95.apple
私の不調は、驚くべきことにその次の日には綺麗さっぱり、何事もなかったように消え去っていた。
まるで、みんなからの看病と、それから気持ちが解ける瞬間を待っていたというようなすばやさ。私は朝起きてすぐに、自分の身体の回復を――もしかしたら、風邪になる前よりも快調な身体の変化を――感じていた。
「……現金、というべき?」
ふふ、と笑って、私は体を起こした。
ふと気付けば、上から――恐らく一階からは、足音が聞こえる。多分、誰かがもう起きているのだろう。
この部屋は地下で、窓がない。だから、時間の感覚がないので正直今がいつなのかはわからない。
みんなに「おはよう」と言いに行こうとベッドから降りようとして、しかし私はその前に枕の下の手鏡を取り出した。
「リオリム」
鏡面が揺らぎ、黒い背景に水色の髪の青年が浮かび上がる。
「おはよう」
『おはようございます、お嬢様。――顔色が、戻られましたね』
「わかる?」
『はい』
にこりと品よく微笑む彼に、再度の快調を認識させられ、私は自然と笑顔になる。
「みんなに、挨拶と改めてお礼を言わなくちゃ」
『……行ってらっしゃいませ』
私は手櫛で髪を梳き、風呂場で顔を洗って、一階に上がった。
リビングには、ノアフェスとルーヴァスがおり、何事かを話していたようだった。そこに、おずおずと
「おはようございます」
と、微笑んで挨拶をすると、一瞬二人の動きが止まった。しかしすぐに二人の顔が安堵を滲ませて綻び、駆け寄ってくる。
「おはよう。……悪くない顔をしてるな」
「おはよう。もう、大丈夫なのか?」
「はい、おかげさまで。風邪になる前よりいいくらいですよ」
と言って笑いかけると、二人とも柔らかく目を細めた。
「そういえば、シルヴィスは?」
「彼も問題ない。日常生活の動作にも支障はないだろう。仕事は入っていないし、激しい運動をするわけでもないから、数日で全快するだろう」
「良かった……」
私がほっと胸をなでおろしていると、突然ガバッと頭を乱暴につかまれた。そして、滅茶苦茶にわしゃわしゃされる。
「うわ、な、何を」
「うむ、動きも元通りだな!」
そう言うと、ノアフェスは髪を梳き直そうとする私に構わず、私の両脇腹辺りを掴んで上に持ち上げた。
「よくやった。よくやったぞ姫! 高い高ーい! うむ、お前は立派だ!」
「なん、何これ、いや、あの、あぶな」
危ないです、と言おうとした瞬間、
「ごぉッ」
何かにぶち当たった頭の鈍い音と、自分の口から吐きだされた色気の欠片もない声が響き、私は一瞬世界が真っ白に染まったように感じた。ぐわんぐわんと尾を引く痛みに、何が起こったのかが理解できない。
「姫!」
慌てたようなルーヴァスの声と、「む? 何か当たったぞ……?」と呆然としたノアフェスの声。
いや、ノアフェス、ノアフェスこのやろう、と一瞬思ったが、視界が戻った次の瞬間。
「ひゃっ?」
鼻先にノアフェスの顔があり、私はまたも奇怪な声をあげる。どうやらもう降ろされてはいるらしいが、両肩を掴まれて顔を覗きこまれているらしい。
「……意識は失ってないな」
赤い左眼が、私を見つめていた。私の世界で、普通の人間にはない色。その不可思議さに囚われるように見つめ返していると、ふと彼の右眼を覆う眼帯が目に入った。
いや、正確には眼帯ではない。その眼帯の下にある、奇妙な痕だ。
……何だろう? まるで、深い切り傷のような。
「ノアフェス、姫は人間だ。もっと丁重に、」
「うむ、すまん」
私がぼんやりと彼の右眼を見ていると、ルーヴァスの声に反応したノアフェスが、私の足元を確認してから手を離す。
「姫、大丈夫か?」
ルーヴァスが気遣わしげにそう問うので、私はまだ頭が痛むものの「大丈夫です」と苦笑を返した。
「お二人、今日は早いんですね」
「いや、早くはないな。時計を見てみなさい」
ルーヴァスが指さす先、大きな柱時計を見てみると、恐らくこれは、昼時を少し回ったところだ。なるほど、全然早くない。
「私が寝坊をしたんですね……申し訳ないです」
「いいや、あなたは病み上がりなのだ。こういう時くらい、しっかり休んだ方がいい」
「ありがとうございます。……他のみんなは、二階ですか?」
「いや、シルヴィス以外は外に出て果実や薬草を探している。あなたの食事を考えて、精のつくものを探しに行ったようだな」
これはまた、申し訳ないことになっている。
「シルヴィスは、寝ているんですか?」
「一応そのはずだが、彼がただ寝ているだけというのも些か考えにくいな。自室にいるだけで、起きているだろう」
なるほど。それなら、シルヴィスの所に行って、全快した旨を伝えてこよう。
「二階に行ってきます。全快の報告に」
「ああ、行ってらっしゃい。病み上がりなのだから、くれぐれも無理はしないように」
ルーヴァスはうなずき、椅子に座ってノアフェスと何事かを話し始める。
それにしても、ルーヴァスはあれから、なんてことはないようにふるまっているが、鴉との一件に関しては落ち着いたのだろうか。
今の私がどうであれ、鴉とつながりがある私をこのままここに置いておくことは、彼らにとっても良いことではないだろうに、みんなは今のままでいいのだろうか。
二階に行く道すがら、ノアフェスと話すルーヴァスの顔をちらりと盗み見る。
しかし、いつも通りの怜悧なその表情からは、何も読み取ることはできなかった。
「シルヴィス、起きていますか? 今、大丈夫ですか?」
私が声をかけると、「少し、待ってください」というシルヴィスの声が聞こえ、少し遅れて椅子を動かすような音が響いた。やがて扉が開き、シルヴィスが廊下まで出てきた。
「……もう良いのですか?」
「はい、おかげさまで。寝込む前より元気なくらいです」
「そうですか。……良かったですね」
ほんの少し、滲むようにシルヴィスが微笑を浮かべた。それは嫌味も何もなく、あまりに唐突に浮かべられたので、私は思わず呆けたように見惚れる。しかしすぐにそれは不可解そうに歪められ、
「……何ですか?」
「いえ、あの。……シルヴィスも、そんな風に笑うんだなぁ、と」
私が正直にそう告げると、シルヴィスは片眉を吊り上げて
「はあ、そんな風、とはどんな風でしょう。わたくしは普段からとてもよく笑いますが?」
と、とっても綺麗な――嫌な予感のする――笑顔を浮かべた。
「あ、いや、何でもないです。それよりシルヴィスは! シルヴィスの体調の方は! どうですか!」
乱暴に話題を転換しようとすると、シルヴィスはやや不満げな顔をしたが、すぐに気を取り直したのか、
「別に、貴女が心配するようなことは、何も」
と、短く言う。
「どこも痛みませんか? 血が出たりとかも?」
「ありませんよ。貴女は心配しすぎですね。言われたのではないですか? 妖精は基本的に、その場で死に至るような傷でなければ、死にはしないと」
「それは、言われましたけど……人間の常識からはかけ離れすぎていて、想像がつきません」
「ならその、ない頭を絞って想像しなさい。貴女がむやみに心配するようなことはないのですよ」
平常通りにきついその物言いは、しかし多分私を気遣ってのものだったに違いない。
そう言うと、シルヴィスは廊下の奥の窓を見て、
「また雨ですか」
「そうみたいです。洗濯物が乾かない季節なので、嫌になりますね」
「……貴女、病み上がりのくせに洗濯物など気にしているのですか」
「いや、気にしますよ。病み上がりだからこそ、私が休んでいた分の洗濯物はどうしているんだろう、って気になるわけじゃないですか」
「一応、その辺りは多分リッシャが……」
「リッシャ?」
聞き慣れない言葉に、私が思わず反芻すると、シルヴィスは「しまった」という顔になる。
「あ、いや、言ってはいけないことなら聞かないです」
「……。いえ、大したことではないのですが。一応、ルーヴァスに了承をとってから話します」
「あ、はあ」
別に大ごとなら聞かなくてもいいですけど、と言おうとして、一応は自分が命の危険にあることを思い出す。貰える情報なら貰わない手はない。何だかんだで自分が平和ボケしている事実に思い至り、少しだけおかしくなった。
目の前にある現実は泣くほど無慈悲なのに、周りにいる人たちが守ってくれているこの平穏は、現実から目を逸らさせるに十分すぎるほどだった。
「……お聞きできるなら、で、大丈夫ですから」
私は、積極的な姿勢は見せないながらも、聞けるなら聞いておきたいという意思表示はしておくことにした。
「あ、そうだ。私、ちょっと外に行ってきます」
「は? 外?」
「私のために皆さんがいろいろ探してくださっているみたいなので」
「……。貴女、一応病み上がりだという自覚はあります?」
おっと、ルーヴァスにもそんなことを言われたのだった。
「そう言えばそうでした」
「……」
胡乱げな眼差しを向けられるも、正直仕方ないと思う。だって昨日までの不調は嘘かというくらい、全然身体の方に何の問題もないのだ。
「あまりお転婆なのはいかがなものかと思いますけど」
「お転婆なつもりはないんですが……一応、気をつけます」
私の曖昧な返答に、シルヴィスは呆れたようにため息をついた。
「なら、外へ行くのはやめておきなさい」
「そうですね。やめておきます。そしたら……料理当番でも代わろうかな……」
「……。貴女、大人しくするという意味を何か履き違えているのではないですか?」
「そうですか? そんなつもりはないですけど」
「今日一日くらい何もせずに寝ておきなさいと言っているのですよ」
「……えっ? 何でですか。割と前よりも元気なんですけど」
「それで風邪に再び罹って死なれると、こちらが迷惑なのですが?」
流石にそんなことにはならないと思うけど。
まあでも、実際ならないとは言い切れない。私は小さくうなずき、
「確かに、それもそうですかね?」
「ですから寝ておきなさい」
「いや、でも寝すぎたせいで眠気はないんです。下でお茶でも淹れようかな」
「……」
シルヴィスはまたため息をつく。
うーん何だろう。この果てしなく馬鹿にされている感じ。
いやでもあれだ、シルヴィスから馬鹿にされるのをいちいち気にしていたら、私は多分生きていけない。
ここは図太く行こう。
「シルヴィスも、お加減がいいならお茶をどうですか?」
「……。はあ。わたくしが淹れますよ」
彼はそう言うと、「来なさい」私にと言って一階へ降り始めた。
「うむ、シルヴィスおはよう」
「おはようございます。といってももはや朝ではありませんけれど」
「おはよう。その様子なら、傷はかなり回復したようだな」
「お陰さまで。わたくしよりも、彼女の方がよほど無茶をやらかしそうですよ」
「酷い風評被害」
「事実でしょう」
他愛もないことを言い合っていると、ノアフェスが「そういえば」と懐から大きな紙を取り出した。
「何ですか? それ」
「新聞だ。知らないのか?」
「王族なら新聞など縁がないのでは?」
「いや、知ってます。さすがに知ってます。ただ聞いただけです」
なるほど新聞か。
ここにいては街の情報も手に入らないし、可能なら後で借りてみようかな。何か白雪姫の動向とかわかるかもしれないし。
と、その時。
「……うん?」
ノアフェスは、その新聞記事を見てぼんやりと首をかしげる。
「ノアフェス?」
「何か面白い記事でもあったんですか?」
ルーヴァスと私の声に、しかし彼は答えない。
やがて、
「……まずいんじゃないか?」
と、ぽつりと呟く。
それに、ルーヴァスは少しだけ、顔をしかめた。
二か月。
いやぁ、凄いですね、やる気はありました、やる気は。ただちょこっと書けなかっただけですよね! はは!
……お久しぶりです。はい。忙しさにかまけた数字とか言わないで。
さて、久々の更新ですが、実は次回、急展開となります。次回からというべきですかね。
そんなわけで、今回は珍しく次回予告でもして、あとがきも終わりにしましょうか。
――次回予告――
「……確かに良くは、ないな」
「間違いなく、あなたのことだ」
「……悲しくは、ないです。ただ、どうしたらいいのか。わから、ない」
「まるで廃城だ」
「戦争に発展することも想像に難くない」
「お前、正気か?」
「カーチェスが女装すれば?」
「……ん?」
次回、96.apple、11/12投稿予定。
お楽しみに。




