56.apple
顔の数ミリ先に突き立てられた白刃、喉元に触れる冷たい感触、憎悪に満ちた双眸――
全身に感じる酷い圧迫感に、息もできない。
そうして永遠にも感じるような一瞬が過ぎた時、
「何してるの!?」
がちゃ、と扉が開くような音がした直後、見覚えのある人が私から男を引き離した。
「……カーチェス」
自然と口から名前が零れ落ちる。
すると、名を呼ばれた彼が泣きそうな表情になった。
「姫、怪我はない? 大丈夫?」
焦ったように傷の有無を確認した後、カーチェスは持っていた大鎌を放り出して「良かった……」と私を抱きしめた。
それから男を睨みつけ、言葉を叩き付けるように叫ぶ。
「クファルス、姫に何をしようとしてたの? 丸腰の女の子だよ!?」
「丸腰の女が人間に吠えるだけなら問題はねぇな」
「だからってやりすぎだ! わかるでしょ、彼女に敵意はないんだよ!」
男は目を細めて首を傾げた。そして酷薄な声で短く吐き捨てる。男の煙ったような色合いの灰色の双眸が残忍さをのせてぎらついた。
「半端者に言われる筋合いはない」
「……っ」
“半端者”。
その言葉にカーチェスが身をこわばらせるのがわかった。彼の唇がわずかに震え、小さなかすれた吐息が吐き出される。
そのさまを見た男はしかし、全くその様子を意に介することなく続けた。
「あんた、そいつに自分でも重ねてんのか。街で生きていて、追われたところが似てるか?」
追われたところ……?
何のことかと抱きしめるカーチェスを見上げれば、彼の顔は蒼白だった。
「俺は……」
「俺はあんたがどうなろうがどうでもいい。知ったこっちゃねぇ。だがいいか、これだけは言っておく」
ギロッと男がカーチェスを鋭く睨み付ける。そして、
「他を危険にさらすような真似は俺が絶対に許さねぇからな」
男は自分が持っていた鎌――先ほどまで私に突きつけていたものだ――をカーチェスに向ける。
それは明らかな敵意だった。
私に向けるのと同じくらいに強い、敵意。
しかしカーチェスはそれに顔をゆがめて、無言のまま私をさらに強く抱きしめるだけだった。
何の反論もせず、ほんの少し震えた腕で、私を包み込んでいるだけで。
どうしてだか、その様子が痛々しいほど――彼にはあの家の妖精の仲間たちがいるだろうに――孤独に見えた。
「やりすぎです」
そう言ったのはいつのまにか戻っていたらしいシルヴィスだ。鎌を突き付ける男の肩に手をやり、鎌を下げるように促す。
男はシルヴィスを振り返ると鎌を下げ、
「お前も何言われてそんだけ絆されたんだ、あ?」
「絆されたんじゃありません、見くびらないでいただけますか。そもそもがルーヴァスの指針です」
シルヴィスがそう告げた途端、男は眉をひそめた。
「はぁ? あのお人かよ。何考えてんだ」
「利用価値があると言ったでしょう」
「あぁ、昨今動きの怪しい貴族に売り飛ばすってか? 口止めを条件に。その前にこいつの喉を潰して手を切り落とさねぇとならねぇな。耳や目を削ぐのも必要か」
何を言われているのかが理解できない。
売り飛ばす。喉をつぶして、手首を切り落として、耳や目を削いで――
当たり前だが、全部、私に対しての言葉だろう。
死ななくても、そんな目に遭わなければならないのだろうか。
自分の意思も何も伝わらない、そんなの、生きているって言っていいのだろうか。
誰かの言葉も聞けず、自分の言葉も伝えられず、何も触れられず、何も見えない。
私は、真っ暗な中、一人ぼっちでそこにいる――
知らず、がちがちと歯が鳴った。ちっとも寒くはないのに、全身が恐怖で震えだす。
「やめて、姫が怖がってる……!」
カーチェスは私を落ち着かせるためにか、つらそうな表情で私の背中をぽんぽんと緩くたたく。そして、
「大丈夫、俺がそんなことさせないからね」
絶対に、と耳元でそっと柔らかくささやかれ、私は思わず彼を抱きしめ返した。
なんだか体温を直に感じて、少しだけほっとする。
彼は、少なくともこの場で私に敵意を持っていない。
だから、彼は安全だ――そう思って何の抵抗もなく、縋るように抱きしめ返したのだけれど、
「カーチェス、貴方、女性に軽々しく触れるのは失礼だとか何とか言っていませんでした?」
シルヴィスが片眉を跳ね上げてそう告げると、カーチェスは、はたと我に返ったように顔を上げた。
それから真っ赤になり、あわてて私を解放する。「ご、ごめんね。嫌だったね」と謝りながら頭を下げる彼に、「別にいやでは、ないですけど……」と返せば、彼はますます赤くなる。いや、乙女ですか。この場合私が赤面するのが筋ですよね。そんなに私は乙女じゃないですけど。まぁそれでも一応、生物学的に女はあなたじゃなくて私なんですけどね?
つらつらと失礼にも程があることを、なぜだかやけに冷静に頭の中で並べ立てる私とは裏腹に、カーチェスは顔を赤くしたり青くしたり、何だか痛ましくなるくらいに申し訳なさげだった。
それにシルヴィスが半眼で「はぁ……意外とカーチェスってたらしなんですね。この変態」と呆れたように言うと、カーチェスは全力で反論し始める。
「ち、ちが……っ、これは、その」
とはいえ、咄嗟にはあまり言葉も出てこなかったらしい。弁解の言葉に詰まり視線を泳がせる彼に、シルヴィスは追い払うような手の仕草で彼の言葉を振り払う。
「あーはいはい、御託は結構。いちゃつきたいならどうぞご勝手に」
「違うよ、ちょっと、シルヴィス! おかしな風に誤解しないで」
「わかりましたから黙ってください、男の赤面を見ても楽しくありません」
シルヴィスが、つん、と顔を背けた途端、男が首を傾げて片眉を上げた。
「なんだ、女の赤面ならいいのかお前」
「ご自分の銃弾をご自分の身体で試したくなりましたか、クファルス?」
シルヴィスがひきつった笑顔で男のこめかみに銃を突きつける。
なんだか一気に怖い雰囲気が吹っ飛んだ。
……いやまぁ私にはその方がありがたいのですけれども。
何にせよシルヴィスが今にも本当に銃を撃ちそうだったので、私は話を戻すために「あの、」と声をかけた。
すると全員の視線が一気に私に突き刺さり、物凄く居心地が悪くなる。何だか悪いことをしたような気分だ。
シルヴィスが銃を下したのを確認すると、私は口を開いた。
「本当に、ごめんなさい。私、言っていなかったことが、あって」
「……言っていなかったことって、なに?」
カーチェスがいまだにはにかみながら、柔らかく訊ね返してくれる。
それに、私は口にした。
一番最初の日に、言えなかったこと。
言うはずだったのに、言わないでいたこと。
この言葉を使えば、もしかしたら、私の不自然さも少しは理解してもらえるのではないだろうか。
「私、」
それはあの日、リオリムが提案してくれた言葉で。
「記憶喪失、なんです」
……場が静まり返り、誰もがぽかんとした表情で私を見る。それからややあって、
「……は?」
全員の口から、間の抜けた声が一つ、こぼれた。
天音です。
そろそろアンケートを閉め切ろうかなと思っております。
申し訳ございませんが、制作に時間がかかっているため、特典は今しばらくお待ちくださいませ。
それはそうと、事態が変わりそうな最後の主人公の言葉。
元々リオリムとの打ち合わせで言おうとしていたことでしたが、身元が分かっているため、言っても意味がないのかと言わないでいたことですね。
“記憶喪失”。
この言葉に妖精たちはどんな反応を示してくれるでしょうか。
次話、皆の様子はいかに。
ゆるゆると、お待ちくださいませ。




