだった。ゆっくりと、自分に言い聞かせているようにさえ聞こえる丁寧な物言いで、私に告げる。
「あなたは、幸せになる資格のあるひとだ」
「……え?」
「あなたは、きれいだ。だから、幸せになる資格がある。あなたは、幸せにならなければ」
「え、あの、ま、待ってください」
今ルーヴァスは何て言ったんだ。
「聞き間違いですか。キレイだとかなんとか」
「いや、その通りだが。あなたはきれいだと言った」
「ど、どこをどう見たらそうなるんですか!」
突然のお世辞に頭がこんがらがる。今はナンパのお話をしていたのだったか。いや違うはずだ。それなりにシリアスな話をしていたはずでは。
「お世辞とかはいいです、ほんとに」
「世辞などではない。あなたは美しい」
ルーヴァスはおかしくなったのでしょうか。
「どう考えても皆さんの方が綺麗ですよね?」
「それは外見の話か? あなたの外見が悪いとも思わないが、私が美しいと言ったのは、外見ではなく、あなたの内側の話だ」
「はい?」
話の飛躍の仕方についていけない。
「あなたは我々と違う。幸せであるべきだし、幸せにならなければならないと、わたしは思う」
「いや、それは皆さんも同じですよね?」
「他の六人にも無論、幸せにはなってほしい。だが、この中で一番穢れていないのが、あなただろう」
ルーヴァスは紅茶を飲み干し、ティーカップをソーサーに静かに置いた。
「……だから、あなたはそのままでいて欲しいのだ。今のまま、穢れのない、あなたで――」
ルーヴァスの声には悲哀が満ちていて、私はどう答えればいいのかわからず、再び俯くしかない。
と、そこで。
どんっ、と鈍い音が私の横から上がり、びくりと肩が震えた。
何事かと横を見て私は……
「……は?」
随分と間抜けな声を、上げたのだった。




